とら~ぬの最近の心境

「いや知らんがな!」

このタイトルを見た方はそう思うだろう。自分でもそう思っているが、今日は久しぶりに素面でそんな文章を書きたくなったので思い付いたままに書き連ねて見ようと思う。

1.普段の生き方に対する考え

「いつも明るく楽しく元気良く」

これは私が人に「座右の銘」を聞かれると答えてきた人生の表哲学である。

表ということは裏もある。

「10年を細く生きるなら1年を太く生きて死ぬ」

身体もさほど強くなく端から長生きできると思っていない身として、これを自分の裏哲学として掲げてきた。大して器用でもなく、要領の悪い自分にとって、こうすることで心を鼓舞することで多少の困難をはね除けるようにして生きてきた。

最近まずこれがうまくたちいかなくなっている。簡単に言えば削ぎ落とすようなものがなくなってきたのだろう。

幸いなことに私の周りにはそれなりに人がいてくださっている。周りの人が明るくいてくれる、ほんの少しでも元気になってくれる、それを1つの指針として生きてきた私にとっていつ何かがはじけてまざりやしないか、というのは導火線のようにいつもどこかに食い込んでいる。

それを補うように始めたのが1人ドライブである。

元々戸田の出逢い岬や石廊崎の灯台は数ヵ月に一度出かけていたが、今年は更に遠くに足を伸ばしてみた。

北は諏訪湖、南は御前崎、西は大阪や京都など、わざと独りで行きたいところにぷらたとしてみた。これはある種心のエネルギーの回復も踏まえつつ、自分の中では「思い残すことは無いようにしたい」という思いを常に引きずってきた。

白髪がこの1年で約三倍になり、明確に衰えを感じてきた。身体は段々折り返しに近づいてきているのかもしれない。

後何年生きられるだろうか。孤独死のリスクも無いとは言えない。

そんななかで最近の私が考えていたのは「段々と『なにも残らないカス』になってきているのではないか」ということである。

2.とら~ぬにとっての各種への向き合い方

私が一人暮らしを始めて間もなく5年が経とうとしている。そもそものきっかけは掃除をあまりにしない私に母の堪忍袋の緒が切れてつまみ出されたことに始まる。元々車のローンが終わったら流石に出ようとは思っていたため、予定は少し早まったものの、今の家にやってきた。

家は死ぬほど汚いのはもう諦めているが、一人暮らしを始めて一番辛いのは「沈黙の時間」である。元々放っておけばずーっと話しているような人間であり、会話が返ってこないというのはそれがそのまま苦痛なのである。コミュニケーション能力の高い方ではなく、極度にマイペース過ぎるだけなのだろうが、段々と人と会話するのすら億劫になってきている自分もいる。

私は就職で地元をとった。大学時代に実家から通う身になったことと、弟が家を出ることを原動力として勉強していたのを悟ったことから、もうそれは既定路線であるとすら思っていた。

生まれも育ちも同じ町の地元。これは即ち「コミュニティの小ささ」そのものを表す。積極的に広げてこなかったのもあるが、自他共に認める変人の自分としてはそもそも距離を縮めようということすらしてこなかったように思う。これが自分が続けてきた剣道やボランティアの世界であった。

剣道は自分の中ではずっと当たり前にあったが、試合に興味の無くなった今は思い出したように稽古することと審査で結果を出すことしか楽しみがない。マスクしてまではやろうと言う気になれないし、道場に行けばいつまでも父と比べられ子供扱いされるし、地元の稽古会に行けば後ろ楯の無い自分にとって「『あの道場』のやつ」でしかないのである。剣道自体は嫌いではないのに要らぬしがらみがいつも勝手にのしかかる。ボランティアの方も元々は剣道の師からの誘い(受けたのは私だけだったらしい)であり、社会人になっても引き受け続け、先に心が折れた。あげる方の元気がなくなってしまったのである。

そこで見つけたようにやってきたのが競技麻雀の世界だった。元々麻雀自体は好きだったし、何よりも自分のやったことがそのまま評価される感覚がほんの少し心地よさすらあった。ここで結果を出すことが私にとって「自分の生きている瞬間」だったのかもしれないとすら思っていた。

私の今の人生の目標は「生きた証を遺すこと」であり、ほんの少しでも結果を残して生き残ることで何かが遺せるかもしれない、それが私が卓上でどうにか結果をひねり出そうとし続けられる小さな意地なのである。

見栄っ張りで意地っ張りなクソザコなんてこの世に必要ないのである。

しかし結果はどうだろうか。5年通って勝ったのは1度だけ。普通の人なら勝てるところを何度取りこぼしたことか。昨日も裏無しであれだけドラ集めて手ができて勝てないのはただただ腕が悪いとしか言いようがない。悲しいが勝負の世界で雑魚は淘汰されるしかないのだ。

麻雀の世界は竜宮城である、とよく人に説明している。時間がすぐに経つ分、気を付けないと確実になにかに取り残される。

周りを見渡すと、地元から友人はほぼ消えた。大きな企業で結果を出した者もいれば、全国を転々として活躍している者もいる。wikiに載ったやつもいる。何本も世に論文を出している者もいる。

私はどうなのか。ただの全部を中途半端にまとめて逃避していただけの塵芥でしかないのではないだろうか。

勢いとテンションで1日バーテンイベント(コロナで流れたが)や麻雀大会をやろうと言い出したのも、半分は自分を売り出そうと言う思いからだったが、もう半分はどこか自分の心に引導を渡して消え去りたい、という思いがあるのではないか、と考えている。

小判鮫もある種これに近いのかもしれない。どうにかして自分の生きている想いを遺したいというのはずっとある。

3.とら~ぬ、病気じゃないの?

実は親切な方から何度か上記のように心配されたことがある。お気持ちについては本当に感謝している。

一度包丁を逆手に持ったり、コード巻き付け始めたりした身からすると強ち間違っていないのかもしれない。病院は一度三島駅前にあるクリニックに声をかけたところ、「初診は平日かつ3ヶ月待ちです」と言われて以来考えるのを止めている。診断を受けたらその日のうちに死ぬ自信すらある。私にとって背中で他の仲間内を引っ張ってきたことに小さな自負というか生きるエネルギーがあったので、これを否定される=とら~ぬの死そのものなのである。それならまだ枯渇して死ぬ方を選ぶ。


以上、思い付いたままに書き連ねた。

今はあまりなにも考えたくない。

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