学校と、外への窓。

家庭教師から帰ってきた。いつも授業の終わりにお母さんに今日やった教科について説明するのだが、これが意外と難しい。「今日は数学と英語をやって、〇〇という単元をやりました。このあたりが難しくて、このへんが意外と良くできていて…」「…まあそんな感じで進めていこうという形です」のような感じで歯切れが悪く、毎回悩みどころである。まあお母さんの方も慣れていると思うし、そこまで期待しているとは思ってはいないが。担当している子は中学生男子なのだが、彼とはよく授業の合間に雑談をする。今日は「数学をしてなにか役に立つのかわからなくなってきた」という言葉をきっかけに少し話した。勉強は苦手だけど、考えていることは案外大人びている子だったので、いかにも中学生らしい悩みというか愚痴が聞けて新鮮だった。僕も彼を説得するわけでもなく、勉強ってこんな感じの意味があるよなあって話すぐらいだった。その子はおばあちゃんの畑の手伝いをしているみたいで、その方が大変で必要な気がするけどなあと言っていた。それはそうだ。畑の世話をする方が、勉強でできるようになることよりも大事なことのように思えた。たしかに勉強することで広がる視野や、向上する思考力はあるが、そのことよりも大事に思えることはいろいろあると思う。また、矯正されてやらされる勉強は詰まらず、いまいち頭に入ってこない。それならば、自分が必要だと思ったとき、やりたいと思った時に勉強をすればいいと思うのだ。その子は普段学校には行っていないので、それを有言実行できていてすごいなあと感心している。小学校の時は、授業が苦痛でめんどくさかったという。やらされる勉強嫌だったなあと。特に、他の子とペースを合わせる必要があるのが嫌だったみたいだ。自分がやらないだけならばいいが、やらないことで、周りに影響してしまうような授業とかがあって、それがうんざりだったらしい。それで今はほぼ学校に行っていないが、本人はあっけらかんとしていて、むしろ清々しいぐらいだ。勉強は好きになれたらいいのになというぐらいのスタンスだ。学校の先生からしたら生意気なガキなのかもしれないが、そんな人たちには全く理解できないだろう。彼のようなスタンスを否定し、型にはめてしまうのが学校の在り方だ。生徒側もそれを分かった上で、表面上はそれで付き合うようになる。その考え方は、次第に自分の頭に語りかける厳しいマイ教師へと変わってしまうのであるが。一方で、学校は、特に方向も定まっていない時期の人間をある程度光を指し示すことで、進めるように誘導する機能はある。その意味では有用であると思う。そうであるならば、教師という存在は生徒の人生に対する教科書である必要があるが、教科を教えたり良い大学に進学させたりといった限られた範囲のことしか教えることができない人がたくさんいるように思う。本当は、人生の中で、自分を大事にしながら生きて行くことを教えてくれたらいいのに。思うようにいかなかった人を排除するようでは、それに沿った考え方をする人ばかりが育ってしまうだろう。勉強のその先を、大学に定めすぎるのではなく、外部へとも接続してくれるような存在だったらいいのにな。図書館や保健室は、そういった学校の環境とは少し離れた現実を持っていて、そのような場所であれば落ち着けるといった人が一定数いるのはこういった理由からではないだろうか。外部とは、異世界へと通じる窓のことであり、ひとつの世界のルールしかなければ、息苦しくなってしまう人もいる。そのような窓のような役割をする人がもっと増えてほしい。

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