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部分的に聖なら、それを引き受けながら。
幸せになるって、覚悟の問題なんだろうなと思う。幸せになりたいなと思う。思ってもいいと思う。自分の中を満たしてくれる何かを探している。自分の中を溢れさせる喜びを、求めている。確かな輪郭はわからず、手のひらをすり抜けていく。自分が暇だからこんなことを思うんだろうか。
danchu読みながら鎌倉から茅ヶ崎か葉山か逗子で暮らしたいな。それくらいのことしかもうやりたいこともない。なんとなく楽しくない。と、思ったら、鎌倉のお土産渡した友達からLINE来た。うれしい。
昔のバイト先に来ていていたお客さんの娘さんが、大学院進学を考えていると相談してくださって、無事合格した。涙ながらにお礼を言われた。本人が頑張ったからだと思うけど、嬉しかった。
あと、昔のバイト先のお客さんが、数年前、病気で倒れて入院した人がいた時、お見舞いに行ったんだけど、そのことをいまだに涙ながらに喜んでくれる。
なんかそういうことで、いいんだよなと思う。
いちいち重苦しいかもしれない。休職中の友達のために買った、鎌倉のお土産のキラキラした和菓子と、おいせさんのお浄め塩スプレーを、手渡したら、喜んでくれた。
ついついドラマチックになってしまうが、やっぱりちょっと間に合ってほしいと思う。できないこともたくさんある。大事にできない人もいる。だけど、部分的に聖。部分的に聖だから。
人を助けることはできず人は勝手に助かるというが、その時何かしら存在していた私が、誰かにとって部分的に聖に映るのであれば、それはその人の心が、私を聖と見たのであって、美しさはその人の心の中にある。
その人の心の中にある美しさを借りて、私は聖になれるのだった。その聖を引き受けていくたびに、自分の中の濁りが和らいでいく気がする。
営みというのは、人の中にどれだけ聖を見出すかではないのかと思う。見出してもらった聖が私を生かす。まだここにいてもいいかなと思う。だから、なるべく、相手に重さを押し付けることはなく、その人の中の聖にいつも、目を配りたいと思う。
もっともっと幸せになりたい。
私は今日、聖だった。大事にできない人もいるけど、出会った人にすこしだけ意味があった。
そういうものの重なり合いで、自分も世界も捨てたものではないと、思ったりする。
自分を高めることしかできないな。私の中の聖と、他者の中の聖、それを見つける私たちに乾杯!
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