好きな惣菜発表ドラゴンが好きな女の話
壁に掛けられた時計の針が天辺をうろついていた頃合い、欠伸のように間伸びした蝶番の軋みが客の来訪を告げた。
「お客さん悪いんだけど今日はもう……あれ、“好きさん”じゃないか」
カウンターを隔てた先で愛想笑いを浮かべていたご主人が、少しだけ抑揚のついた声で彼の存在を認める。
隣で管巻いている彼の声で気付かなかったけど外ではいつのまにか雨が降っていたようで、しとしとという寂しげな音を纏いながら、彼はお店の中に一歩踏み入った。
「おお、懐かしい顔だねえ! どこかでくたばっちまったのかと思ってたよ!」
自分の言った言葉に大声で笑う隣の彼。なにがそんなに面白いのか、そんな失礼極まりないことを言った彼に対して、ご主人に“好きさん”と呼ばれた彼は無言で頭を下げる。
ちらと、彼が私を見たような気がした。
「丁度いいや、てめえの話ばっかでちと退屈してたんだ。そら、流し、なんか歌ってみろ」
隣の彼が不躾にそう命令すれば、流しと呼ばれた彼はまた少しだけ頭を下げて、歌い始めた。
「好きな惣菜発表ドラゴンが」
「好きな惣菜を発表します」
次に続いた歌詞は、からあげ。
彼は次々と料理の名前を──歌詞の通り捉えるならおそらくは彼の好きな惣菜の名前を歌い続けた。
「きんぴらごぼうかな」
「それってきんぴらごぼうだね」
「きんぴら大好き」
きんぴら。
一年ほど前のあの頃の、なんてことない日を思い出す。
当時付き合ってた彼と、ボロアパートの小さな部屋で、半額シールの貼られたきんぴらごぼうを美味しい美味しいって食べたっけ。
田舎から出たばかりの二人にはとにかくお金が無くて、二人で住んでた小さな部屋にキッチンなんて贅沢なスペースは無くて。それでも、彼と割引された惣菜を食べている時は、確かに幸せだと感じることが出来た。
あの頃は彼と別れることも、まさか自分がこうやってホステスをやっているとも夢にも思わなかった。
彼はもうとっくに私を忘れているのだろうか。
とっくに私のことなんか忘れ去って、一途に真っ直ぐ夢を見続けられているのだろうか。
と、高らかに惣菜の名前を歌い上げていた彼の声が一気に落ち着いた音になる。
「好きな惣菜発表ドラゴンが」
「好きな惣菜を発表します」
「からあげ」
「ハンバーグ」
「とんかつ」
「二人で分けた半額弁当」
彼のその言葉に、私は思わず息を飲んだ。
「もう憶えていないかな」
憶えてる。
「きっと忘れているんだね」
違う、忘れてない。
「君はもういない」
待って、私は今も──。
思わず吐き出しそうになった言葉を、立ち上がろうとした私を止めるように、彼はまた先程までの明るい調子を取り戻す。
「好きな惣菜がまた出てきたその時は」
「発表したい」
「発表したい」
歌が終わると彼はいちもにもなく、上機嫌な飲んだくれが突き出した数枚のお代にも一瞥することなく。
ただ、ささやかな拍手を送るご主人でも、もう一曲とせびる彼でも、ましてや私でもないどこかに向かって一礼して、そのままお店を出ていった。
外はもう雨は上がっていて、でも不思議なことに。
ドアが閉まる直前に見えた彼の横顔、目尻から頬に伝って。
確かに一筋、濡れているのが分かった。