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ありんこの旅行記

#わたしの旅行記


おことわり
・かなりの大長編です
・2015年7月当時の記録を再編集したものです
・最初に必要な3つの記録を掲載しています
・忘れられない旅の思い出がメインです


【記録1】

霧雨とも言えるその日、聖なる導きによって連れてこられたその場所で、

僕の続くべき道が、送られるかのごとく沸いて出て頭に思い浮かべられるように

力を頂いた。それ以降、見えない力を信じるかのごとく、

自分の前に出て来た物事に対し、身を委ねることに力を頭を使った。

今からほんの三、四ヶ月前の話である。時間は経っていない。

しかし、この間の僕が体験したことの多くは、他の人には味わえない内容、

そして意味の深さのあるものばかりである。

今から書き記す出来事は、ごく近日中の事で、記憶も確かな状態である物であると

ここに約束する。鉄は熱いうちに打て、である。


三、四ヶ月前の事は転換期と呼ぶ事にする。

転換期から僕は、気持ちも改め、やる事為す事が良い方向へ向かっていると

少なからず感じていた。その一つに新たな興味の発見があった。

それは、日本の城に興味を持った事であった。

以前はそれほど情熱を感じなかった日本の城に関して

煮え滾る程の情熱を感じたのである。

事の発端としては、好きなミュージシャンの開拓により、

中島卓偉という人物を見つけ、その方に惚れ込んだのが要因である。

その方は城マニアであり、趣味が興じて、サイトのコラムや、番組のコーナーまで

立ち上げられたほどである。僕は音楽性、人間性だけなく、それにも魅せられた。

この話がこれから記すことの先駆け、

自分を強引にも勢いづけさせてくれることの重要な起である。

【記録2】

日本の城は戦国時代の1500年代から1600年代の方々が多くを築いてきた

武将の権力の象徴、住居、攻防拠点である。

今世残っている城は大変貴重なものから、

外見復元のみを由とし内臓を鉄筋にしてしまったもの、

史料(創建の際の建て方の書かれた物など)不足のために一部再建しかできなかったもの、

元々天守(一般的に城と言われている建物)がないが模擬としてあるもの、

天主台(城の土台の石)のみで天守さえ残っていないもの、

天主台さえも残っていないものまで多種多様である。

長い間、天守の形を木造建築のまま残しているものは大変貴重であり、

火事や、雷、または戦火によって焼失してしまったが、

その城に対して情熱のある人物らが資金を集め、史料のある場合、

現代建築として復元されているものに比べて、大変価値が高い。

それらは現存12天守と呼ばれ、名の通り、12しか現存していない。

更にそれを細かく分類すると、


・姫路城(兵庫県)、彦根城(滋賀県)のような、

 修復を繰り返し、ほとんど創建当時の状態を維持し続けているもの。


・犬山城(愛知県)、松本城(長野県)、高知城(高知県)、松江城(島根県)のような、

 存城時、一度は再建、改築されたが、その状態をほぼ残しているもの。


・宇和島城(愛媛県)のような、

 一部を焼失、改築されたもの。


・備中松山城(岡山県)、松山城(愛媛県)、弘前城(青森県)、丸亀城(香川県)のような、

 明治維新以前に付属する建物を撤去や損失してしまい、主体のみのもの。


・丸岡城(福井)のような、

 損失したが、遺材で再建したもの。


の5種類に分けられる。これらは国宝であるものもある。

またその他の城で価値の高いものは

木造復元された掛川城(静岡県)や

外観復元された名古屋城(愛知県)や

復興復元された岐阜城(岐阜県)などもある。



【記録3】

記録2は資料として記している。

城の価値が、一体どれほどのものなのかを示しておいた。

