見出し画像

「岐津禰」No.7

                7,
 その夕、度部はほぼいつも通りの時間に「キツネ」のカウンターに座っていた。他に客は未だ無い。吉津祥子が、度部の前に、突き出しの小皿を出した、それを受け取ろうとした度部の手を吉津祥子が握って、度部は驚き、小皿を落としそうになった。
「聞いて欲しい、ねんけど、話…」
度部は、首振り水飲み人形のように首を振って、了解を示した。
「店、今日、早く閉めるつもり、11時、頃、うちの家の前、お願い、出来ます?」

 外から見る吉津祥子の住む家は見慣れているが、通された座敷の部屋は、古い、多分前住者が置いていったものだろうが大きな箪笥が2棹、部屋の隅に畳んだ布団が重ねて置いてある。天井から裸電灯がぶら下がり、部屋の真ん中にやや大きめの座卓があり、その上に昔懐かしい灯油ランプ。前住者が使ってその煤の汚れか、衾も黄色く燻んではいたが、全体、こぎれいな印象を受けて、なによりも、女らしい、色香に満ちている。
 しかし、度部には、隅に畳んで重ねた布団が、今夜、吉津祥子が度部を招んだ意図を表しているように思えて胸が昂った。

 その座卓には、既に数品の小料理が並んで、吉津祥子は、真新しいエプロン姿で、竃で温めた銚子を二つ提げて座卓に置いた。
「ごめん、な、せっかく、もうお休みせなあかん時間やろに、わざわざ…」
盃に、酒を受けながら、
「ええ、ですよ、別に、どうせ、官舎、帰ってもなにもすることないし、どうせ、姉さんの、あ、そうだ、姉さん、て云うの止めてくれと云われてたんだ、よな」
「あ、そんなこと、覚えてくれてはったんや、うれしいな、あの時、度部さんが荷物、自転車に載せてくれて、うち、ほんまに助かったのに、何もお礼、してなかったんや、あ、ごめんね」
吉津祥子は、更に酒を注ぐ、度部は、ぐいと飲み干し、その盃を吉津祥子に返した。吉津祥子も飲み干し、白い肌が俄かに朱に染まった。
「ごめん、ね、急に、呼び立てたりして。実は、はっきり、先にお願いしときます、私、今、本当に困ってしまって、あの男、今日、帰ったんやけど、また、暫くしたら、ここへ来ることになってるんです。お金を取りに」
多分、金の話、だろうと、度部は予想していた。赤の他人の女が、赤の他人に「お願い」するのは、金のことしか有り得ない。
「借金、ですか?」
「そ、そう、なんよ、あの男、高利貸しで、うちが道頓堀に店、持つ時、ちょっと借りたんですけど、支払い、遅れてしまって、そしたらあっと云う間に…亭主と別れて、なんてうち云ったと思うんですけど、本当は、あの男から逃げるために、こんな海の涯まで逃げて来た、のに…多分、店の誰かが、うちがここに居るって、脅されて云った、思う…」
よく聞く話、だった。現実に、補助憲兵として拾われるまでは、借金取立が度部の本業でもあった。
「幾ら、ですか?」
「二佰圓…」
戦後、未だ僅か十年程、世情はインフレの嵐の真っ只中、それでも二佰圓は、御殿が建つぐらいの大金だった。
「借りたのは、3、4年前に30圓、後は全部金利分、あっと云う間、でした、騙されたと分かっても、もうどうしようもなかった…」
借りて返せない貧乏人の口癖、そのまま、だった。
「全部、一括して返せ、とあの男、云っているんですか?」
「今まで、少しずつ返してきてたんですが、今度は、耳揃えて返せ、と」
「この次、いつですか、この島に来るのは?」
「ひと月、ぐらい。来る前に電報で知らせる、と」
「2佰圓は無理、ですが、姉さん、元の30圓程度なら何とかなるかも…」
「え、度部さん、ほんと、うちのこと、助けてくれるの?取り敢えず、そんだけ有ったら、あいつかて文句云わへん、思います。ああ、うち、どないしよ、体中から凝り固まった血が流れていくの、わかりますわ、ああ、涙、出る、度部さん、おおきに、ほんまにおおきに、どないお礼云うたらええんやろ」
吉津祥子は、度部の手を固く握りしめ、体を度部に寄せてきた。その体は熱を帯びたように既に熱く火照っていた…