見出し画像

小説『美しい味』─第2章-2

 近いうちに東京に行くつもりや、と告げると、武造は激怒した。そんな必要はない、と言うのである。
「親が死ぬ前に会いたい言うとるのに、薄情や」
 房次郎が反論すると、武造は房次郎を見ずに作業台を叩いた。夜は更けて、室内には灯りが一つ灯っているだけだ。武造のいくぶん丸くなった背中が影になって、床に伸びていた。
「恩知らずが。お前を拾ったのは誰や思うとる。お前はここにおって、働いていればいい」
「しかし……」
「『しかし』も『かかし』もあるもんか。ろくに奉公もできない人間がなめくさりおって」
 ぼそりと句点を打つような口調で武造は言った。房次郎はしばらく黙って、次の言葉を待った。しかし、武造はもう何も言わず、振り返ることもしなかった。ふいに寂しさに襲われて、目を閉じた。それから深く息を吐いた。
「金か」
 絞り出すような口調で房次郎は言った。
「なに?」
「また、ドジョウを食う生活に戻るのが嫌なんやな。なぁ、金が問題ないなら心配あらへん。多少なら置いていくことも、送ることもできる」
 看板書きをはじめてから気がつけば房次郎は家で一番の稼いでいた。武造は自分がいなくなると収入が減るのが嫌なのだろう、と房次郎は思った。
「しょうもないやっちゃな」武造は振り返ると、首を小さく横に振った。また、怒鳴ると思っていた房次郎は拍子抜けした。「金なんていらん。子から金をもらう親がどこにおるねん」
「なんで俺の話を聞いてくれん」
「話はもう、これで終わりや。東京に行ってもろくなことにならん」
 土間からすすり泣く声が聞こえた。フサが声を押し殺して、泣いていた。
 親、と房次郎は思った。もしも、このひとが本当の親なら、俺が画家になりたいのを応援してくれるんじゃないだろうか。木版を彫ったり、看板書きで一生を終えるのを哀れに思ってくれるんじゃないだろうか。一晩経ってみたが、房次郎には武造の気持ちがまったくわからなかった。
 割のいい仕事が二件舞い込んできて、二日間はそれにかかりきりになった。ほとんど寝ずに仕上げると、依頼主のところに看板を収めると報酬として五円をもらった。房次郎は一度、家に戻り、風呂敷に手ぬぐいやら着替えやらを包み、身支度を整えた。
 そこから駅に向かい、東京行きの切符を買ってから、簡単な夕食を済ませると最終の鉄道に乗った。座席に腰を下ろすと二日間の疲れが一気にやってきて、房次郎はそのまま眠りに落ちた。明治三十六年、秋のことである。

 翌日、車窓を流れるのは緑だった。メガネをかけると刈り取られたばかりの田んぼがあり、遠くには緑の山々が広がっていた。何度か眠りにつきながら、ようやく夕刻すぎに東京についた。終点の新橋についた頃にはあたりは夕暮れに包まれていた。十七時間も列車に閉じ込められていたので、ホームに降りた房次郎は背伸びをしようとしたが、すぐに人並みに飲み込まれた。ホームから溢れるように人が溢れていた。
 なんとか駅から出ると、目の前を車と馬車が行き交っていた。轢かれないようにするだけで精一杯である。途中、道を尋ねながら京橋高代町を目指した。中大路から聞いた松清堂という店を営む丹羽という人が頼りだった。
 銀座通りを進むと両側に立ち並んでいるのは商店ばかりである。あまり遅い時間になっても迷惑だろうと、房次郎は足早に歩いた。
 夕刻にもかかわらず洋装の女性が道の真ん中を歩いていた。帽子をかぶり、背筋をよく伸ばし、両手を振っている姿を見て、房次郎はその様に見とれた。これが東京なのか。
 路行く洋装の男性を捕まえて、松清堂の場所を聞くと「橋を越えて、右に曲がり、さらに弾正橋を渡ってすぐ左に曲がると菓子屋がある。松清堂はその隣だ」と教えてくれた。
 やがて、目的の場所に着いた。松清堂は二階建ての小さな建物で、障子の真ん中二枚に屋号が書かれていた。あまり上手くない字やな、と房次郎は思いつつも、障子を開いた。
「ごめんください」
 開け放つとすぐの土間は作業場になっていて、奥の小上がりにいた女中は房次郎に気がつくと、怪訝そうに視線を向けた。
「なんでしょう」
「京都の二条から参りました、福田房次郎と申します」
「福田さん……どこの方でしょう」
「中大路屋寸さんからここの話を聞きまして」
 房次郎の口から出た名前を聞いた女中は驚いた表情をした。
「屋寸は私の母ですが」
「では、あなたがかねさん」
 奥から会話を聞きつけた主の妻と思われる女性が姿を見せた。
「あらあら、お客さんかしら」
「こんばんは」
「もう少しで、主人が戻ってくるはずなんだけど……」
 申し合わせたようなタイミングで障子扉から男性が姿を見せた。
「ただいま。やれやれ、なんの騒ぎだ?」松清堂の主人、丹羽茂正だった。丹羽は缶詰や瓶詰めのラベルに防水加工を施すニス引きという商売を考案した人物だった。ニスを引くことで店先に並べて雨に濡れてもラベルが破れたりしないのでずいぶんと重宝され、数人の職人や女中を雇うほど成功を収めていた。
丹羽は房次郎の顔を見ると「なにやらワケアリの様ですな。丹羽と申します。お宅は?」
「福田房次郎と申します。夜分に押しかけて申し訳ありません。今しがた京都から鉄道で着いたばかりだったので……私は北大路清操の次男の房次郎です。屋寸さんから母の登米が東京にいると聞きました。生まれてから一度も会うたことのない身です。なんとか顔だけでも見たいものと上京して参りました。丹羽さんなら母の居場所もご存知だろうと……」
「ああ」丹羽は合点がいったというふうにうなずいた。「ということはあんたは清晃さんの弟さんか。なるほど……あ、どうぞ、腰をおろしてください」
「ありがとうございます」
「それにしてもいい体格だ。それにお兄さんとは似てないようだね」
「そうですか? 兄には会ったこともないので、わかりませんが」
「そうか。生まれてから母親にも兄にも一度も会ってないのか……。わかりました。もう遅いので、今日はここで泊まってきなさい。狭いですが上の部屋が空いているので使うのがいいでしょう。酒でも飲みながら話をしましょう」
 丹羽はそう言うと、房次郎の肩を叩いた。
 房次郎は酒と夕飯をごちそうになり、兄の清晃もこの家で働いていたこと、今は深川の鉄工所で工員として働いていることを知った。
「お前さんの母親は千駄ヶ谷の四条隆平という男爵のお宅で住み込みで働いているよ。明日にでも訪ねてみるといい」
「千駄ヶ谷?」
「ここからそう遠くない。地図を書かせてるから、一時間も歩けば辿り着ける」
 そう言って丹羽は卵焼きを一切れ口に運んだ。
「どうぞ、遠慮しないで食べなさい」
 卵なんて病気のときにしか食べられない贅沢品だったので、房次郎はおそるおそる箸を伸ばした。口に運ぶと塩辛い味が口に広がり、房次郎は思わず眉をひそめた。
「辛いって顔をしたな」その様子を見た丹羽はくっくと笑った。「これが東京の味さ。上方の人間の口にはあわんかな」
「いえ、おいしいです」
「嘘はつかないでいいさ」
 丹羽はそう言うと酒を飲み干した。

撮影用の食材代として使わせていただきます。高い材料を使うレシピではないですが、サポートしていただけると助かります!