明治維新で廃城令が行われたり、不運にも焼失、損失してしまい

完全に姿を消してしまったが、土地がそのまま保全されていても

城跡としてあるものも、ある。つまり、天守があるだけが城ではないのだ。

攻防のために、穴を掘って侵入を妨げた堀切や、その掘った土を盛った土塁や

石を組んで建物の土台や土に埋めて敷き、道にした石垣などが残っているだけで、城跡なのだ。

史料史材が博物館史料館に保管されたが、再建されてないだけの城跡があるのだ。

それも踏まえたうえで、これ以降の記事を読み進めて頂きたい。



【はじめに】

日本という国のすごさに気がつき始めたのは、比較的最近で、

特に戦国時代の人間は現代人からは計り知れないほどのスケールの大きさと

常に命の危険がある中を生き抜き、今より情報網が少ない中で、

各所にいた武将は人の上に立ち、同じ天下統一を目指していたというだけでも十分すごい。


なぜ同じ意志を持っていたのか、何が動機で戦国時代が始まり、

どういった経緯で武将が武将になり、城を建て、軍を作ったのか、

そんなことまで記されている教科書を僕は知らない。


歴史というのは、書き記してもそれが本当である証拠はない。

民間伝承ではどこかで曲がってしまうかもしれない。

しかし、歴史を証明する物が残っていると、真実味が増す。

その歴史物を残そうとしてくれた人のおかげで、歴史が証明できる可能性が生まれる。


現代社会において、その歴史物のおおよそは普段の生活に関係のない物で、

興味がないと、人から誘われないとなかなか観に行かない物である。

観に行かなくても確かに今を生きる事は可能である。

だが、歴史の産物は、今の世の中を作ってくれた尊重すべき物であり、

それを直接観に行き、感謝を告げに行く事は意味があるのではないかと思った。


また、自分の中の歴史の教科書を一度リセットし、自分の目で見た物を歴史とし、

他人に左右されず、実物を見たものしか知り得ない本物の大きさ、迫力、魅力を感じたい。

そういう気持ちが気持ちである事を越えた時、

僕の足は自然にそこへ向かって歩き始めていた。


【第1章―攻城計画】

夏の訪れをひしひしと感じさせる五月の中旬辺り、

陽気な天候に恵まれたその日を、その前の日から思い出す。

自分が今住んでいるところから一番近い場所に目的地があったことを知った。

知ろうとしなければこれほど近くにあるということを知らなかったかもしれない。

なんせ、徒歩だけで行けてしまう距離であったため、ならばと徒歩を選択した程だ。

以前聞いた情報のせいで、行かなくてもいいかという気になっていた。

しかし、興味が出てからは早かった。

行きたいから行こうへ、行こうから行けるへ、行けるから行くへの

三段階のギアチェンジにより、行動となるが、その速度が圧倒的であった。

物は試し、

「自分が住んでいるところの一番近い城から攻めていく」

そう思った時既に

僕の戦国時代が始まっていた。



小学生の頃、地元に隣接する市の有名な城へ2度程行った経験がある。

この城が有名であること自体当時は知らず、

何故ここへ行くのだろう、と疑問を持ちながらも楽しんでいた。

ここだけに限らず、行くとこ行くとこの意味に疑問を感じていた少年であった。

そこへ行く明確な理由を言われたとしても、今程グッとは来ないだろうし、

難しい事を言われると逆に行く気がなくなるのも予想された。


今思えば、自分の生まれた場所にとても感謝をしている。

母親の実家がその隣接する市であるのも、両親が出会った場所もその市であるのも、

僕が生まれた病院がその市であったのも、今となっては感謝するべき事である。

今の状況である事はその時から決まっていたかのように…



僕の戦国時代は、思えばその時から既に始まっていたようだ。

最初に攻めた城は、「掛川城」である。

