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樋口直哉 小説『美しい味』─プロローグ1

自分のホームであるnoteを活用すべく、執筆中の新作、長編小説をnoteに掲載していきます。完成前原稿ですので、大幅に変更する可能性もある──というか、書き換えます。音楽でいえばデモ音源(そんなかっこいいものではありませんが)みたいな文章です。ご興味があれば読んでください。     
                      樋口直哉

プロローグ ふたりの大観

 先生は傲岸不遜、みたいな言われ方をよくされますが、それに違和感があるんです。私にとってはすごくやさしい人でしたから。そりゃ、もちろん、仕事には厳しかった。でも、どこか温かみがある人でした。でも、変わってしまったのかもしれませんね。私が一緒に仕事をしたのは関東大震災より前のことですから。
 でも、私の話を聞いても参考にはならないと思いますよ。以前にもインタビューを受けたことはあったんですが、活字にはなりませんでしたから。結局、みなさんが思っているイメージと私が抱いている印象が違うせいでしょうね。

 はじめて先生とお会いしたのは大正十年でしたか。それまで地元の割烹で焼き方をしていたんです。料理屋の息子だったものですから、家に戻る前に一度、東京の店で働いてみたかった。それで部屋(調理師会のこと。当時は調理師会が板前を店に斡旋していた)に口がないか、聞きに行ったんです。
 すると副会長が「お前は運がいい」とそう言うわけです。「大観という偉い先生がやっている店が焼き方を探している」
 私だって大観という名前くらいは知っていますから驚きましたよ。横山大観、高名な画家の先生だ。そんなすごい人のところで働けるなんて、確かに自分は運がいい。そう思いました。

 大雅堂は銀座から十分ほど歩いた京橋の、大きな道路から一本入った東仲通りにありました。斜向いに〈鴻乃巣〉という大きな看板があるから、それを目印にするといいと教えられていましたが、たしかに目立ってましたね。
 なにせ大きいんです。
 看板は三枚並んだ三尺もありそうな大きなクスの木の板に、それぞれ『鴻』『乃』『巣』と文字が彫られ、そこに緑青を流し込んだものでした。三階建ての建物の一階と二階のあいだにはめ込まれていて、それはもう目を引きましたよ。
 それに比べると目指す店は小さく、こぢんまりとしたものでして、間口は三間ほど。角地に建っているので、入り口が二つあって、ガラスのショーウィンドー越しに仏頭や大きな皿が並んでいました。
 扉の横に〈書画骨董鑑定所〉と書かれた墨書きの看板がかけられているだけで、どう見ても料理屋には見えなかった。ここでいいのかな、と戸惑いながら、扉を開けると、小上がりに座っていたのが中村さん(中村竹四郎)でした。
 中村さんのことを私たちは「旦那さん」と呼んでいました。洒落た人で、女性からも人気がありましたが、男から見てもいい男でした。
「調理師会から紹介された片山です」
 と名乗ると、旦那さんは「ああ、聞いているよ」と顔を上げました。「福田君はちょっと出ているけど、もう戻るはずだ。君……ずいぶん若く見えるね」
 旦那さんはそう言うと、口元を緩めました。
「先に『美食倶楽部』の客席を案内しよう」
 靴を脱いで階段を上がりました。二階には二間あって、営業中はふすまを開け放ち、つなげて使っていました。とはいえそれほどの広さではなく、御膳を十並べれば一杯、というところです。
 床の間にはいつも先生が選んだ花器やときには皿が置かれていましたが、静謐な空間というよりもどちらかというと和やかな場所でした。どことなく生活感があって、料理屋という感じのしない店でした。聞けば旦那さんと先生は二階で寝泊まりしていた、というのですから、それも当然というところでしょう。
「まったく男同士でむさ苦しいものだね」
 旦那さんは苦笑されていました。
「それで先生はどこで絵を描かれているんですか?」
 私が旦那さんに質問すると旦那さんは目を丸くしました。鳩が豆鉄砲を食ったようってのはああいう顔を言うんでしょう。
「絵? 君、面白いこというな。それはよく知らんが、彼が書の仕事をするときは奥の部屋でしているよ。でも、仕事中は決して話しかけてはいけないよ」
「すみません。大観先生は画家だと勘違いしておりました」
「ふふ」旦那さんは含み笑いを浮かべました。「福田大観といえばそれなりに知られてるんだがね」
 そう、私はすっかり勘違いしていたわけです。それにしても紛らわしい、と思いませんか? 偶然にしちゃ、おかしいでしょう。大観なんて名前、自ら名乗るものでしょうか。
「ま、彼くらい才能があれば絵を描かせても一等品を仕上げそうな気もするがね。ああいうのを天賦の才というんだろう」
 この人にここまで言わせる方って一体、どういう人なんだろう、と私は素直に思いました。
「ところで『美食倶楽部』というお店の名前は谷崎潤一郎の小説と関係があるんですか?」
 階段を降りながら私がなんともなく聞くと、旦那さんの足が止まりました。
「君、料理人のくせにインテリゲンチャだな」と旦那さんは階段の上にいた私を見上げ、真剣な顔で言いました。「北大路君にはその名前は出さないように」
 わかりました、と私は頷きました。旦那さんのお話では先生は『美食倶楽部という名前は谷崎の小説から拝借したんだろう』と言い放った客を叩き出したことがある、とのことでした。
「まったくそんなに気にするくらいなら、こんな名前にしなければよかったのにね」旦那さんは困ったように腕を組みました。「調理場は一階だ。よろしく頼むよ」
 調理場は店の奥にあり、外観から想像できないほどの広さがありました。右手に流しがあり、奥にガスの火口がいくつか並んでいて……魚なんかはもちろん炭で焼いてましたが、なかなか使いやすかったと記憶しています。
 中央に作業台があり、床は板間だったのですが、はじめに戸惑ったのは立って仕事をするところです。それまで魚なんかは座って切るものでしたから。今じゃ、立って仕事をするのは当たり前ですが、そういう時代だったんです。流しの下の板をずらすと生け簀があって、コンクリートの箱のなかを鯉が泳いでいたのには驚きました。
 調理場には白衣姿の二人の男性がいて、一人は主任を務めていた中嶋さんで、もうひとりは煮方の小林さんという方でした。中嶋さんは年の割に落ち着いた方で、立ち居振る舞いからも経験の長さが伺えました。小林さんという方は口数少なくて、数ヶ月で辞めてしまうんですが、結局最後までどんな人からよくわかりませんでしたな。
 私が挨拶すると中嶋さんは「よろしく」と短く返してから「ここは普通の店とは違うからはじめは戸惑うと思うけど、すぐに慣れるから」と言いました。
 その頃、調理場は中嶋さんと小林さん、私と追い回しの武山さんだけで回していました。武山さんは先生の身の回りの世話もしていたと思います。よく気の利く器用な子で「ああ、こういう子が偉くなるんだなぁ」と羨ましかったことを憶えています。
「何年やっとる?」
 中嶋さんが道具の位置なんかを教えてくれながら、私に聞きました。五年です、と答えるとそれならわかるな、と焼き場を任されました。炭床が小さかったので、火加減の調節には難儀しました。
 『美食倶楽部』のやり方はそれまで勤めていた店とはなにからなにまで違っていました。まず戸惑ったのは献立です。壁にその日のものが張ってあるんですが、頭に【食単】という文字があって、下には四文字か五文字の漢字が並んでいるんです。

