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「岐津禰」No.6

           6,
 翌日、勤務を終えた度部は自転車で「キツネ」に向かった。「キツネ」の提灯が見えて度部は安堵した。
 店内に入ると、この時間、いつもは度部が殆ど一番目の客となるが、今日は、カウンターの真ん中に一人、初めて見る、白髪頭にハンチング帽を被った男が座って、小皿の煮魚を箸でつつきながら、盃を傾けている。
 男は、入って来た度部に振り向きもせず、カウンターに肘をついたまま、盃を口に傾けている。度部は定位置の、カウンターの端へと座る。
 横目でちらと男の様子を窺う。二日前に吉津祥子が港で迎えていた男に間違いない。港で見掛けた時は70ぐらいかと見えたが、60そこそこ、か。
 カウンター内で、突き出しの用意をする吉津祥子に特に変わった様子はない。揚げ物や酢の物を箸で挟み、並べた小皿に盛り付けていた吉津祥子が、ふと度部の方に視線を走らせた。
 普段は、度部には全く愛想も愛嬌も見せない吉津祥子、その視線に、度部の一人合点か、何か、重い物を感じた。そして、吉津祥子は、男に云った、
「この方、ね、度部さん、贔屓にしてくれてんの、この島のお巡りさん…」
男は度部の方を見向きもせず、手酌で酒を注ぎ、盃を傾ける。度部は、それでも男の横顔を見ながら軽く会釈する。その僅かな時間の観察で、度部は男の素性を直感した。
「この人、大阪で、大変、お世話に成ったひと、うちのこと、心配で、様子、見に来てくれてんけど、ここ、どこも行くとこ無いんで、今日は早うから店開けて、来て貰ってんの」
吉津祥子は、男を、大阪でお世話になったひと、と云ったが、亭主、とはいわなかった、それに男の名前も云わなかった。
 男が、吉津祥子がカウンターに出した小皿に手を伸ばした、その上着の袖から手首が出て、そこに花柄模様の、紫の入れ墨が見えた。
 度部の直感は当たっていた。やはり素人ではなかった。別に驚きもしないが、吉津祥子は、男の入れ墨を度部に見られたと気付いたのか僅かにだが顔色を変えた。

 気まずい雰囲気の店に、やがて、若い自衛隊員たちが、風呂に入ってさっぱりしたげに、賑やかに店に入ってきた。それを機に、男は立ち上がり何も云わず、店を出た。吉津祥子が慌てて男のあとを追って店の外へ出た。
 ほんの数分して吉津祥子は店に戻って来た。が、その顔が何処か気が重そうに、何やら浮かぬふうに度部には見えた。吉津祥子の首筋に、ふと赤い物が見えた。度部は、男と吉津祥子の関係を察した。

 直撃が予報された嵐は進路を変え、島は穏やかな好天に恵まれた。東京からの定期運航船も定刻に到着し、定刻に東京に折り返して出航した。
 その便に、吉津祥子の家に居続け、夕には「キツネ」で酒を飲んでいた男の、乗船する姿があった。度部は、なにやら、心を塞いでいた重い蓋が外れたように、心が安らぐのが分かった。