歴史的価値の高さなど、小学生の頃言われてもピンとくるはずがない。

しかし、掛川城の存在感はかなりの物である。

夜、ライトアップされ青白く光る御姿は幼き頃はそれなりの怖さがあった。

掛川市は両親とも馴染み深いため、よく連れて行ってもらった。

帰り際になると、掛川城のライトアップを眺め続けた。

何も知らなかったが、すごい場所なんだろうなとは感じていた。


実際すごい場所であった。

木造復元再建は山内一豊公の城であるが故の物であるとも思った。

山内一豊公は黒田勘兵衛氏より頭がキレる存在である。

天下取りにことごとく仕えた。

織田信長公に仕え、その時の繫がりで豊臣秀吉公へ仕えた。

豊臣秀吉公が天下を取るまでお手伝いしたと思ったら、

秀次、秀頼まで仕え、秀吉の病死後の関ヶ原の戦いの際は、

徳川家康公の東軍に身を置き、居城であった掛川城を

家康公へ渡し、信頼を築くなどをし、渡した後は高知へ家移りし、

戦国時代の最も盛んであった

1500年末から1600年始め頃までにおいて活躍し、

自身が高知城で60歳で病死するまで生き抜いた武将である。

天下統一を最も経験している人物こそ、山内一豊公である。

少し話が逸れてしまったが、一豊公が5万石も投じて建てた掛川城は

このような一豊公の評価の高さが木造復元再建に繋がっていると考えられる。

戦国時代において戦死していない武将の評価の高さは異常である。

そのような方の城を普通に見られている今の人々は幸せである。

その幸せを当時味わえなかった無念を払うかのごとく、

お城に情熱を感じ始めた時から、着々と攻城計画を練り始めたのだった。



まずは近場から攻めようと考えるのが人間の性である。

いろいろな理由があり名古屋で一人暮らしを始めた自分にとって、

確固たる理由をみつけた。

「僕はまず名古屋城に行くために名古屋に移ったのか」

その衝動により、名古屋城へ行く計画を立てた。


まずこの時点でどこにあるのかさえ知らなかった。

調べると大変近い。徒歩で行ける距離。

高いビル等が密集し普段見えないだけじゃないかと思える距離。

ただ、名古屋城は1600年代に建てられた平城であり、戦場にはほとんどなっていなく、

徳川家康公の権力の象徴として平地を利用してとにかくデカく建てたのが目的であるので、

戦乱中に建てた掛川城のような平山城みたいに目立たず、機能面をほぼ果たさない、

街のシンボル的存在なので見えなかったと、長い言い訳になってしまう。

しかし、このような事は興味を持ち、実際に観に行かなければ知り得なかった情報ではある。

すぐに行ける事を確信した僕は、連休を使って赴いた。


名古屋城を攻城して以来、

次はどこを攻城しようかという考えはすぐに浮かんだ。

というより、以前から友人より話を聞いて行きたかった場所へ

本腰入れて行きたくなった、というのが正しい。

それほどに名古屋城に魅せられたのだ。

早く行きたかったが、そこは違う県で、場所もわからない。

たまにそこの周辺まで行くという話を聞いていた友人をお供にするため、

都合を聞き、攻城計画を立てた。

名古屋城制圧より、約1ヶ月後のことである。


【第2章―登山】


位置の定まらない雲は時に集まりて、密集し、汗を流す。

彼らは飽きると、何処へ散るが、六の月はよく集合がかかるようだ。

その日も天気自体はさほど良いとは言えず、

心配してはいたが、結果としてその心配は必要なかった。

ただ自分として心配であったのは山の天気は変わりやすいということ。

山の上にある城は天気をも武器に出来る。

その分過酷な山登りに耐え、頑丈に作らねばならない。

土地を利用した城は攻める方としてもリスクを伴うだろう。

攻める方も守る方も容易ではないからこそ、山城は強い。

山城へ行く事の意味は、攻める側の立場になることにある。

その城の強さを実感し、如何に守られているかを考えるところにある。

