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「岐津禰」No.3

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 度部は、汗に塗れていた、嫌な夢を見た…
官舎の自室から起きて外に出た。360度、見渡す限り大海原、そして立つは絶海の孤島。波は穏やかで、水平線は朝陽を受けて朱く、遥か遠くまで見渡せた。
 ここに着任して以来、同じ夢を何度も見る度部、あれ程にやりたい放題、日本軍憲兵の制服の威を借りて、悪事を重ねてきた度部、だったが、何故か、最後に犯したあの老女の夢ばかりを見てしまう。

 度部は終戦後、上官だった朝鮮軍憲兵隊分隊長成瀬、現警視庁捜査一課長から推薦を受け、警視庁管内の、しかし都心から遠く離れた離島を所轄する警察署に警官として職を得た。
 警視庁管内とは云え、遥か遠く、また離島での生活がどんなものか想像も出来ず、生来の悪癖を考えるととても性に合う筈もなく、折角の推薦ながら断るつもりでいた。
 だが成瀬は、この戦後の混乱期、まともに就ける職など有ろう筈も無く、また折角贔屓にしてやっても、過去の、悪事に塗れた経歴を隠匿しての警察官への採用であり、また元憲兵とバレれば、世の中、人びとが憲兵即ち悪の権化と忌み嫌う世情で他に職などに就ける筈も無く、市内巡回中にその過去を知る者に出食わさないとも限らないと説得され、不承不承、この絶海の孤島に着任したのだった。
 任用するに当たり、成瀬から、くれぐれも、警察官として、ひとに尊敬され、信頼されるような人格者になれ、と度部はしつこく諭された。

 この島を管轄する警察署は、警官の数、僅か十人程、派出所勤務も併せて精々14、15人程の小所帯、それでも余るほどに、島の人口は少なく、また人々は日々半農半漁、平穏に暮らしている。
 しかし度部には一日が退屈極まりなく、その分一日が異常に長く感じられた。また幾ら成瀬に薦められても、妻帯を断り続けて独りで暮らす度部には、一日が途轍もなく長かった。
 だが、かと云って、度部の性的悪癖が治まったのではなく、同じ官舎に住む同僚の妻や年頃の娘を、特に官舎敷地内に住む老女や、磯や浜に出て貝や海苔を採る老女の姿を見る度部の眼は、男達には気付かずとも、女たちには、服の下の膚まで見透かされているような視線を浴びて、まさに視姦されているようで気味悪がり、恐がり、近づかないよう、本能的に自衛していた。
 度部が朝鮮での悪行の数々を生々しく夢に見るのは、多淫ゆえ、姦淫への強い欲情が満たされないが為、吐き出す時の、脳天を辛く程の恍惚感を求めて悶絶するがために見る夢だと度部には判っていた。

