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樋口直哉 小説『美しい味』─第一章-2

    2

 一瀬の家は町中、御所の西、二条城の東側の一角、竹屋町通りにあった。
 幼い朝吉をおぶったやすが門をくぐると老母が表に出てきた。
「遅かったね」老母はおかえりの一言も、道中の疲れを気遣う様子もなく、吐き捨てるように言った。「ろくでもないことばかりだよ、まったく」
 そんな態度の老母も孫である朝吉を前にするとさすがに口元を緩ませた。しかし、房次郎に決して視線は向けなかった。

 やすの父親はすでに亡くなっていたので、老母は一人でこの家に住んでいた。台所が外にある小さなボロ家である。一瀬家の暮らしも楽ではなかったから、養子に出した娘が戻ってくることは歓迎できないのも当然であった。
 それからの一ヶ月間は房次郎にとって厳しいものだった。朝起きても自分の分の朝食はないので、しかたがなく釜を洗うふりをして、そこに残った焦げを水に溶かして口に入れた。老母に見つかると「卑しい」と手近に置いてある棒で殴打されるので、隠れながら食べなければならなかった。
 水に溶かした焦げでは腹が膨れないので昼間、房次郎は町に出て日々、食いつないだ。以前、住んでいた上賀茂のあたりであれば川でカニをとって、石で焼くこともできたし、桑の実を摘んで食べることもできたが、家々が立ち並ぶ町中ではそうもいかない。仕方がないのでゴミをあさることもあった。
 ある日、空腹に耐えながら町をうろついていると、通りすがりの近所の人が声をかけてきた。
「坊主、こんなところでなにしてるんや」
 家の近くで園芸屋を営んでいる半纏姿の初老の男性だ。
「食い物を探してる」
 そう答えると、大人びた口調がおかしかったらしく、園芸屋は声をあげて笑った。房次郎は腫れ上がっている右の唇を歪ました。
 園芸屋もはじめのうちは面白がっていたが、すぐに房次郎の足や腕に残るアザに気がついた。
「家で食わせてもらへんのか」
 房次郎は頷いた。
「ひどいな」園芸屋は言った。「お前、親に殴られとるのか?」
「親やない。ババアが俺を殴ってくるだけ。あいつは気が狂っとるんや」
「ババアか。そら怖いな」園芸屋はそう言うと一呼吸、時間を置いた。「ちょい、待ち。朝飯の残りの握り飯ならあるから食わせてやる」
 そうして園芸屋の庭先で房次郎は握り飯にありつくことができた。前日の夜に炊いたご飯はすっかり硬くなっていたが、そんなことはどうでもよかった。むさぼるように食べ、服にこぼれ落ちた米粒も一粒残らず拾い、口に入れた。
「ごっそさん。旨かった」
「そんな冷や飯、旨いはずあるもんか。お茶をかければ食えるけどな」と園芸屋はまた笑った。「お前、ずいぶん大人びとるなぁ。腹が減ったらうちに来い。そんなもんでよければ食わせたるで」
「ありがと」
 そんな具合だったので、房次郎は家の外にいることが多くなった。家にいると特に理由もなく、木に縛られて、棒で殴られることもあったからだ。叩くうちに老母はその行為自体に没頭していく。そして、いつも「どこの家のもんか言うてみい」と房次郎に聞くのである。
「知らん」
「なら、教えてやる。お前はうちの子やないんや。お前は母親に捨てられた子なんや。お前を預かったばかりに旦那は気が狂ってしまうし、ふさも可哀想な子だよ。みんなお前がいることで不幸になっている。そのことにどうして気がつかんのや」
 老母はいつも同じことを言って、再び棒で房次郎を叩くのだった。
 そのあいだ彼は決して抵抗せず、打たれるに身を任させる。抵抗することでふさに迷惑がかかることを恐れてのことだ。
 ある日のこと。何十回と叩いて気が済んだ手を止め、荒くなった呼吸を整えている老母に向かって房次郎は言った。
「醜いな」
「なに?」
 老母の顔の皺が一層深くなった。
「……お前の顔が醜い、言うとる」
 老母はじっと房次郎を見て、棒を振り上げた。房次郎は目を硬く閉じて、身構えたが、その棒が彼に向かって下ろされることはなかった。
 房次郎が目を開けると、老母はかなしそうな目で自分を見ていたが、やがて棒を地面に放ると、母屋に行ってしまった。
 房次郎は木に体を預けて目を閉じ、それから大きく息を吐いた。唇から鉄っぽい血の味がした。赤い血の味だ。
 家族のもとに「房次郎を福田さんに預けないか」という話が持ち込まれたのは、房次郎が一瀬家に来てから一ヶ月後だった。
「福田武造言うて、東京の人なんや。子供がおらんから、是非にと思ってな」
 話をまとめてきてくれたのは、近所の園芸屋だった。はじめ老母はなぜか難色を示していたが、隣りでずっと黙っていたやすが「わかりました」と言ったので話はまとまった。
 こうして房次郎は一瀬家を離れることになった。六月の終わりのことである。
 福田夫妻は東竹屋町油小路東入の一軒露地の長屋に住んでいた。やすの手に引かれ、家に向かう房次郎の足取りはどこか重たかった。食べ物も与えられず、ただ殴られる生活から解放されるというのに、である。
「お父はん、お母はんの言うことをよく聞いてな」
 歩きながらやすが言った。
「うん」
「家の手伝いもせなあかんよ」
「わかっとる」
 福田武造は腕のそれほどよくない木版師で、東京から修行に来たが、フサという三歳年上の芸者と一緒になったので、京都にとどまり、下仕事をこなしながら生活していた。長屋は狭く、扉を開けてすぐに六畳の仕事場兼寝床と襖を隔てた奥に四畳半の台所、屋根裏に仕事に使う道具を並べておく物置があるだけだった。昼間には内弟子の水野栄次郎も仕事場に来ていたから、夏場は息をするのも苦しいほどだ。
 そんなところに住んでいながら福田夫妻は捨て犬を六匹も飼っていたのである。後にたくさんの犬を見た房次郎は思わず笑ってしまった。俺も犬と変わらんな、と思った。
「どうかよろしゅう頼みます」
 仕事場の土間でフサが頭を下げると、福田武造は「ああ」とだけ言った。福田はいつも半纏姿で頭に手ぬぐいを巻いて仕事をしていた。体が大きい割に手足が短く、ずんぐりとした雰囲気の男性だった。
「じゃあ、ねえちゃんもまた来るから」
 やすが房次郎の両肩に手を置いた。その両目に見つめられた房次郎は急に涙ぐんだ。老母から折檻されても黙っていたのは、やすのためだった。房次郎はあんちゃんが死んでからやすのことを守るつもりでいた。でも、それはかなわないことだった。
 やすは首を小さく横に振ってから、房次郎の頭を撫でた。そして、福田フサに頭を下げてから、家を後にした。
 房次郎が福田家の正式な養子になったのは六月二十二日のことだ。やすが一瀬家に戻ったとき、老母はやすと朝吉は家に入れたものの房次郎は服部家の籍のままにしていたので、戸籍上は服部家から福田家に入った形になった。

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