見出し画像

★キャンピングカー生活まであと98日★「美徳を求めすぎるな」

こんばんは。
いかがお過ごしでしょうか?
ぐっちーです。

今回はとあるきっかけから「美徳」というものを考えてみました。

それは過去ディズニーで水上スキー事故が起きた時の日米での対応の差という話を聞いて。
(正直、これが本当なのかどうかのソースはあやふやなので、あくまで考えるきっかけ程度に思っている)

着ぐるみを着た園内のキャラクターが事故で水に落ちてしまった時に、

米国ではすぐさま周りが救助に向かい、すぐに着ぐるみの顔の部分を外して人工呼吸する対応に至った。

対して日本の場合は、着ぐるみを着た本人が自力で岸まで泳いで自分の力で一命を取り留めた。

結果的に大ごとにならなかったから良いが、服を着たまま水に入るというのはかなり危険なことだそうで、頭まですっぽり入る着ぐるみなど言語道断だろう。

しかし日本ディズニーが、着ぐるみの頭を外さず「中の人」の存在を露わにしなかったのは「プロ根性」として世間の一般人に称賛されたらしい。

だがディズニー本部からしてみれば「プロ失格」であるという。

そりゃそうだ。私はどちらかというと此方の意見に賛同。

ディズニーがいくら世界観にこだわって守るべきものが多いとはいえ、人の命に勝るものなどない。
この事故は本当に不幸中の幸いなだけであって、運営、スタッフとしては、プロ失格の対応ということだ。

話を戻そう。

美徳という言葉自体に「こうあるべき」という、英語で言えばshouldの意味合いが含まれているような気がする。

こういう含みを、私は居心地悪く感じる。

「良いとされること」を素直に称賛したりできる人の態度はとても好ましいと思う。

でも日本人特有の同調性というか、一方的目線しか持たない部分による危険性も孕んでいるような気がする。

「良いとされること」を良しとしない人の存在もあることを考えているだろうか。
この世には様々な背景や信条の人たちがいる。

美徳の裏には、見えていない陰が存在している可能性がある。
一度マジョリティが「こうあるべき」という方向を見出してしまうと他の意見を排他的に捉えてしまう。

「こうあるべき」は同時に「こうあるべきではない」を生み出してしまっている。

それは推奨ではなく排除になってしまう。

現代では多様性が認められてきている?
本当にそうだろうか。

そして、他人に「美徳」を求めすぎる節が現代人にはあると思う。

もちろん犯罪などは許されないが、人間なんだから多少モラルに反することや正義的なことから逸れることだってあるし、完璧な人間など存在しない。

つまり例えば「美徳」に反する行動をしたAさん対して、誹謗したBさんがいるとしよう。

そのBさんは完璧な人間だろうか?
答えはもちろん、NOだ。

もはや「美徳」に反する行為を叩くことによって、さも自分を「美徳」を普段から行なっている人間かのように対比して、演じている人もいる。

そして何より頭に入れておかなければいけないのは「美徳」が必ず100人全員に同じように認められるものではないというものだ。

人の価値観は必ずしも全て一致しない。
というかほとんどが一致しないことの方が多い。

最近、私はYouTubeでニュースを見る。
例えば少年犯罪のニュースに対して、「実名を報道しろ」「顔を晒せ」というコメントをよく見る。

もちろん犯罪は良くないものなんだけど....匿名性ゆえ、自分たちとの立場の違いを認識し怒りに変換される気持ちも分からないではない。

しかし。

ネットでこういうコメントする人たちも匿名なのよ。
人のふり見て...我がふり見てますか、どうですか。

匿名性の危険性っていうのは昔から言われてきたけれど、最近どんどん過激になってる気がします。

みんな、血の気多くない?大丈夫そ?落ち着こ?
って感じです。

「美徳」に限らず、この世の基準なんて人それぞれ...というか人が作り上げた枠組みに絶対なんて無いんだからさ。そういう前提で物事を多角的に冷静に見ようよ。

先述した通り、100人に認められる美徳など無い。

せめて自分の軸をしっかり持って、人につつかれても自信を持って、堂々と名前も顔も出して、その上であなたの美徳を主張されたらいかがですか?
そう思います。

話は飛躍しますが、今の現代、完璧を求め過ぎている気がします。正解を求めすぎている気がします。

僅かな綻びも許されない。
一つの失敗も許されない。

そんな世の中の動向を恐れて、自分は完璧だと言い張る人もいる。
それって窮屈で、私からすればとても幸せに見えない。

完璧主義は生きづらいよ。
私もどちらかといえば完璧主義な方。
だからこそ意識して完璧にならないように行動しています。

中途半端といえば聞こえが悪いけど、それは自分に余裕を与える。
その余裕は視野の広さにつながる。
視野の広さは相手の気持ちを推し量る技術になる。
そして相手のためになることを考えてGiveする。

そしてそのGiveは自分にも幸せの感情をもたらす。
これこそ私が考える「幸の連鎖」です。

「優しさ」は色々なことの基盤になりうる。
とにかく優しく、優しく。
全てをとは言わない、でもできるだけ受け入れてあげる。

何かこれだけは、っていう美徳があるとすれば、
戦争しないことだと思う。

もし勝っても、負けても、すっきりした気持ちにはならない。誰も心からは得しないんだ。

お金とか土地とか権利とか、奪えるものがあるだろう。
でも根本で人の心が豊かになることは、ない。


だからこそお互いに、隣の人、隣の国、自分と違う生き物なんだって気づいてあげて、認めてあげて、お互いの目線をどちらも認めてあげる。

いろんな見方があって、それは自分にも言えることなんだって考えていけば、自然にみんな優しくなれるはずだから。

この世が平和でありますように、って本気で思います。
美徳というのは自分が信じられればいい。
だけどそれは絶対誰かからは違うと言われる。

そういうもんだ。
適度に放棄しよう。
適度に甘えていい。

完璧は疲れちゃうから。

<<<あと98日>>>
絶対なんて絶対ない

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?