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「人畜所履髑髏」No.17/19

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 授業中、時に、ふと、ひとの視線を感じるようになった。気になり、振り向いた先に、髪の長い、色白の、ほっそりした女子学生が居た。目が合った。女子学生はにこりと、その眼に何の悪意も恐れも無く、微笑み、そして軽く会釈した。そんな、子供のような、人懐っこい目を見たのは初めて、だった。広足はつられて、こくりと頭を下げた。
 名前を、百合、と云った。いつも一人で、目を、野獣のようにぎらぎらさせている広足が気に成っていた、と云う。でも、全然怖くない、と微笑んだ。
 広足は、云った、誰も近寄らない、自分はその方がいい、誰かと友達に成りたい、と思ったことなんか一度もないと、つっけんどんに云った。
 百合は、へえ~、そんなひとも居るんだ、とあっけらかんに云って笑った。百合は、嫌がる広足をあちこちへと連れ歩いた。金を持たぬ広足を気遣って、先にさっさと金を払ってくれた。広足は、凍り付いた心が次第と和んでいくのが分った。
 しかし一人に成ると、過去に見た、あの夜に見た景色が、体に染みついた垢が鱗のように剥がれ、地肌から大蛇の匂いを伴って蘇ってくる。思い出されるあの夜の光景が広足の心を惨々に苦しめた。
 
 百合を知って以来、広足は過去を断ち切りたい、と切に思うようになった。だが、断ち切りたいと願えば願う程、広足は、否応なしに真っ暗闇の過去の世界に引き戻された。
 前を歩く女、擦れ違う女の匂いが広足の嗅覚を刺激して、切り捨てたい過去が、突然、広足の脳に生々しく蘇った。モト爺の家で覗き見した、首を絞められて苦し気に喘ぎ、体を仰け反らせて官能の昂まりに身悶える女たちの裸体が、広足の欲情を煽り掻き立てた。 
 広足は忽ち腐肉を捜す獣となり、ひとの理性を失った広足は、気が付けば、馬乗りになって、服を引きちぎられた女の首を絞め、女の呼吸を停めている…
 火の見櫓の、連打する鐘の音が、広足の耳の中で鳴り轟く。広足の体は紅蓮の炎に包まれて焼かれるように、広足は、耳を抑えて転げ回る…
この症状が、突然に発作して広足を苦しめた。
 
 或る夜、百合は、身籠ったことを、不安そうに打ち明けた。広足は何度も何度も、本当か、と訊いた、そして妊娠が確実だと知ると泣き始めた、その肩を百合は撫でて云った、
「ごめんね…」
広足は、
「ありがとう…」
と云った、百合は、広足の体に抱きついた。その時、広足の耳の奥で、小さな蚊の羽音が微かに聞こえた。耳鳴り、だった。耳鳴りは次第に大きな音になり、火の見櫓の、連打する鐘の音のように喧しくなっていく。
 広足は知っている、この耳鳴りは恐ろしい発作の前兆だった。広足は耳を塞いだが、鐘の音は、広足の耳が破裂する程に鳴り響き、広足はのたうち回った。
 百合は広足の突然の狂乱に驚き、広足の余りの恐ろしい形相に百合は後退りし、そして外に飛び出し、そしてそのまま、何処にも戻らず、広足の前から身を隠した。
 
 或る日、百合は赤子に乳を飲ませていた、突然、部屋の扉が開いた。恐ろしい予感に襲われ、振り向きもせず、百合は赤子を抱いて逃げ出した。百合は長い髪を掴まれ、引き倒された。
「広足さんは赤子を奪い、そのまま裏庭に連れ去りました。赤子が激しく泣き叫ぶ声が聞こえました。私は狂乱し後を追いました。広足さんと赤子が何処に居るか分かりせん。泣き声が聞こえ、そっちへ向かって走っている時、赤子の泣き声が途絶えました。私の足は凍り付いたように停まりました。私はその場に崩れ落ちました…」