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他人の物語に含まれるリスクは、アクスタ何枚、チェキ何枚分、お酒何杯分なんだろうか

人は物語なくして生きていけるんだろうか。 美しい、面白い、魅力的だ、素敵だ、賢い、才能がある…そういった引力に引きずられたり、引力を引き付けたりたりしながら、私たちは日々生きている。外界に出たら最後、人に見られたら最後、他人の物語に含まれる可能性、危険性を、私たちは持っている。それってとてもおそろしいことだ。

持っている強さは人に見せつけたいと思うこともある。もしくは自分が強くなって人に魅力的だと思われたいと思うこともある。承認欲求だってある。あるいは、自分自身の意思とは真逆に何かを引き付けてしまうことがある。自分のコミュニティを一歩出れば、全然違う扱いを受けるとして、私は果たして出る必要があるのか?と最近思う。

平安貴族が御簾の中にいて、垣間見ながら恋愛をしていたということを思い出しては、「本当にそうだよな」思うのだった。もうね、見る見られるということには負荷が伴う。出逢う、ということそのものにも。なんらかの呪いや祝福を受けるのよ。私めっちゃネットに顔出ししてるけどな。人前に出て、がんばるぞーってのには、基本的にこちらの内面の努力のベクトルしか考えたことがなくて、外界の物語に巻き込まれるということを算段に入れてなかった。

他人の人生に登場すること

外界の世界に出ることは、危険がつきものだ。
たとえ、安全圏から言葉を発したり紡いだりしても、他人の心に、目に、触れた時点でなんらかの反応を巻き起こす。

私だってネットで見た人の文章に共鳴したり、音楽を聴いたアーティストに心酔したり、時には気持ち悪いことを言ったり(もちろん本人にリプライはしないけど)、他人を私の生活の物語に巻き込んで生きることがある。

私は自分の想定の外からやってくるものが基本的に嫌いである。例えばナンパや、ガルバ、キャバクラ店のスタッフなどへの勧誘、立ち飲み屋で怪談話をされたり、店主に無理やり隣の男性と連絡先を交換するように言われること、などはその類のもののひとつだ。すべてのことは私が選択したい。それならそういう場所には行かないということを選択する。

ものすごく端正な顔立ちをしてる人に限ってSNSに顔を載せてなかったり、あえて人前に出る仕事をしてなかったりするのを見ると、魅力を持っていて、人に見られるって、結構大変なことなんだろうと思う。

作家とファンサ

林真理子の講演会に友達に誘われて行ったときに、質問タイムが始まると同時に大きな声を出して立ち上がった人がいた。

半泣きで、自分が以前サイン会で、病気の母と訪れたこと、無事その母親が回復してここに再び来たこと、その時サインしてもらったTシャツを着てきたことなどを絶叫して話していた。ご本人も何かしらの疾患があるのかも知れない。

最後は

「私は林先生、あなたになりたかった!!!!」

と言っていた。でも、作家になりたかった人なんてごまんといるし、私たちは林真理子に興味があるのであって、この女性が林真理子になりたかったことや、彼女の書く文章には興味がない。全員の時間や機会を使ってどうするんだろうと思う。満たされない人だ。満たされないからそういうテロをする。なんというか、私はザワザワする。これは、講演会に行かずに、家で林真理子の本を読んでいれば出会わなくて済むことだ。外に行くと、いろんなことが起きる。共存って、なんだ?

林真理子はそれを黙って、しっかり聞いていた、受け止めていた。林真理子という人は別に聖人ではないが、その話をしっかり聞こうとする姿、最後「終わったあと舞台袖に来てください」と言った様子を見て、作家の仕事ってこういうものを受け止めることかもしれない。ご苦労なことだ。と思った。

ケアだ。そのお母様の病気を看病していたその人は、たぶん、愛の貯金が足りない。あと本人の様子もおかしい。さすがは紀伊國屋ホールで開催された催しなだけあって、客層も品がいいから怒号は飛ばない。なんというか、その頭ではわかっているが、私は「どうしよう」と思う。全身から焦りと苛立ちが込み上げる。

コントロールの向こう側からやってくる偶然性、作家というものが持つ引力、物語への巻き込み事故(私もやるけどな)、みんなの時間やチャンスが奪われていること。わからない、私の心の中にキャパが足りなかっただけかも。

集まった観客はともかく、繰り返しになるが、作家の仕事とは、こういうことなのかもしれないと思った。ファンサの向こう側で人の心と触れ合ってしまったときに私たちはどうしたらいいんだろうか。