考える必要がある。攻城計画時、常に山城のイメージを膨らませていた。

織田信長公が斎藤龍興氏を討ち取った有名な戦がある。

稲葉山城の戦いだ。

なぜ有名なのか。

ここで、信長公が勝たなければ、今の歴史はなかった。

勝ったからこそ天下布武を掲げ、天下統一を目指すようになった。

勝たなければ、岐阜と言う名前すら存在しなかった。


経緯はこうだ。

何度も信長公は稲葉山城を討とうとし、失敗している。

龍興氏が失脚寸前になったことを受けて、美濃の防御の要、稲葉三人衆が

信長公に寝返ったため、龍興氏は、攻められた時、

「あれ?これ味方なの?敵なの?」状態になってしまい、あたふたしてしまう。

その隙に城下町を攻めた信長公は、稲葉山を完全包囲してしまい、龍興氏は降伏し、

信長公は念願だった美濃を攻略した。

美濃を攻略する夢が8年かけてようやく叶ったため、

「じゃあ天下統一まっしぐらでしょう!」と唱えた。

それが稲葉山城の戦いである。


稲葉山城は龍興氏が居た時の名前なので、データを上書き保存するかのごとく、

岐阜城と名付け、その土地の井ノ口すら、岐阜と変えてしまうほどである。

井ノ口の名残として、岐阜市章は「井」の字である。(諸説あり)

稲葉山という名ですら後に金華山とされ、

まるで斎藤家がいなかったような歴史を作る織田家は、らしいと言えばらしい。

元々稲葉という名前は二階堂家が稲葉姓になった時名付けた物で、

斎藤家はそれを改名すらせずにいたのだが、信長公が全て変えてしまった。

非常にらしさ溢れる歴史である。

後に徳川家康公の物になるが、廃城になってしまい、

明治時代に木造で復興復元を1度したが、焼失。

しかたなく鉄筋コンクリートで再建し、今あるのは三代目岐阜城である。

つまり、金華山の頂上に建つ城、それが岐阜城である。

という訳で、僕はここを攻城したのである。友人をガイドにして。


道は想像以上に険しかった。

実際コースで一番面倒な道を選択したのだから、険しいはずである。

頂上に、城に着く頃には汗だくであった。

もう今回は城巡りではない。

山登りであった。

そして、信長公が討ち取るのに相当苦労したように、

自分も、多分この土地の人間が手伝ってくれなかったら相当苦労しただろう。

僕が信長公だとしたら、友人は稲葉三人衆である。

とにかく守りとしては本当に強い。

生半可な気持ちでは絶対討ち取れないし、龍興氏はそれほど自信があったのだろう。

城の上から見れば、どうやって攻めて来るか丸見えになるほど景観が良い。

龍興氏の気持ちと信長公の気持ち、両方味わうことができた。

山城の機能が身にしみてわかった。しばらく山城はやめておこう。

一人で山城は少し敬遠することにしよう。そう思った。


ただ、一番響いたのは、この城のこの難しさに関わらず、三度建てていることにある。

建設した方々の苦労もわかる。さらに戦国時代はクレーンなどない。

人力で運んだのも並大抵の労働力では不可能だ。

残そうとしてくれた方々には感謝しかない。

山城を1個作ろうとしたら、時間もお金も労働力も、平城の比ではないだろう。

だからこそ、信長公はここに目を付けたはずである。

既にある山城を討ち取り、拠点にすることが夢になるはずである。

後に信長公は安土城を作ったが、短い命であったため、より岐阜城の好感度が増す。

歴史的に重要な場所に行けたこと、そこへ連れて行ってくれた友人に感謝である。

平山城(掛川城)、平城(名古屋城)、山城(岐阜城)と体感し、県もまたぎまたぎで来た。

次はどこに行こうかと思ったところ、

行きたい所がありすぎて、なかなか絞れないが、

じゃあやっぱ近場か、ということで、岡崎城か豊橋城を思い浮かべた。

県内にあるし、ついでに浜松城も見れたら…と考えたが、

いかんせんパンチが足らなかった。(二つの城には申し訳ないが)

