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ひょっとして、クリエイティブかもしれない
薄々、気がついていたのだが、私はクリエイティブらしい。誰かから何かをやっていいとか、チャンスが回ってくるんじゃないかとか、そういうことを考えていた。
人の手をとっては、これではなかったと怒ったり、いかないで欲しいとすがったり、わざと自分ができないふりをして相手より下手に出たり、そういうのはもうやめようと思った。世界に対して失礼である。
大人になるというのは、自分の光を完全に信じ切ると決めることと、その光に対して最後までそれに責任を持つということだ。
私は自分のことを面白いと思っているし、才能もあるとおもう。そのことから逃げると、人から悲しい顔をされることが多い。完全な成功はなく、常に人は皆トライアンドエラーの最中のようだった。主体的に何かをやると、よくわからなくなる。自分の内側が外界に働きかけを始めるとき、私は無防備で、弱々しい存在になる。そういう「余裕のなさ」こそ、自分を弱いものだと、皆弱い存在であることを身をもって知るための唯一の手段ではないかと思った。
常に不安で、これでうまく行くかもわからず、でも動いている状態の方が自然かもしれない。あるはずのないユートピアと安息の地を夢見てふて寝をしている時間は終わった。世界に対して退屈しているのであれば、退屈になった世界に対して不貞腐れているより、切り拓くほかないらしい。
自分の想い次第で、世界の有り様は少しずつ変わっていくのかもしれない。たぶん、めちゃくちゃ大きい主体性が、私の中にはあるのに、それをないことにしていた。ないことにしていたせいで、人に迷惑をかけ続けていた。いつも連れションばかり求めてた。自分の出したいタイミングで出したい量の才能を、出したい勢いで出していい。私はエネルギーが有り余っている。
何か新しいことをしていたり、自分が思いついたことを形にしてる時はとても楽しい。そういうことをこれからもちゃんと続けたいと思う。
数年前から練馬にある実家を、練馬のホテルミラコスタ、通称ネリコスタと命名し、友達を招いていた。今回、思い切って観光地らしくペナントを作ってみたら楽しかった。
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自分の頭の中にあるものを形にしていくとね、私幸せなんですよ。ネリコスタは観光地だからなぁ。
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お土産もつくった🔽
誰が買うかは知らんけど、この世にネリコスタ土産が生まれている。私が作ることによって、今、一応ネリコスタ土産が誕生している世界線を生きている。そうやって、ないものを、あることにしていく、ちょっと恥ずかしくて、自己満足で、面白いことを、やり続けた方がいいのかもしれない。
会いたい人には会った方がいい、やりたいことはやった方がいい、巻き込みたい人は巻き込んだ方がいい。会いたくなければ断ったり、巻き込まれたくなければ逃げればいいし、変だと思われればそれでいいのだからと思う。
もう少し開き直って、グズグズせずに、自分の光を信じてみてもいいのかなと思った。才能を発射することもまた、人間の実直さの一部ではないかなと思う。
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