 或る日、自転車に乗って、度部は島の集落を巡回していた。島の、やや湾になって入り組んだ海岸壁に、壁の真下に外洋の荒波を避けるように小さな漁港があった。
 港の奥に岸壁があり、週に2,3度の東京からの定期便がその岸壁に横付けするのだが、丁度、船が着岸したばかりか、板が渡され、客が船から降りてくるところだった。
 度部は自転車を停めて、その長閑な風景を見下していた。が、一人、着物姿の女が、揺れる板を危なげに渡る姿が見え、見ている度部も、つられて危うく倒れてしまいそうな感覚になりながら、その女が無事渡り切るまで見守った。
 その着物姿の女は、港内に乱雑に置かれた漁具の間を、両手に大きな荷物を抱えて歩き、自転車に跨って停まっている度部の方に向かってくる。
 余程に重そうな荷物、度部は自転車を女の傍まで押して行き、敬礼するふうに手を額にかざして女に話し掛けた、
「この自転車で、荷物、運びますか?」
女は、度部の声掛けに驚いたふうに顔を上げ、暫く、なにか珍しい物でも見たように観ていたが、
「ありがとうございます、そんじゃそうして貰えますやろか」
意外にも、関西ふうな訛、その柔らかい物言いに、懐かしさもあって、度部は魅了された。そして何よりも度部の眼を奪ったのは、女のその器量の良さ、だった。透き通るように白い肌、やや面長の、その頬はしかしふっくらと、目は切れ長で、眼差しは優し気に度部を見る。
 女の荷物を自転車の荷台に重ねて載せてゴムで縛り、載せ切れなかった荷物を度部が肩で担いで度部は自転車を押した。
「うわあ、ほんと、たすかりますわ。ほんま、船降りた時、この荷物、どないしよ思うたんですけど、うわあ、ほんと、兄さん、おおきに。せやけど、よろしいのか、こんなこと、して貰うて、勤務中、なんでっしゃろ」
「いい、です、どうせ、こんな小さな島です、事件がありましても、精々が、飲み潰れた漁師の喧嘩の仲裁に行くぐらい、ですから。それにこんな真っ昼間、ですから。
姉さん、こちらの方、ですか?」
「いいええな、違います、わたし、大阪生まれの大阪育ち、ですねんけど、こんなん云うたら笑われる思うねんけど、亭主と喧嘩して、ね、飲んだくれで、もう顔見るのも厭なってね、別れて逃げてきたんですわ。この島出身の、~さん、うちの店で長い間、働いてくれてはんねんけど、女将さん、そやったら、えらい遠いとこ、ですけど、うちの実家、~島ですけど、暫くそこで暮らして、腹の虫、納まるまで居てなはったらどないです、て云うて貰うて、勢いで船に乗ったまでは良かったんですけど、丸二日、船の中、船は天に昇ったり、地獄の底に落ちたり、横揺れはするし、ほんま、このまま死ぬんやないか思うぐらい、ずっと一睡も出来へんで、えらい、後悔してますんや」
関西人特有の、人懐っこい喋りに、度部は惹きつけられる。自転車の後ろを従いてくる女の顔を覗くと、年齢は度部とそこそこぐらい、年増ではあるが、若く見える、それに、素人ではない色気に満ちている。
「ひとの顔、じろじろ見んといてえな、兄さん、こんな、お天道様真上に、男はんにそんな眼で見られたら、恥ずかしい、なるやんか」
怒ったような台詞に、度部はもう一度、振り返って女を見ると、女は悪戯っぽく微笑んでいる。

 女が手にする紙片に地図が書いてあった。度部にはそれが何処かすぐ判り、自転車に女の荷物を載せて、その家まで送ってやった、
「えろう済みません、ほんま、助かりました。荷物片づけして、落ち着いたら、一遍、お礼させて貰いますわ、そこらへんで、一番安い干物でも買うて、手土産にして」
女は、少女のように微笑んでいる。度部も心和やかに、女の表情に見惚れた。
「あ、兄さん、名前、何て云うの、聞いとかんと、折角、手土産持って行っても、名前判らへんかったら、誰に、渡してええんか別れへん。あ、うち、キツネ、て云います」
「キツネ?」
「そうです、ほんまは吉津祥子、って云うんですけど、云い難いんで皆、キツネ、って呼んでくれてますねん、せやよって、大阪の店の名前も、岐津禰と書いて、キツネってしてますね」
「そうですか、僕は度部と云います、面白くもなんともない名前で申し訳ないんですが」
「ひとの名前に申し訳なんかある訳おませんや。よろしいや、度辺で、面白可笑しいもない、極く普通で」
「で、僕は、姉さんのこと、何てお呼びすればいいんですか?」
「その、さっきから気に成ってんねんけど、その姉さん姉さん、て呼ぶの止めてくれません?あんたよりはちょっとだけ、年上かもしれませんけど。そやな、やっぱりキツネ、でよろしいわ。せやけど、そない、長い間、ここに居てるつもりないんで、適当に忘れて、な、兄さん」
と云って、女はまた子供のように悪戯っぽく微笑んだ。