よしもとばななが、以前キョンキョンとの対談podcastで、「電車の中で急にファンの人に会って、感動して手を取られて泣かれてしまう」ということがあったという。また、彼女のエッセイを読んでいると、文筆家だった彼女の父の元にずっとファンが詰めかけて玄関先で好きなだけ話して行ったりとか、寒い中それに付き合う父親の様子が出てくる。よしもとばななの家にもやってくる人がおり、よしもとばななは「今ごはんの時間なんで」と言って断ってるらしいけど。

他人にとって奇跡みたいな相手が、本人にとってはそうとは限らない。そして物語に含まれていく。物語を描いて商売にしている人はどうしたら良いのだろうか。

多分学校の先生とか、お坊さんとか、バーの店員とか、こういうプライベートへの侵入とか、その際限がない感じとか、愛されたり頼られたりするが故に引きちぎれそうになる(その人は1人しかいないから)というのはある。

この前、お坊さんとスナックママたちで話したけど、広義では、作家が見舞われることと近い現象が起きている気がする。私も最近やっと操縦の仕方がわかってきた。

ライブ配信を毎日見ることは結婚ではないよ

数年前、私がライブ配信をしていた時のこと。初めて配信をやった日に、好きなだけ歌謡曲を歌って楽しい気持ちになったため、「明日からも毎日配信したい!」と言った。

すると、「これから毎日見る」と言っていた視聴者が「婚約だね」と言ってきた。びっくりした!私はそれまでの24年間とかで、人と接して数時間で「婚約だね」と言われるほどコミュニケーションが不自由な人がいる空間にいたことがない。

まぁ、そういう様式と言ってしまえば様式なんだけど。私普段もう少し、人の深みに触れるような会話してるから…笑笑

ていうかやっぱり、配信して数時間の女に「婚約だなぁ」っていう人の相手をする、ということが配信カルチャーなんだよな。本当に言葉を選ばずに正直に言えば、セーフティーネットだよな。と思う。

ギリギリすぎる。いろいろと。正直、何ヶ月か配信やって気がついたけど、文面がおぼつかない人も多い。コミュニケーションもちょっと難しい。正直に言えば、境界知能を感じる時が多い。

でも、私が楽しく歌っているときに、盛り上げてくれたり、応援する気持ちを感じる時があった。人の中に善意があって、配信みたいなカルチャーは、無料から有料まで多くの人たちが集まって、一応フェアにケアの受け渡しができる空間ではあると思う。そこに希望は感じたかなぁ。親交のないおじさん?から、急に幼少期の写真DMで送られてきてびっくりしたりはしたど。

アクスタ・チェキ・アイドル・お酒

アクスタが世に溢れている。ヒト型のアクスタを持ち運び自分の連れて行きたいところに、それらを持ち運び、写真を撮る。

アニメキャラやぬいぐるみならまだしも、実在の人間である場合は、その実在する人間が、他人の物語に含まれていくことになる。

スピリチュアル的な話になるかもしれないが、それがたとえ、プラスなものでも、マイナスなものでも、「人の物語に含まれる」というのは大変に重いことだと思うのだ。

アイドルのカルチャーでチェキというものがあるが、一緒に撮影して落書きするまでの時間をその人は買う。それは、そのアイドルと物語を共有する時間だ。1枚1000円であることが多い。

球場なら、ビールだったりするし。私もスナックでお酒を売ったりしてるしな。アイドルの握手券をCDで買うのだってそう。

握手会だって、大変である。いろんなことを言ってくる人たちの、物語をアイドルたちは引き受けることになる。ときには切り付けられる危険もあったりする。

松田聖子も鉄パイプで殴られたり、美空ひばりも硫酸をかけられたりしている。

人の興味を惹くということは、とても危ない。物語に含まれるということ、かけがえのないものになるということは極めて甘美で、極めて危ういことだ。そのリスクについて私は誰にも教わらなかった。体験して会得したことだ。

自分の言葉や存在がなるべく多くの人に届けばいいというものではない。なるべくこの言葉が伝わる相手なら自分とシンパシーがあるだろうという相手に向けて何かを発信したほうがいい。

それでも、何か人の心に届くことをやろうとすれば、もしくは意図に限らず、巻き込み事故に遭うことがある。それに私もよく巻き込むし…人を…。なんというか、やっぱり外界と交わるって少し危ないことなんだよな、と思いながら、最近は篭ってみようかと思っている。文系の大学院の博士課程とか行こうかな…。

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