ワインエキスパートへの道 その5

このところずっと投稿する時間が取れず、気づいたらワインエキスパート二次試験の前日になってしまった。昨年の今ごろは自分も対策に必死だった。とはいえ、ほとんどの飲食店がコロナ対策で店内での飲食を制限されてしまい、本来なら毎年この時期に試験対策として単一品種のワインをテイスティンググラスで提供してくれる店でも、ワインをいただくことはできなかった。

そのためオンライン講座に申し込み、小瓶に入ったワイン数種類のセットとグラス、テイスティングシートをパソコン前に並べて、画面のむこうの講師の声に聞き入りながら、テイスティング用語と口中のワインの味を結び付ける日々だった。

そうして迎えた試験当日。東京会場に申し込んでおいた私は、目黒の雅叙園へ向かった。試験が終わったら、有名な百段階段を見物してこようという、別のお目当てがあった。いま思えばのんきなものだ。

数階上まで吹き抜けになっている広大なホテルのロビーには多くの受験生がいて、あちこちに、数人で固まって話し合っている輪があった。ワインスクールの講師らしき人たちが受験生たちに声をかけて励ます姿もあって、まるで大学受験のような印象を受けると同時に、ひとりぼっちで会場にいるのが何やら心細くなってきた。気持ちを落ち着かせようとトイレに行くと、化粧品や香水らしき香りが漂っていた。テイスティング時は香水など強いにおいのものを控えるのが受験マナーだときいていたのに、平気でつけてくる人がいることに愕然とした。でもこんなことを気にしていては集中できない。周りにどんな人がいようと気にすまいと自分に言い聞かせて、試験室に入った。

室内はやや寒く、時計はなかった。腕時計の所持は禁じられ、一定の時間ごとに試験官が残り時間を伝えることになっていたため、自分で時間配分を調節できないのがつらかった。

50分間の試験が始まり、白ワインから飲んでいった。そのうちの1杯に、まったく味も香りも感じられなかった。いったいこれはほんとうにワインなのか。いままでこんな味の飲み物を口にしたことはなかった。すっかり混乱してしまったが、とりあえずトロンテスだと判断して、もうひとつの白へ。今度はソーヴィニヨンブランかシャルドネか、で迷い、マークシートを何度も塗り直した。確信はもてなかったが、シャルドネと判断して、赤ワインへ進んだ。幸い、赤は2杯とも味と香りを感じ取ることができ、落ちついてテイスティング用語を選ぶことができた。ひとつは1週間前に飲んだマスカットベリーAと味も香りも似通っていたため、そう判断し、もうひとつは甘やかな濃厚さとタンニンのレベルからカベルネ・ソーヴィニヨンだと判断した。

赤を飲み終え、さきほど味も香りも閉じていた白のグラスを手に取り、鼻を近づけてみると、香りに覚えがあった。花のように華やかで、鮮烈な香り。

「ヴィオニエ、これヴィオニエだ!」心のなかで叫んだ。時間が経ってワインの温度が上がり、ようやく開いてくれたのだ。あまりの変化に戸惑いながらも、口中に含み、品種を確信し、テイスティング用語を選び、マークシートに印をつけていった。

最後はハードリカー。香りを嗅いだ瞬間、20数年前にカナダで過ごしたクリスマスの記憶がよみがえってきた。友人宅で開かれたクリスマスパーティに参加した私は、テキーラの杯数を競うゲームに参加して、6杯でギブアップして、友人のベッドを占領してしまった。翌日起きられないほど酔ってしまったため、以来テキーラは飲まなかったけれど、強烈な香りは忘れようにも忘れられなかった。

軽く舐めると、それだけで口内にしびれるような味が広がり、頭がクラクラしてきたが、答えは確信した。グラスを置き、吐器に吐き出して、シートに印をつけた。いっきに体から緊張が抜けて、ひと舐めしただけのテキーラが全身にまわってきた。残り時間は数分だった。

試験終了が告げられ、試験室をあとにして、軽い酔い心地で百段階段をのんびりと見物して、目黒の街を散策してから東京駅へ向かった。酔いも冷めたので、自分を慰労してやろうと思い、「エノテカ」のカウンターに腰をおろした。少し奮発して、シャンボール・ミュジニ―のエルヴェ・シゴー プルミエ・クリュを注文した。

おいしかった。端正、上品、軽やか。いろんな言葉が浮かんだ。勉強に明け暮れた8か月が終わって飲んだワインは格別だった。カウンターの向こう側には、姿勢がよく、きりっとした瞳の女性スタッフがいて、エキスパートの二次試験を受けてきたと話すと、彼女はW-SETの勉強をしていると話してくれた。ワインを買いに来たお客に対応するため、ときおりカウンターを離れたが、接客が終わるとまたカウンターにもどってきて、話し相手になってくれた。素敵な女性だった。ワインの神様が遣わしてくれたのかもしれない。

帰りの新幹線のなかで、50分をふり返った。あんなに集中した時間を過ごしたのは初めてだったのではないだろうか。ヴィオニエの変化ぶり、そして懐かしのテキーラが呼び起こした楽しい記憶に、ワインをはじめとする飲み物のもつ、魔力めいたものを感じた。不思議なことに、合否に関する不安はなかった。やるだけやったのだから、それで落ちるなら、その結果がいまの実力なのだからしかたがない。

心に浮かんだのは「ああ、楽しかった」それだけだった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?