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樋口直哉 小説『美しい味』─第2章-1

   第2章

 それから一年を待たずに房次郎は千坂を辞めた。房次郎の頭にあったのは「金が欲しい」という切実な気持ちだった。はじめは金を貯めることも考えたが、義母が毎月給金をとりにくるので、それも叶わなかった。
 このままここで丁稚をしていては、いつまで経っても画学校にはいけない。それで彼は思い切った行動に出た。年内一杯で千坂を辞め、家に戻ったのである。
「なんで戻ってきたんや」
 面を食らったのは福田夫妻だった。厳しい寒さの一月のことである。
「……おれ、画学校に行きたいんや」
「なに、バカなことを言うとるんや」武造が静かに口調で言った。「行ったところでなにができるわけでもなし」
 当時、画学校に通えるのは育ちのいい人間だけで、房次郎のような庶民が望んでも行ける場所ではなかった。
「仕事を中途半端に投げ出す人間がどうやって生きていく言うんや」房次郎が黙っていると武造がぽつりと言った。「とりあえず俺の仕事を手伝え。それでええか?」
 房次郎はうなずいた。思い切って辞めたのはいいか、失敗だったかもしれない。でも、自分にはこうするしかなかったのだ。
「ただ、俺の仕事だけではお前の好きに使える金は稼げん。なにか別の仕事を探すんやな」
「自分の金で絵筆を買って描くんやったらええか?」
「好きにしろ」
 武造はそう言うと、仕事に戻った。房次郎はこうして義父の仕事を手伝うことになった。はじめて任せられたのは材料となる木の表面にヤスリをかけたり、仕事場の掃除や届け物といった下仕事だったが、一ヶ月ほどが経ち、慣れてくると、木を彫ることを任させるようになった。寺社の門や鳥居の高い位置に掲げられている看板を扁額というが、その木の板に武造があたりをつける。その後は房次郎の仕事という具合になった。もちろん、最後は武造が仕上げたが、房次郎は筋が良かったらしく、すぐに腕を上げていった。
「お前な、手元だけで彫るな。腕が痛くなるぞ」ある時、武造からそう注意された。「力で彫るんやない。体全体を使うんや。そうすれば何時間でも仕事ができる」
 なるほど、と房次郎は思った。肘から先ではなく、肩から使うようにすると面白いように木が彫れた。しかし、房次郎は複雑だった。これでは絵の勉強どころではなく、将来は木版師になってしまう。仕事が早く終わるようになったからか、武造は日が暮れると博打をしに出かけるようになった。義父のように人生を過ごすのは御免だった。
 武造がいなくなれば六畳の仕事場に一人だ。このあいだに絵の勉強をしたかったが、あいかわらず紙一枚、買う金もなかった。
「なんか、仕事はないものかな」
 ある日の夜、友人であり兄貴分の傳三郎の部屋で、房次郎は天を見上げた。
「日が暮れてからの内職なんて、ご婦人方が請負っている仕事しかないがな」
 房次郎は首を横に振った。
「どうせなら絵の勉強になる仕事がいいんや」
「そりゃ、難しいな」
 二人は頭を抱えた。これでは絵を習うなど夢の話だった。別の稼ぎ口を探さなければいけない。しかし、そんな仕事はどこにもない。
「お前、遅くなる前に帰ったほうがいいぜ」
「そうやな」
 房次郎が立ち上がると机の上に大きさ半分ほどに切られた半紙が五枚置かれていた。下には神社の名前と所書きが刷られているめずらしい半紙だった。
「なんや、これ」
「お前『一字書き』を知らんのか?」
 聞けばこのところ流行っている懸賞で、好きな一文字を書き、指定の住所に送る。応募作品から『天』が一枚、『地』が二枚、『人』三枚が当選し、外に佳作が四枚選ばれる。選ばれれば懸賞金が出るという。寺社や書家、商店がPRのために行い、人気を集めていた。
「兄ちゃん。これ、俺、送ってみるから頂戴」
「アホ言うな。誰の金や」
「なら貸してくれ。次、出たら買って返すから」
「金もないのにどうやって買う」
「当選すりゃ返せる。な、頼むわ」
 学校の習字ではたいてい甲をもらっていたし、先生からも褒められていたので自信はある。
「二枚やる。それならええやろ」
「三枚!」
「しょうがないやっちゃな」
 房次郎は喜んで、それを抱きかかえるように帰った。
 六畳の仕事場でろうそくの火を灯し、半紙と向かい合う。さて、なにを書こうか。必勝の心構えでこの二枚に望まなければならない。それは案外、緊張することだった。どうすれば選ばれるのか、検討がつかない。
 頭を抱えていると武造が彫った新行草という料理屋の店内に掲げる看板が目に入った。よく考えてみれば武造が木版に掘る字は、もともとそれなりに偉い書家の先生が書いたものだ。これを模写すればいいのではないか。
 房次郎は一枚目の紙に『新』と書き、次の『行』と書いた。それから最後の紙に「草」と書くと、すこし離れた位置から字の位置を確かめる。うん、なかなかいい。
 翌日、それを送り、数日後。結果の知らせを受けた房次郎は驚いた。『新』の字がいきなり天を獲得していたのだ。賞金は二円だったので、房次郎は飛び上がって喜んだ。そして『草』の字は地を獲得し、『行』は佳作に入っていた。半紙の代金を傳三郎に返しても充分、お釣りがくる金額である。
 房次郎はそれから一字書きの懸賞を見つけては応募した。最初のようにすべてが選ばれはしなかったが、送れば必ずどこかには引っかかった。獲得した賞金を持って房次郎は画材屋に行き、紙や墨や絵具や筆を買い込み、仕事場で時間を見つけては、庭の草や花を写生した。
「どうしようもないやっちゃな」その姿を見た武造がため息をついた。「そんなの書いても一文にもならん」
 武造の言うとおりだった。手本がないためか、書のようには上手に描けている気がしなかった。絵を描くのは楽しかったが、金にはならない。それに懸賞であぶく銭を稼ぐだけでは仕事とはいえない。さて、どうするか。

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