見出し画像

「岐津禰」No.8

           8,
 昨夜、度部は、お預けを食らわされた。吉津祥子の、熱く火照った体を抱き、着物の襟に差し入れようとした度部の手を、吉津祥子は不意に、何か嫌な匂いでも嗅いだように鼻に皺を寄せると、その度部の手を襟の上から抑えつけ、度部からすっと体を離した、そして何でもないように云った、
(度部さん、おおきに、ほんまに嬉しいわ。せやけど、やっぱり、それはあきません、そんな大金、他人の度部さんに頼んだり出来まへん。うち、一遍、大阪、帰って、あちこち、頼んでみます。それでもあかん、かったら、その時、度部さんに、改めてお願いさせて貰います)
 度部は、発情して雌犬に乗っかった途端、水をぶっかけられた野良犬のように、熱く煮えたぎる欲情を抑えて官舎に帰った。
 吉津祥子の、襟首から胸の膨らみにかけて、乳白色の、つきたて餅のように柔らかい肌に一瞬でも触れた掌を何度も頬に当て、度部の耳に熱い息を吐きかけて話した吉津祥子の声を振り返る、
(おおきに、度部さん、ほんまに、うち、嬉しい、せやけど、やっぱり、他人の度部さんに頼んだらあかん、思います、うち、一遍、大阪帰って…)
そしてこの後、吉津祥子は、打ち明けた、
(うち、な、まだ、うちのひととは別れてえしまへんのや。別に飲んだくれでもない、ほんまにクソがつくぐらいまじめなひとやねん。それがうちには煮え切らへん男に見えて、めっちゃ怒ってしもうて。今度、こっちへ来たんは、うち、ちょっと、いっぺん、頭、冷やそう思うて来たんです。うちのひとに頼んでみます、何とかしてくれる、かもしれへん思うねんけど…)
 度部は、吉津祥子の本心、俺の事、本当はどう思ってくれているのか、昨夜の流れの中に探ってみる。その言葉尻に、目の動きに、度部は、自分に対し、何か特別な感情があるのかないのか。
 しかし度部にとって、女は我慢ならぬ性欲の捌け口でしかなく、女は無理に犯すべき対象でしかなかった度部には、やはり、対等に、生身の人間として女をみた経験が欠落し、相手の気持ちを推し量るなど出来る訳は無かった。
 ただ一つ、度部はふと気に成ることがあった、吉津祥子が、その熱い体を度部に委ねた時、だった、吉津祥子は不意に、鼻に皺を寄せ、そして度部から離れた、その一連の動作の意味が解からなかった、吉津祥子は、何か嫌な匂いでも嗅いだように、鼻に皺を寄せたのだ…?
 俺の体臭?度部は腕の袖をめくって匂いを嗅いでみた、何も匂わない。もし、吉津祥子が嫌な匂いを嗅いだとしたら、それはいったい何?座卓に並んだ、刺身の、生魚の匂い、か?それしか思い当らない。

 度部にとって、吉祥天女だけが、理想の女であり、犯してはならない特別な存在だった。だが吉津祥子を初めて見て以来、吉津祥子が官能に身悶えする姿を妄想する度部には、夢で犯した吉祥天女の像と吉津祥子の裸体が次第に重なって見えるようになっていた。

 30圓は大金だった。並の警官に都合つくような額ではなかった。まして、度部には借りる身内も、換金出来る家も土地も、元から何も無かった。
 しかし、満更宛が無くはなかった。無理を云えば、その相手の男は30圓程度の金なら出す義理があった。度部がこんな絶海の孤島に送り込まれたことからして、あの男には、前の総理大臣の吉田じゃないが、NOと云える筈はない。
 そう云えば、つい最近だった、署内で休憩中、他の同僚警官が広げて読む新聞に、あの男の顔が写真の一覧の中に見えていた。次期都議会議員選挙出馬予想の顔触れを紹介する記事だった。政治に何の興味も無い度部、写真を一瞥しただけだったが、あの男が野心に燃えた男であることは、度部が誰よりも早くに知っていた。

 取り敢えずは、馳走はお預けになったが、大阪の金貸しが次回、取立てに来るまでには多少時間の余裕がある。話の転び具合によってどうするか決めればよい。いざ、金が要り用となり、万が一、金が手に入らなくとも、あんな金貸しの一人や二人、打つ手は何なりとある。ただ、それまで、ご馳走がお預けとなったことの方が度部には辛かった。