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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-1

 少し歩くとあたりは田んぼと畑である。歩くにはいい時分で、ひんやりとした四月の風が吹いていた。
 太田さんの家は上加茂神社の鳥居を通り過ぎ、三分ほどのところにあった。門の前にある小橋を渡り、玄関先でそら豆の枝と葉を風呂敷いっぱいにわけてもらう。そら豆は実がつくまえに余分な枝や葉を落とす。硬いが油で炒ったり佃煮にすれば食べられる。一家の暮らしは楽ではなかったから、こうした近所の人からのもらいものは有難かった。
「助かります」
 やすが深々と頭を下げると、太田さんは首を横に振った。
「今年はちょっと硬いかもしれんで。ところで、にいちゃんの具合はどうなん?」
「うーん……雪が溶けてからは落ち着いたみたいやけど」
「お祓いには行ったんか」
 やすは曖昧にうなずき、自分のお腹をさすった。
「狐がついてるんやったら、早く行ったほうがええよ。あんたも大変やな」
「ありがとうございます」
 二人は家を後にした。玄関先で大きく息を吐くやすの顔を、房次郎は心配そうな顔でのぞきこんだ。
「ねえちゃん。あそこ寄ってこ」
 房次郎はやすの手を引っ張りながら、わざと大きな声で言った。
「暗くなる前に帰らんといけんよ」
 やすの表情がゆるんだ。
 あそこ、というのは近くの明神川である。幼い彼にとって川は一番の遊び場だった。歩いて数分の場所の川べりでは、しだれ桜が満開に咲いていた。草履を脱いで、川に入ると、足の裏にはぬるりとした石の感触がある。手で水をすくい上げてから、空中に放ると、光を受けた水滴が輝く。川底の小石が透きとおって見える。水がきれいだからだ。
 目の前を小さなカニが急ぎ足で通り過ぎたので、房次郎は追いかけた。もちろん、簡単には捕まえられない。
「あんちゃんも来ればええのに」
「そうね」
 川べりの石に座り込んでいたやすは目を伏せ、それから立ち上がる。それを合図にして、房次郎は川から上がり、草履を履いた。日が暮れる前に帰らなければいけない。家では彼があんちゃんと呼ぶ、やすの夫である茂清が待っている。
 帰り道、神宮寺山に寄った。この時期の神宮寺山の山道は両側に早咲きのツツジが咲き乱れ、あたりを赤が埋め尽くす。ツツジの鮮やかな赤。去年の今頃も二人は同じ道を通った。日は暮れかけていて、空もまた燃えるように赤い。
 やすが急に足を止めた。
「どうしたん」
「花がきれい」
「ほんとや」
 房次郎がわざと明るい声で言うと、やすは前を向いて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「ねえちゃん、悲しいんか」
 やすは微笑んでから、房次郎の頭を撫でた。
「ちょっとね」
「どうして?」
「大人になるとね、きれいなものを見ると悲しくなることがあるんよ」
 房次郎は首をかしげる。やすは風呂敷を持っていない左手で自分のお腹を撫でた。房次郎はやすの足に抱きつこうとしたが、彼女はそれを手で制した。
「さ、帰ろ」
 二人は再び歩き出した。さきほどよりも少しだけ早足で。
 家に着いた頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。
 家は二階建てで、手前に突き出した平屋の部分が駐在所になっている。玄関は裏手にあり、入るとかまどの置かれた叩きの土間がある。その奥の小上がりが家族が普段、食事をする場所で、その奥の襖を開けると夫婦の寝室がある。房次郎が普段、寝ているのは二階の部屋だ。
 やすは家に着くなり、たすきを締めて、夕餉の支度をはじめた。
 米の炊く準備はできていたので、かまどに火をくべるだけで良かった。味噌を湯で溶いて味噌汁をつくり、そら豆の葉を酒と醤油で煮ておかずとした。房次郎は枝から葉をつむ作業を手伝った。
 かまどに薪をくべる様子を見るのが房次郎は好きだった。炎はゆらめき、一つとして同じ形がない。鍋の蓋から湯気が噴きはじめると火かき棒を突っ込んで、あとはじっくりと炊いていく。
 ご飯が炊けるときの匂いがしてきて、房次郎の腹が鳴った。蓋から漏れてくる湯気が少なくなれば火を消し、あとは蒸らすだけだ。
「房次郎、漬物出して」
 やすの指示に房次郎が戸棚から漬物の入った壺をとりだし、箱膳にのった皿に並べる。茶碗いっぱいに盛った麦の多い茶色い飯と白湯があるのがいつもの夕飯だが、今日は佃煮があったので豪華だった。
「あんた、ご飯食べる?」
 部屋の襖を開けて、やすが奥にいる茂清に声をかける。しかし、返事はなかった。
「先に食べてて」
 と言い残し、やすは暗い部屋に消えた。残った房次郎は佃煮をご飯にのせてかきこむように食べ終えた。他所の家であれば女性と子供は台所の小上がりで、部屋の主人の食事が終わってから冷めたご飯をかきこむものだが、房次郎はいつも炊きたてのご飯にありつくことができた。
 しばらくして戻ってきたやすはやはり浮かない顔をしていた。
「おいしいよ」
 房次郎はやすに場の雰囲気を変えるかのように声をかけた。
「よかった」
「お父、帰ってくればいいのに」
「そうね」
 房次郎の義理の父である服部良和は交番で巡査をしていたが、もう何年も家に帰ってなかった。消息は誰にもわからない。「事件に巻き込まれたのだ」という人もいたし、「どこかに女ができたのだ」という人もいたが、一番多かったのは発狂したのだろう、という声だった。良和の後を継いだ茂清もまもなく心を病んだので、近所の人たちは陰でこの家を『キチガイ交番』と呼んだ。
 良和が失踪した四ヶ月後に、その妻のもんが死んだ。病気になり風邪をこじらせたかと思ったら、あっけなく息を引き取った。房次郎が一歳のときのことである。警察署の署長は良和の養子である茂清を駐在所巡査に採用し、交番を任せた。
 そんな風にしてこの家には、茂清と妻のやす、それから一歳の房次郎の三人が住むことになった。血のつながらない奇妙な家族だったが、房次郎はやすのことを母親のように思っていたし、他を知らないので不満はなかった。そんな環境だったので、彼の心は他の少年よりも早く成長した。
 食事を終えた房次郎は二階に上り、大の字になって寝転ぶ。満腹になって眠るのは幸せだった。彼はそれから目を閉じ、しばらくうとうとしていた。
 その幸せな時間を叫び声と騒音が妨げた。耳をザラザラとしたヤスリでかき回すような男の声だった。
「また、あんちゃん、暴れてんのか」
 房次郎はぽつりとつぶやいた。茂清はこのところ夜になると「暴漢が来る」と騒ぐようになった。病んだ彼は存在しない脅威と闘っているのだろう。恐怖が混じった叫び声を聞いているだけで頭が痛くなるので、房次郎は両手で耳を塞いだ。そんな風にしていると、夜はいつのまにか明けているのだった。