 食単 
 一、小菜六珍 海鱧 嫩芋 絲豆 仮西施舌 薄醃鱒 温魚
 一、餅鯨汁椀
 一、大真歯
 一、比目扁魚酒洗
 一、腐脳羹     
 一、海鷂半汁
 一、白汁魚王    
 一、碧緑魚炒製
 一、蒪菜椀     
 一、食後珍果及飲料

 こんな具合です。献立は支那料理の書き方でした。もちろん、毎日、先生が書かれていたので、これだけで金が取れるのでは、という雰囲気がありましたが……。そうそう、クジラのさえずりを使った椀物などは絶品でした。中嶋さんは関西の名店で料理をされていた方なので、そういった素材の扱いに長けていました。関東ではクジラをそんな風に料理することはありませんから。
 どんな料理だったって? そうですね……美食倶楽部で出していた小菜の定番は『鮑の姿蒸し』です。唐物の平皿に鮑の殻を置き、蒸した鮑の身を薄切りにして並べたもの。殻に盛るのは支那料理のやり方です。こんな風に一事が万事こんな調子で、やったことのない料理ばかりだったので、慣れるまでは苦労しました。
 細かいところも色々と違いました。例えば調理場に入って最初に任されたのは穴子の処理だったのですが、はじめは背から開いていたところ、中嶋さんにたしなめられました。
「腹から開いてや」
 今では広く知られていることですが、関東では穴子や鰻なんかでは背から開くでしょう。でも、美食倶楽部では腹から入れることになっていました。中嶋さんが関西で修行されていたこともあったと思いますが、それよりも先生の好みだと思います。先生は関東のやり方をいちいち嫌っていましたから。
 そのくせ、鰻はお好きなんですよ。夕方になるとふらりと近くの鰻屋に出かけていくくらいです。私も一緒にお相伴させていただいたことがあります。
 でも、関東も関西もちょっと違うだけで、仕事自体は一緒なんですよ。私もすぐに腹から下ろすやり方に慣れました。
「うまいやないか」
 中嶋さんにそう褒められて、気を良くしたことを憶えています。じつは地元にいた頃、鰻割烹に勤めていたことがあったので、細長い魚の扱いには慣れていたんです。
 穴子の身は白焼きにしてから豆腐と炊くことが多かったように思います。頭は油でカリカリになるまで揚げて、すどりあん(酢で酸味をつけた銀餡)にとるんです。中骨をすいたところも油で揚げて、うどと和えて、一品としました。食材を使い切る先生の流儀はこの頃から徹底されていました。ただ、昔の人はみんなこういう仕事をしたもんなんですよ。
 夢中になって手を動かしていたら、中嶋さんに腕を叩かれました。驚いて顔を上げると、裏口から先生が姿を見せました。
 先生が調理場にいると、全体の空気が引き締まりました。全身から活力がみなぎった感じ、というのでしょうか。はじめてお会いした先生からはそんな気迫のようなものを感じました。
 先生は調理場にいた私を見つけると、ぎろっとにらみつけました。
「なんやお前は」
 それが先生からはじめてかけられた言葉です。私が調理師会から紹介いただきましたカタヤマです、と名乗ると「ああ、今日やったんかいな」とまた短く言いました。「今は猫の手も借りたいほど忙しいから助かるわ」
 先生はいつものお馴染みのべっ甲の眼鏡をかけて、春だというのに分厚い上着を羽織っていました。少し遅れて、手に重そうな買い物かごをぶら下げた若い子が戻ってきて、それが武山さんでした。

(続く)

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