どうせならもう一度県をまたぎたいなとも思っていた訳だ。


そこで思い浮かべたのは、長野県。

長野県は城がたくさんある。

信州の武将といえばやはり真田家。つまり武田軍勢や豊臣軍勢の拠点であった。

秀吉公はお城好きである。家臣にもとにかく格好良く強い城を建たせた。

掛川城は秀吉公の家臣時代の一豊公の物であるし、

もちろん一豊公の高知城や

加藤清正公の熊本城、宇喜多秀家氏の岡山城、池田輝政公の姫路城

毛利輝元氏の広島城、堀尾吉晴公の松江城、

そして長野県にある、石川数正氏の松本城。

これらは秀吉公の家臣による城であり、現存天守含め天守復元されている。

強い城というのは、やはり現存天守の存在がデカい。

どうしても見ておきたい城シリーズである。

中でも一番近場にあるのは長野県にある松本城しかなかった。

ということで次回は長野県で松本城が見たいなと思い立ったわけである。

いつ行くかは全く頭の中になかったが、今年中に行きたいとは考えていた。

5月に名古屋城、6月に岐阜城ととんとん拍子で来たので、

来月に、大型連休を作り、行こうと考えたのだった。


【第三章―まつもとーまつもとーまつもとー】


梅雨が明ける。それは夏が控えていたという事である。

入道雲が空というキャンパスに咲く。アーティスティックな白が映える。

蝉の音が響き渡る。空蝉の僕らに何かを嘆いているようだ。

日の長さがリズムを狂わす。

熱が多く奪っていく。

見た事のないくらいの緑色が空の青とのコントラストとなる。

少し、日常から切り離された空間へ行ってみたくなる。

城巡りとは、タイムスリップすることでもある。

戦国時代の人の空気を味わうことにも、情熱を感じるのだ。

そして、城に、その土地に感謝をし、今の幸せに感謝をすることが

一番の目的である。

大きな城を見て、小さい自分を大きくしていくために行くのだ。

今回は思い立ってから綿密な攻城計画を練った。

全て一人で行うためだ。行って無事に帰るためだ。

最初から最後まで一人の旅はこれが初めてである。

初陣である。戦地は名古屋を離れ、長野県は松本市。

国宝、松本城。

複合連結式の黒塗り要塞である。




はじめ、1泊2日の旅にしようと計画していた。

が、それは叶わず、

結局、2泊3日の旅になってしまった。

確かに松本城へ攻城するだけなら、1泊2日でいい。

しかし、僕はもう一つ、ある城へ行こうとしたのだ。

それは、

後々説明する。

初の一人県外遠征は、期待で溢れていた。

それに備え、新しい服や靴やサングラスを身にまとい、

財布も新調し、用意周到であった。

それくらい、旅をしたかった。その気持ちでいっぱいであった。

準備の時点で楽し過ぎて、とにかく早く行きたかった。

ホテルの予約、指定席の確保、時間の調節、場所の確認、

やるべき事は全てやれた。

旅に行くまで、ミスは0である。それ以前にそのくらい自信があった。

少し不安要素であったのは天候のみであった。

当日、雨の予報だった。

しかし、お天道様は僕の味方をしてくださった。

雨は真夜中から朝方にかけて降ったのみで、攻城中は曇りからの晴天であった。

これ以上にない、攻城日和であった。


松本市のホテルに泊まり、カーテンを開けると

松本城の頭が望めた。

興奮した。

ホテル内では、映画を無料で見れる仕様にし、

映画を観ながら一夜を過ごした。

そこも大事な旅行のプランの一つであった。

朝ご飯はバイキング形式で、今から城を二つ巡るまで食べないつもりでいたので、

沢山食べて、エネルギーをつけておいた。朝ご飯自体久々であった。

出発時、雨上がりの雰囲気と、山に被さる雲を見て、

今日はずっと曇りだろうかとそんな甘い事を考えていた。


松本城を目と鼻の先に収めた時、