 弟の朝吉が生まれたのは間もなくのことだった。
 産婆を呼んだのは房次郎だ。言いつけられていたとおりに近所の家に駆け込み、やすが産気づいていることを伝えることができた。
 家に赤ん坊の鳴き声が響き、産婆が産湯で外に出てきたばかりの朝吉を洗い、やすに抱かせた。
 小さな朝吉を抱いたやすに産婆を呼んだことを褒められた房次郎は得意気だった。
「抱いてみる?」
 房次郎は首を横に振った。
「怖いからいい。こいつ、頭がとんがってるな」
「狭い道を通って出てくるのに具合がいいの」皺くちゃの顔の産婆が教えてくれた。「骨が固まってくれば房次郎と同じように丸い頭になるんだわ。形にはみんな理由があるんよ」
 へー、と房次郎は感心した。
 このときとばかりは茂清も普段とは違い、穏やかな表情である。
「俺も頑張らないかんなぁ」
 茂清が笑った。笑顔を見るのは本当に久しぶりだった。
「狐が抜けたんや」と房次郎は思わず呟いた。茂清に聞こえないように。赤ん坊の力というのはすごいな、と。
 しかし、明くる日の朝、房次郎たちは家のなかに茂清の姿がないことに気づいた。
 庭に出ているのか、と房次郎が表に出ると、庭の木に茂清の姿を見つけた。太い枝からに紐がくくりつけられ、それが引いた顎にめり込んでいる。舌ははみ出し、目はなにか恐ろしいものでも見たかのように飛び出し、足がだらりと伸びていた。すでに物となった『あんちゃん』と対面した房次郎は声もあげずに、ただじっと見つめていた。
 やすが悲鳴のような声を上げたので、房次郎はようやく振り返った。気丈にも茂清に駆け寄ったやすは近くに置いてあった鎌で紐を切った。鈍い物音がして、茂清の死体が地面に落ちた。
 やがて、悲鳴をききつけた近所の人がやってきた。医師が呼ばれ、警察が呼ばれた。巡査はやすに「なぜ紐を切ったのか」としつこく聞いていたが、彼女は何も答えなかった。どうしてそんなことを聞かれなければいけないのか、わからなかったのだろう。
 夏の暑い日だったので、すぐに火葬に出す必要があったし、自殺であったことは明らかだったので、それ以上捜査されるようなことはなかった。
 三日後には葬儀が行われた。葬儀といっても簡素なもので、参列者もろくにいなかった。客がすべて帰ってしまうと家は急に静かになった。房次郎は重さを持った沈黙が部屋の空気を追い出してしまったような息苦しさを感じた。それがこの先、どうなるかわからない不安だとは幼い彼にはわからなかった。
 主たる巡査を失った交番に住み続けることはできない。家を出ることになった房次郎たちは、やすの実家である一瀬家に身を寄せることになる。

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