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★キャンピングカー生活まであと167日★「本気の感動」

あした何の日?

こんばんは。
この間まで大好きなバンドのライブに行ってました。そこで個人的で超どうでもいい発見をしました。

この上なく感動すると「顎が震える」ということ笑。

これは私だけでしょうか?笑
是非コメントで教えてくださいね。

ということで今回の記事では「私ってどういう時に感動してきただろう」ということを振り返ってみる回にしてみようと思います。

1.泣ける曲を聴いた時/泣ける作品に出会った時

一番記憶に新しいのはこのケース。
「あぁ、感動するなぁ」と感じること、その中でも本当にこれ以上ないぐらい胸がギュッと掴まれて揺さぶられて涙が溢れるとき。
唇を噛みしめながら、ぼやける視界が更に感動を助長してくる。

泣ける作品って何で泣けるかっていうと、自分の経験や周りの環境・知り合いの状況に重なって、色々と考えてしまうからかもしれない。
他にも、歌っていたり演じたりする人の本気の態度が、人間としての全力をぶつけられているあの感覚が、無意識に共鳴し始めるからかもしれない。
そしてそれは直接人の形でなくても文章や音楽や映像でもそう。

私が泣くのは悲しいストーリーや歌詞の内容以上に、泣ける作品を作ってくれたクリエイターに対しての尊さ、美しさへの感謝であり、泣ける感性を持つ自分への陶酔でもあるような。そう思います。

心のうつわにじわじわと感動が溜まっていく、あの感覚が私は大好きなのです。
そして感動がいっぱいになり、また器が空になったその時に、えも言われぬスッキリとした読後感のようなもので更に感動しているのです。

一度泣いてしまった曲や作品って何回見たり聴いても泣けるから不思議に感じます。

2.一体感を感じている時

一体感とは何か。
目指すところが同じで、そこにいる人たちが夢中になって何かを行動しているイメージ。

そんな時に自分は、この上なくワクワクしているのだと思います。

「夢中」が大事です。

目の前のこと以外に考える余地を残した脳の状態なら、それは恐らく感動には繋がらない。

作業ではなく、自分の心の底から求めている行動を、自分だけじゃなく他者と共有している。

言葉を通じて同じ行動を取ることは簡単ですが、言葉なくして複数の人が夢中で同じ行動を取れる、それは考えてやろうとすると難しい。

つまり夢中=本能のまま、やりたいことをやっている。それが他者も同じ状態である。

こう考えれば、他者と本能を共有している状態なのです。本能のままリンクしているなら、くだらないネガティヴな心の読み合いなんて要らない。

つまり心の底から信頼しあえている状態なのだろうと思います。

過去の記事「ゾーン」について書いた話。テニスのサークル試合でチームが一体感を持って、自分が夢中になってプレーしている時の感動は未だ褪せることはありません。

3.頭が空っぽになった時

これはただただ思考放棄した時ということではありません。笑

何かを考えるにも考えられないような、強烈な光景を目の前にした時。

直近で言えば富士山から見た景色。ずっと念願だった寒ぶりを食べた時に頬が落ちるように感じた時。

自分の想像の範疇を軽々と超えてくる何かに出会った時。
今まで自分が過ごしてきた世界には無かった新鮮な刺激を受けた時。

「え?なにこれ...?」と思考回路がショートするような感覚。

こんな時に「言葉で表せない」という表現が生まれたのだろうと思います。





感動という言葉は簡単ですが、本気の感動ってなかなか出会うことができないですよね。

本気の感動をすれば「生きててよかった」と自然に思えるはずなんです。

「まだ生きてやるぞ」そう思えるはずなんです。

感動が人の生きる根源。私はそう思いました。

なぜ生きるのか?使命は何か?幸せになるためか?

もちろん幸せになるために生まれてくるのだけど、幸せって何なのか。

その答えは「感動を味わうこと」のような気がした。

そして「感動を追い求め続ける」ことが人の使命なんじゃないか。

そして「感動させられる人」は味わえる感動が倍になるのではないか。

そう思いました。

細かいことに悩んでるとき、単純な大局観で「感動を求められているか」を大事にしたいですね。

<<<あと167日>>>
人は何か意味があって生まれてくる

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