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大きな滑り台に遺したブランデーの跡は

忘れてしまわないうちに書かないといけない。加筆したいことや直したいこともあるけれど、頭の中にあるものを、今、一旦ここに広げてみたい。

昨日、夜中に急に電話がかかってきて。小学校の同級生の子だった。前に一度、コロナの時にもう1人の地元の友人を交えて3人でビデオ通話をした。それ以来、連絡してない。会うのは12歳以来。子どもの時から絵と生き物が好きな子だった。破壊的で感性が飛び出していて、不思議であの世と近い雰囲気を子どもの頃から持っていた。

「ちょっと!終電逃したの!今から飲めないの!?あんたの家の近くにいくから!飲もうよ!」

こんな誘い、私普段めったに受けない。ましてや地元の友達と飲むことなんてほとんどない。それに、もし来たとしても承諾することもない。電話口で、その子が言う

「私ね、風の噂であんたのお母ちゃん亡くなっちゃったって聞いたのよ。あたしさぁ、本当に悲しくて、昔家に行った時に迎えてもらったのを思い出してさ、ほんと、あんな優しい人いないよ!?あたしは忘れない。あんたんちって居心地いいのよね、一軒家だしお金持ちか!?と思いきや、なんかね、馴染む感じがあるのよねぇ。」

「ああ、我が家の居心地の良さね、褒められてるのか貶されてんのかわからんやつ笑 よく言われるからそうなんだろうね笑」

「あんたの母ちゃんを忘れない。ばっちばちの二重でさ、でもちょっと疲れてんのよね笑 髪の毛はぺちゃんこなのよ。」

ああ、今夜は飲みに行こう、と決めた。こんな日があってもいい。あまりに正直なその物言いは、立体的に母を感じさせ、ものすごく身近にその感覚を思い出させる。私が忘れかけていた記憶を引き戻す。そこに強く強く愛を感じた。地元の駅に迎えに行く。15歳の時に親の都合でこの街を離れたらしく、この街をひどく懐かしがっていた。昔の通学路を歩きたいと言うので付き合うことにした。そして昔私たちが遊んだ大きな滑り台のある公園にいく。

私たちは小学生の時に同級生を1人交通事故で、もう1人は病気で亡くしている。公園の大きな滑り台に座って、生きている同級生たちの近況もなんとなく聞きながら、私たちはこの世にいない彼らの話をした。

「もうさ、死ぬのよ、動物も生き物も。だってトカゲとかその辺で死んでたって誰も気にしないのよ!?人間だって同じよ!」

その友人は、あまりにも死が近い。だからひとつひとつの死なんて当たり前みたいな言い方をする。もちろん自分の命に対してもそう思っているのかもしれないけど。なのに。

「あたしね、あんたのお母さんは忘れない。あたしに微笑みかけてくれたの。それを忘れない絶対に。だから死んでしまったことが悲しい。あんなに優しい人いないよ!?目が3本目が3本なのよ!漫画で言うと。いい!?!?描けるよ!?!」

と言って、指を3本にして自分の目尻にあてた。多分その子と母が会った数なんて片手で数えるくらいなんだけどな。すごい。こんなことがある。亡くなって7年も経つのに。他の人から浮かび上がる、死んだ人の像がある。

牛丼食べて帰ろうと言って、2人で大きな滑り台を降りる。その子が飲んでいたお酒の瓶が倒れて、大きな滑り台に一筋の線をつくる。滑り台の上の方に空き瓶が残っていた。私はそれを取りに戻る。わざわざ取りに帰るのはアホらしいのもわかる。でも、ここに座って楽しかった子どもの頃を思い出したから。翌日ここに子どもが来て、お酒の瓶が置いてあったら嫌だと思うから、私は取りに帰った。

滑り台に残ったお酒の筋は消えなくて、少し、心残りのまま公園を後にする。そして牛丼屋につく。

明るい場所で一息ついて、私iPhoneを取り出す。「ねぇ、メモアプリなんだけど、これで母の絵、描いてくれない!?」

「いいよ」と言って、私のiPhoneを手に取ると、それまで衝動的だったその子の雰囲気がスン、と静かになる、目が真剣になる。

彼は描くために生まれてきた人なのかもしれない、と思う。子どもの頃のその子をよく知っているから。おじいちゃんが死ぬ前に、彼に「絵を描け」と言ったらしいけど、深く頷いてしまう。

もっと広義でいえば、何かを生むために、生み出すこと、育むこと、そして終わりを見つめることが、この人の才能なのかなと想う。グロい絵ばっか描いてたんだよな、この子。死と愛と土の匂いがする子。今、フローリストをやっている。昔から生き物を育てるのが上手だった。普通にお花屋さんにいるみたいだけど、切り花よりも土に埋まっている花の方がイメージに近い。お庭とかの景色が浮かんでくる。

iPhoneに指で描くと拡大もうまくできないし、全然思うようには描けないのだろう。だけど彼の中に私の母の像があるのがわかって、他者の記憶の中から現れた母の姿に私は驚嘆した。ものすごく単純だけど、こんなふうに母がその子の記憶の中にいたんだ、ということが伝わった嬉しかった。

「ほおがピンクなのよ!」
と言って入念に色を選んで絵にチークを入れる。他人からしたらなんということもない単純な絵なのに、私とその子、そして居なくなった人との時間がそこにある。

「あんたの母さんは、スイセン。スイセンが似合うの。」と言っていた。ああ、私の母を覚えている人だ、と思う。

そのあと、始発までカラオケに行く。選んだ人生はあまりに離れている地元の友達。母のことを知っている地元の友達。小学校のころ流行っていた曲を歌っている間は時間が戻ったような不思議な気持ちになる。外に出ると朝日が登っており、それは私を明るい気持ちにさせる。人生の中のどうしようもなく暗い部分と、日のあたる部分は、どれほどの割合なのだろう。だけど、その暗い部分を見て、それでも私たちは願うことや、祈ることができる。描くことができる、語ることができる、歌うことができる、思い出すことができる、と、思う。

私は太陽の方が自分に似合ってて欲しい思う。だけど、夜を見たい。ちゃんと暗い夜を見たいと思う。帰れるから夜を見る。冥界に行くことがあると思う。私は乙女座の生まれなんだけど、乙女座のギリシャ神話は、コレーという娘が好奇心を持って、スイセンの花を引っこ抜くと、冥界に落ちてしまう。冥界にいるハデスから勧められたザクロを12粒のうち4粒食べてしまい、地上には完全に戻れなくなってしまった。だから年の3分の1を冥府の女王と、残りの3分の2を五穀豊穣の女神として、地上と冥界を行き来するようになったという。ギリシャ神話に自分を重ね合わせるのもなかなか大仰な話で恥ずかしいけれど、そういうのが私の役割なのかもしれないなと、なんとやく思うようになった。

昨晩の冥界の記憶を少し書いてみたいと思った。優しすぎて、破壊的でいて、不思議なその子と、私は、また会うことはあるんだろうか、と思う。

私、公園の滑り台にお酒の跡残してきちゃった。好きだった公園なのに。と思って気になってさっき散歩がてら見に行ったら、雨が洗い流していた。大きな滑り台にこぼしたお酒のあとはなかった。あまりにもよくできている。夢だったような気がするけど、手元のiPhoneにその子が描いた母の絵だけが残っている。あまりにも単純だけど、あまりにも似ていると、私は思う。7年経っても人の記憶の中で死んだ人に出会う夜がある。


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