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★271日後に軽キャン生活するぐっちー★「自己紹介②」


こんばんは。ぐっちーです。だいぶ暖かくなってきましたね。
私は春を迎えるこの気温が好きです。
風に揺れる木々や散りゆく桜、節目を迎えて増える人の流れ、なぜか明るさを帯びる人々の心情が、じんわりと変化していくのを、
日光を浴びることで、自分もまた例外でなく何かが変化しているのだと、感じ取ることができます。

改めて自己紹介②

小学校 高学年時代

時代は私が小学4年生だった頃に遡ります。
当時は、学年のいじめっ子集団から、トイレに入った際に水をかけられたり、すれ違いざまに腹を殴られたり、朝の登校時にずっと付き纏われて暴言を吐かれたりしていました。
毎日家に帰っては「なんで生きなければいけないの?」と親に泣いていました。

当時は怖くて、理由を直接明らかにすることは叶いませんでしたが、
恐らく僻みから来るものだったのではないかと思います。

身体的にも、精神的にも
悲しかったし、辛かった時期でした。
「いつまでこのいじめは続くのだろう?」
「中学に上がっても、いじめられっぱなしは嫌だ」
自分の中でぐるぐると考えてしまい、絶望していた中で、私は一つの結論に辿り着きます。

「中学受験をしよう」と。

親には問題なく承諾してもらえました。
受験費や塾に通う費用もあったと思うけれども、何一つ嫌な顔することなく首を縦に振ってくれたのは、今でも本当にありがたいと思います。

そこから塾に通い、受験のための勉強に励むこととなりました。
今思えば、私にとって「勉強」は分かりやすく「人から褒めてもらえる」もので、周りの期待に応えられる「自分を表現する手段」だったような気がします。

そして無事に第一志望の私立中学に受かることができました。
それはつまり、僕なりの手段で「逃げ出す」ことに成功したということでした。

中学・高校時代

私立学校というのは、皆さんどんなイメージでしょうか?

私が通った学校は中高一貫で、更には一度入れば大学までエスカレーター式に上がれる。インターンや留学などの外部連携もしっかりしてたし、部活も力を入れている学校でした。教育環境的に何も文句は無いような学校でした。

これだけ聞けば、私の中高生活は順風満帆にいきそうなものですが、実際はそうもいきませんでした。
確かに、小学校のようないじめを受けることは無くなりました。
しかし、今度は「目立つといじめられる」というトラウマから、入学しても友達を作ることができなかったんですね。
休み時間もうつ伏せて寝るわ、昼ご飯は食堂の隅に逃げるわ、
という逆にクラスでも全く人と話さない暗い生徒になってしまったんです。

習慣というものは恐ろしいもので、一度クラスメイトと話さなくなってしまった私は、話を切り出すことも中々できず、「自分を出す」ということを我慢し続けて毎日の学校生活を送ることになりました。いわゆる「コミュ障」になってしまったんですね。

小学校とは違った負担で、砂のような細かいストレスが長年かけて堆積するイメージです。気付かぬうちに積もった重い砂を動かすことは至難の業。

「やり直せるなら入学当初に戻って皆に話しかけて見たい」
ずーっと、そう思いながら気づけば高2の夏。大学受験の準備を始めなければという季節でした。

大学受験

私の通っていた学校は、大学に内部進学ができる学校でした。
実際、7割方の生徒は内部進学の進路を取っていました。

しかし、私は「内部進学で大学に行けば、今までの自分を知っている人たちだらけだ」「環境を変えて、今までの自分を知らない人たちの中で、一からやり直したい」という気持ちから外部の国公立大学受験を決めます。そこから私は、高校の中でも特進クラス入りを果たし、大学受験に向けてひたすら勉強するのでした。
当時の三者面談で「小説家になりたい」と言ってしまうほど、日本語や文章というものに興味があった私は、大学も「言語学を扱う学科に入りたい」と思っていました。

しかし、私はそこで自分の力の無さを感じることとなりました。

大学受験に失敗したんですね。
親から浪人の資金は無いから、もし受験に落ちた時は諦めて附属の大学に入学することを言われていました。
なので、私は行きたかった言語学の学科を諦め、そして今までの自分を知る人たちが沢山いる附属の大学に入ることとなってしまいました。

大学時代

大学は高校のすぐ隣。あまり新鮮さも無いまま入学式を迎えました。
ただ、その時の私は「ここで何か踏み出さないと、中学と同じ過ちを犯してしまう」という恐怖から、コミュ障を脱せられないまま同じクラスの人に「友達になってくれませんか?」と大マジメに声を震わせながら聞いた覚えがあります。
これは私にとっては大きな一歩でした。

結局、その子とは付かず離れずぐらいの関係となりましたが、友達と呼べるような間柄にはなれなかったと思います。
そこからは「なんとかして友達を作らねば」とある種、使命感のようなものでサークルの新歓などに色々と飛び込んでみました。

最終的に子供の頃からやっていた硬式テニスのサークルに入ることになりました。
そしてこれが、良い意味でも悪い意味でも、大学4年間のほとんどの時期を費やすこととなります。

良い意味、というのは私が私を晒け出せられる環境だったこと。
とても親切で気さくで面白い人たちに囲まれ、お互いの性格などイジったりイジられたり。好きだったテニスのサークルということもあり、人に教える役割をもら得たり、心から「自分の居場所」と感じられるような場所でした。
今まで友達を作ることに苦労してきた私からすると、お互いに毎日を楽しめる「仲間」たちがこんなにもいることが幸せだったのだろうと思います。

悪い意味、というのは学業を疎かにしてしまった(せざるを得ない環境だった)こと。サークルの規模が小さく、運営をしていくには授業を削ってサークル活動を優先せざるを得ない状況でした。さらに運営のこととなると上下関係が厳しく、先輩から理不尽に叱られたり非常識的な激しいメニューをこなすことも多かったです。
更に(世間のイメージ通りかもしれませんが)、大学の中でも一、二を争う程に飲み会が多く激しいサークルでもありました。おかげで時間もお金も健康も、犠牲にしていたと思います。
実際それで辞めていく部員も多かったのですが、私は「せっかく自分を受け入れてくれたこの環境を出ることはできない」と縛られてしまい、気づけば新しいことに挑戦することは少なく、3年間程を終えていました。

今思えば、学生の間でしか出来ないことや、自分がやりたいことをしっかりと考え、真面目に向き合う必要があったと少なからず後悔してしまいます。

就活〜卒業

そして、気づけば就活の季節。
ゼミでは最低限の卒業論文を書くための研究。
ほとんどサークル活動しかしてこなかった自分は、自分が何に興味があるのか分かりませんでした。
当時就きたい職種も見失っていた私は、とりあえず片っ端からインターンや説明会に足を運びまくりました。(今思えば、自分の行動力の片鱗が現れていたなと思うのですが、一日5社以上受けたり面接したりとか普通にやってました。)
多種多様な業界・職種を見て体験して、結局私は「どれも魅力的だ、選べない」となってしまったんですね(ジャムの法則かな?笑)。
なので私は、「選べないなら全てに関わる業界に入ろう!」と考えました。
その結果、絞られたのが「インフラ」「物流」「マテリアル」などの業界でした。

最終的にガソリンスタンドの会社に就職するのですが、これも1年半ほどで退職することになります。
その経緯はまた次回の記事で。今回はここまでです。

③に続く

<<<あと271日>>>
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