運命という言葉がむず痒い

運命的な出会いと聞くとなんだかむず痒くなる。

人の出会いを運命的だと感じる気持ちは分からんでもないのだが、それがあたかも生きていく中で最初から決められていたかの様にうっとりと語られると本当にむず痒い。

なぜむず痒いのか、私の独断と偏見に満ちた意見を列挙しながら根本の原因を探りたいと思う。

そもそも運命とは

手元に辞書がないためGoogle先生及びコトバンク先生を頼ってしまうが、

運命とは「自然界の現象によって現れる人間の運勢のことであり、人間の意志を超越して人に幸や不幸を与えるもの」

「われわれの意志をこえたところでわれわれの行為や存在を支配している力」

なんだそう。

つまり、自分がどう考えようが、どう行動しようがそこには関係なく発生してしまうもの。

この文章だけを見れば、まあ確かに自分にとって幸運だと思う出来事があれば、それを運命の〇〇と言ってしまうのも分からんでもない。

しかし「人間に与えられた逃れることのできないさだめを意味する語」という考えに基づくと、どうも不幸の色の方が強い気がする。

不幸というか枷の様な意味にも感じ取れる。

ここでむず痒いポイント(以下、むずポイントと略す)①:よくうっとり語られる運命の出会いは、その運命たる所以を考えると自分の意思が少なからず絡んでいるのではないか。という点である。(出会いに意思の有無を絡めるのは、出会いについてだけでなく、必ずその前後の出来事とパッケージにされて語られることが多いから。)

「結構意志の範囲内で出来事が決まってね?」と首をかしげてしまう。

出会いたくもなかった人と出会う知り合う方がどちらかと言うと自分の意思とは反しているので、その方が運命的ではないだろうか。

似た言葉

次に、今回私が感じたむず痒さポイントを洗い出すべく似たような意味合いを持つ言葉を並べてみる。

偶然

偶然とは「何の因果関係もなく、予測していないことが起こること。思いがけないこと。また、そのさま。」

「〈必然〉と対をなす語で,必然が〈必ずそうであること〉を意味するのに対して〈たまたまそうであること〉を意味する。しかし,必然が多義的であるのに応じて,偶然も多様な意味をもつ。」

おい!運命の出会いさんよ。おたくら実は、「偶然の出会い」さんだったんじゃないのか?

運命も偶然も自分の意思とは無関係のところで発生するということを踏まえると出会いはそれこそ運命でもあるが偶然でもあるじゃないか。と思ったのだが、むずポイント①の「意志の範囲内」の観点で考えると、うっとり語られる運命の出会いとは、実は「必然の出会い」ということになるのではないか。

むずポイント②:運命とよく語られるものは、必然のことを言っているのではないだろうか?

むずポイント③:出会いには必然性よりも蓋然性の方が多く占めているのではないか?ということ。

CLAMP先生というかゆうこさんごめんなさい。

いつもの口癖とは反対のこと言っちゃいますけど。

しかし「偶然の出会い」ってなんかバカっぽいな笑

因果関係について考える

前述にもあるが、出会い自体を運命か偶然か必然か分からないが、意味づけしようとするところには、必ずその前後の出来事についてとワンパッケージにして語られることが多い。

この出会いが自分を変えた。この出会いの後結婚した。

出会いはきっかけではあるが、

自分自身を変えるのは自分だ。

相手の意志と合致したときという条件付きではあるが結婚したいと思ったのは自分だ。

双方の意思が重なることに運命的なものを感じるのは、自分だけでは決められないことに起因するからだと思うが、少なくとも自分がしたいという意志がないかぎりはそれは前に進まない。双方の意思が重なることは、運命ではなく信頼関係が熟成された証なのではないだろうか。

つまり、運命だと感じているそれは、自分のいくつもの意志や行動の積み重ねが生み出した必然なのではなかろうか。

やっぱり出会いは運命

むずポイント①で話した運命の出会いとは切り離して、「出会い」という出会った結果だけを考えると、そこには何の因果関係もなく、出会うという結果は、実は偶然であり、運命なのではないだろうか。と思う。

運命の出会い。ではなく、出会うことが運命。

「一期一会」という言葉も出会ったという結果自体に意味を考えるのではなく、その後の行動(結果)を大事にするために生まれた言葉なのではないかと思う。

運命の出会いという言葉へのむず痒さは、運命だと感じた人以外をなかったことにしている、排他的な匂いがどうも気に入らなかったからなのかもしれない。

一人一人との出会いを大事に、その後行動を共にできることを大事にしたいと強く思うのである。