曇りがかった空と黒塗りの不穏さとが圧迫感を引き立たせていた。

さすが国宝、とてつもない雰囲気である。

到着時に城内へ続く門が開いていなかったので、

とりあえず半周することにした。

池で囲まれた天守は、見る角度によって顔を変え、

池に写る逆さ松本城もまた、風情があった。

黒門をくぐると、本丸は庭園のようになっていた。

徐々に天守に近づくに連れ、大きさを露にした。

さすが五層の天守。デカい。複合連結式であるため、櫓でさえデカい。

攻め甲斐のある城だなと思った。


天守内に入ると、窓が少なく、暗い。階段も急で案外怖い。

中に思ったより人がいて、ゆっくり見るには少し窮屈であった。

特に気になったのが、中で展示されている武具などをフラッシュ撮影する子ども。

それはあかんぞ〜フラッシュ撮影する事で品質が落ちてっちゃうんだよ〜

それを知らない大人にはなって欲しくないなー多分自由研究の一つなんだろうけど。

強い光は古い物にとっては敵で、だからこそ暗い天守内から出さないわけで、

子どもに教えてあげたかったんだけど、ここのスタッフでもないし、

なんて言えばわからず、躊躇ってしまった。それもあかんぞ。

武者走りや矢狭間、鉄砲狭間、石落としなど、攻撃用の作りもあり、

5階に入る時、柱に少し頭をぶつけた。そんなに痛くはない。

フラッシュ撮影される武具に比べたら痛くも痒くもない。

5階を歩くと、突如風が入りすごく涼しかった。

山に囲まれている長野県は、上の方が涼しいのだろうか。

最上階はさほど涼しくなかった。人が多かったからだろうか。

そして、松本城といえば、何と言っても赤塗りの冊が特徴的な月見櫓である。

開放的な空間で空を見れば、青空を臨めた。

あれさっきまで曇ってなかった?と、そんなことどうでもいいだろ、

とにかく月見櫓で月見をしたい。そんな気持ちになって、降りたら、

めちゃくちゃ日が射していた。さっきまで曇っていたはず。

もう一度狭い階段を上り下りし、5階へ行きたいなと感じる暑さ。

そして周辺を一周し、広い二の丸を眺め、最後は太鼓門から出た。

赤漆が綺麗な埋橋は、2011年の地震の時に石垣がずれてしまったようで、

渡れなかったのが悔やまれるが、それでも十分攻める事ができた。落城成功である。

一段落ついてお腹が空いたので、コンビニでおにぎりを買った。

食べないつもりじゃなかったのか。想像以上の暑さに頭がやられたか。ならしかたない。


さて次の目的地へ行こうとした時、

電車の時間を考えるのを忘れ、長いこと待つ羽目になった。

ただでさえ、次の場所まで1時間40分くらいかかるというのにだ。

今後の旅の課題が少し残った。電車を待っていると、

電車到着時のアナウンスの独特さが気になった。

「まつもとーまつもとーまつもとー、松本に到着です」

最初のひらがな部分、めちゃくちゃ気の抜ける言い方である。

その後、正気に戻ったかのように普通に松本に到着とかいわれ、

「いやいやいや!」

と言いたくなってしまった。が、そこは我慢。

特急電車に乗り、時短を行うことも勿論計画通りであった。

寝ちゃって寝過ごしそうになったけど。

一度乗り換えを行った。その際、

電車のドアは手動であり、降りてくるおじいさんがいなければ気がつかなかった。

慣れは怖い。

乗車中は長野を展望していた。

とにかく山が多く、盆地に家や畑がある。

岐阜城の話で山へ材料を運ぶ事自体すごいことと書いたが、

山の麓から腹部へかけて鉄塔から電線が伸びていたのを見た時にも、

同じ事を考えた。とてもじゃないが、人間離れした技である。

普段何気なく暮らしていて、こういう人の努力の結晶に気がつけないのは

申し訳ない限りだ。本当にありがとうございます。役立ってます。

長野県民じゃないんですけどね。

にしても、畑が多い。いやー畑だな〜と思っていたら、ヘチマみたいな瓜が一つだけ

