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■ ペリーの旗立岩 ■

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1853年、琉球に寄港したペリー提督率いるアメリカ艦隊の調査隊は、中城グスクへ至るハンタ道の道中で、岩の周辺で休憩をとりました。その際、岩山の上に旗を立て、記念に祝砲を撃ったとされています。

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米国東海岸を出港したペリーはアフリカを迂回し、インド洋を経由してシンガポールに到達しました。シンガポールから琉球に渡ったペリーは、泊港を拠点に、浦賀・小笠原・香港へ出向きました。琉球は、食料や燃料の供給基地となりペリーの航海を助けました。

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ペリーは、江戸幕府と日米和親条約、琉球王府と琉米修好条約をそれぞれ締結しました。日本との和親条約が不調に終わった場合、琉球を占領し江戸幕府に圧力を加える意思があったとされています。

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そのためペリーは、調査団を編成し現在の那覇市からうるま市に至る広範囲を踏査しています。その調査団のアメリカの絵画師・ハイネが、琉球各地の様子をスケッチしており、その絵画が青い目が見た「大琉球」に収録されています。そんな「ペリーの旗立岩」は、村指定史跡に指定されています。

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