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モチーフに興味がない

5月1、2日は美術館に行った。
国立近代美術館のMOMATコレクション、時間がちょうど合ったので鑑賞ガイドに参加した。3点ガイドさんが選んだものを、参加者で鑑賞しどう感じたかをお互い発表し合うという方式だった。
絵画を見てどう感じるかというのはやはり人それぞれで、絵は鑑賞するものとの間に意味が存在するのだなと思った。
完全に自立している絵は見るものに想像の余地を与えないので面白みに欠ける、というのは去年から幾度となく講評で耳にしていたことだ。
好きな作家を挙げ、その理由を挙げていると自分の根底にグラフィックデザインがあると気づいた。ちゃんと絵を習ったのが予備校に入ってからだったので、そのとき学んだことがとても大きいみたいだ。10代のときに見たもの、感じたもの、経験って本当に人生の礎なんだなあ…と10年以上経って実感する。
琳派をデザイン性の高い作品を描いた人たちとして紹介され、作品を鑑賞したり、それを参考に色彩構成を作る授業があった。そしてそのとき感動したことは今も鮮烈に残っており、あのとき「いいな」と思った作品は今見ても「いい」のだ。

絵画を鑑賞するときの目が、ポスターを見る目と同じになっているかもしれない

そういった影響からか、鑑賞していて、私は「何が描かれているか」を意識していないことに気がついた。それがなんなのかを特に気にしていない。「〇〇が描かれています。」この説明が、必要ない。というか一応読んだはずなのに全く頭に残っていない。
「好きな色だな」とか「線が気持ちいいな」とか「綺麗だな」とか「ここの表現上手いな」とか「この筆跡いいな」とか「構図が気持ちいいな」とかで、主題がなんなのか、本当に興味がないのだなと自分でもびっくりした。
油より日本画を見るのが好きだが、結局描かれているものよりも質感が好きだから好きなだけなのだ。土のにおいがする表現、氷の表面を感じさせるテクスチャ。そういったものを「すきだー」と思う。

イラストを描く、となって、売れる絵とはなにか、とか、そういう思考にしばらく縛られてしまっていた。いいねがたくさんつく絵がいいのだとか、絵柄を真似されるような絵がいいのだろうとか、そういうのが。
描きたいものが何もないので、去年は本当に絵を描いていなかった。それはもうほんとうにひどかった。
今でも描きたいものは特にないのだが、自分はそもそも描きたいものなど昔からなかったのかもしれないとこのGWいろいろ作品を観て気付いた。
「絵を描くこと」が好きなのだ。「何を描くのが好き」という細かさがない。
手を動かして線を引いていられればいい。鉛筆が紙の上を滑る音を聞くのが好きだ。ペンのインクが紙の上で滲むのを見るのもいい。水を敷いた紙の上に絵の具を落とすのも好きだ。うまくいかない、無造作な色の散らばり。自分にとって、絵は表現ではなく「絵を描く」行為の結果なのだと思った。
筆で好きな色を紙の上に載せる。それが好きなのに、そこに意味がなきゃダメだとか、意志がなきゃダメだとか、そういうのばかりで苦しくなってしまったのだろうな、と思った。
特に去年在籍していた科では、みんな「好きなモチーフ」があり、それを描いていた。それが良いことのように講評されているのを観て、窒息しそうになっていたのかもしれない。住む場所を間違えていたのかもしれない。

PNを「呼吸」とした。私にとって、絵を描くことは呼吸であって、表現方法の一つだとか、生きるための仕事だとか、そんな大それたものではないからだ。

イラストレーターが多い今、好きなモチーフ、得意なモチーフがはっきりしている人のほうが印象に残りやすいという。その通りだろう。私はこれで食っていくことなどできるのだろうか。

日記を書こうとおもうとついこういう口調で書いてしまうんだけど怖いかな。

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