バリバリの存在感で道にドンと置いてあった。さすがに笑った。

テクノさかきという駅名に珍しさを感じ、

日の眩しさをサングラスで避けつつ、あの上田城があるであろう

上田駅を通り過ぎ、終点であり、次の目的地

小諸駅に到着したのだった。


【第四章―○○大好き○○さん】



小諸駅に着いたといえば、

次の目的地は、もちろん小諸城である。


この小諸城、全国的に珍しい城である。

なにが珍しいのかというと、平山城であるのだが、

城下町より、低い位置に天守がある。これでは城上町だ。

そのため、穴城とも呼ばれており、珍しい城であるのだ。

これは、天然を利用した作りで、浅間山の溶岩よって出来た勾配を利用し、

城域の後ろは千曲川の臨める断崖絶壁、天然の難攻不落、最強の城である。

しかし不運かな、天守は落雷により焼失してしまった。

町より低い位置にあるのに、である。

ただ実際のところは落雷であるかも不明である。低いし。


ここ小諸城は武田信玄公の城である。

土地利用大好き武田信玄公。

人工的土地利用大好き北条氏政氏。

お城大好き豊臣秀吉公。

全部大好き徳川家康公。

自分大好き織田信長公。

で覚えよう。


小諸城内には神社が二つもある。あと射院もあり、なんと動物園まである。

とにかく、てんこ盛りである。

駅を挟んで国の重要文化財である大手門がある。ここは無料。

こちらが城の正面であり、

そこから歩いて地下を通るか、駅の通路を利用し反対側へ出て、

三の門が、本格的に天守へ行く懐古園の入り口になっている。ここから有料。

僕もはじめ、行き方がわからなかった。

地図では駅の出入り口の反対側に懐古園があり、

しかし、大手門に行きたい僕は、そのまま進めば良いとのことで、

どういうことなのかがわからなかったが、なんとか大手門に到着。

先にこちらに着いてよかった。いや、ここからが入り口かと思ってただけに

ほとんど門だけであったのは出ばなをくじかれた。

そしてなんとか周辺地図を頼りに、三の門に着く事が出来た。

小諸城を攻める際は、とにかく地図が必要である。

懐古園内いわば城内はほとんど森であったが、所々に石垣が組まれ、

石垣大好きありんこさん。としてはフルコースを味わっているようなもんであった。

そして見所の一つ、圧倒的な谷。空堀である。

この空堀は実物を見ないとすごさが伝わらないところが魅力の谷である。

そして天主台の石垣を後に、水の手展望台へ向かった。

そこから望んだ千曲川と先の山々には感動を覚えた。

しばらく眺めてしまった。むしろずっと眺めていたかった。

いろいろこみ上げるものがあった。

ここからの景色を見れただけで僕は長野に来て良かったと思えた。

城が好きになってよかったと思えた。

最後はありがとう、という言葉が浮かんだ。

その後天主台へ。天守はないが、そこはイマジンでなんとかした。

鏡石を見て、確かに自分が写ることを確認した。


そうして、城内を半周したところで、ご飯にした。

城内におそば屋さんがあったので、有名なこもろそばを堪能した。

腹ごしらえをしたところで、

動物園に行けるようなので行く事にした。だって300円で行けちゃうんだもの。

この動物園は一本道なので、まっすぐ歩きながら見れる。

最初にデカいオウムがいて、正直入ろうか迷った。怖いわ。

進むうちになぜかどんどん動物に悲壮感が漂っていった。

あれ?と感じたが、そりゃあだって暑い。暑いとそうなるだろう。

ペンギンはどこか一点を見つめ動かない。メスライオンは日陰で僕を睨む。

エミューはデカい。クマに話掛ける女性飼育員。

角をぶつけ合い挨拶するヤギ。歓迎の色が見られない園内には何も言えなかった。

いたたまらない気持ちになってしまったからだ。

極めつけはポニーと子やぎ。

ポニーの前にお父さんと1歳くらいの子が居て、草をあげていた。

その奥がシカと子やぎで、シカは日陰で動かない。

子やぎは隅っこで僕に尻を向けたまま外を見ているかのように、

冊用の板と板の隙間をただただ覗いているだけであった。

もうどうしようもなかった。

そしてポニーの元へもう一度行くと、

さっきまでエサをもらって、上機嫌になったのか、子どもに向かってポニーが吠えた。

それにビビっちゃった子どもは、ポニーを怖がってしまい、

それをみたポニーの顔がまた何とも言えない顔をしていた。

多分、それを見ていた僕もポニーのような顔をしていた。顔が長いとかそういうのではない。

この悲壮感が小諸城を堪能した僕にとって非常にデカいダメージになった。

なぜ行った。自問自答の帰り道となった。

それに加え日差しが暑過ぎる。帰りは外側を回ろうとした自分のミスであった。

汗だく。さっきまでの感動はどこへ置いて来たのやら。きっと小諸城にあるだろう。

それか汗となって流れたか。とにかく終えたので帰ろうと思った。

駅に着くとまずは切符を手に入れようとしたのだが、

駅員がなぜか特急券だけを渡し、乗車券は後で買えと言われた。

なにそれと思ったが、時刻表を確認し、乗り換えの駅で一度降りて、

切符を買う事は、まあできないこともねえかと思っていた。

しかし、途中、電車が止まる。

できないこともないが、時刻通りにつかないと、結構厳しい間の時間であった。

なんせその次の特急の到着は、50分後くらいなのだ。厳しいだろ。

もう猛ダッシュで改札をくぐり、券売機で切符を買い、猛ダッシュで降りて

なんとか電車には乗れた。

そこから、自由席の位置がわからなかった。

車内をサングラス掛けた汗だくの男が行き来しているだけで、

それはもう不審者である。若いだけよかった。

何とか座り、もう後半の怒濤のラッシュにやられ、

正直帰りの記憶がほぼない。ちょこっとだけしかない。

松本に着いた僕は、落ち着きを取り戻すがごとく、お土産を買う。

そして昨日の到着時点で電池切れになった使えない腕時計を直そうと

PARCOまで行ったが、直すのに三週間かかると言われた。絶対無理じゃねえか。

もう疲れ切った顔でホテルに戻り、その後はコンビニでお酒なんか買ってしまった。

そして、電車内で結構寝てしまっていたので、眠れない。

まあなんとかなって、最終日も朝ご飯ちゃんと食べて、少しゆっくりしてから

駅へ向かい、ちゃんと指定席を取っておいたので、

ホテルで寝れなかった分ゆっくりしながら、無事旅を終えました。


その後、どうしても時計を買いに行きたかったので、

帰って荷物整理してから、時計を見に行って、結局ゲーセンでゲームと

ファミレスで食事しかせず帰るという、県内では無惨な結果に終わりましたとさ。



【おわりに】


これにて、旅行記を終了する。

長々とした旅行記になってしまったが、

ボリューム感のある、暇つぶしに最適な物になったんじゃないかと思う。

なので、暇があれば全部読んでいただきたい。最後に言う事ではないか。

まあ今回のメインは長野一人旅行である為、

掛川城、名古屋城、岐阜城の話は全部前フリであったことをここで伝えておく。

やけに長いフリだな。

まあ直接的に長野旅行の話をすればよかったんですが、

自分の中で復習を込めようと城の説明も兼ねて書こうとしたら、長くなってしまいました。

まあ長野だから良いか。長野だから長めなんだよ。

とつまらないギャグで、ギャグにもなってない状態でこの旅行記を締めさせて頂きます。

次回、また旅行へ行った時に旅行記を書かせていただきたいと思います。

それでは、ありがとうございましたとさ。


(おわり)

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