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without you 〜20代前半を振り返って思うこと、まとめ〜

こんなはずではなかったと、思っていませんか?私だけ?

気がつけば、27歳になっていた。20代のほとんどを、ぷらぷらと渡り歩きながら過ごしている。

新人女優や新人アイドルやモデルのオーディションは25歳までであることが多いようだし、レオナルド・ディカプリオは25歳以上とは付き合わないらしいので、それはもう、ある側面の線引きからすれば、若くない、ということだ。

私はこれまでずっと若かったので、若くないくくりに入ると言うのに、びっくりしている。相対的に見れば全然若いんだけど。レオナルド・ディカプリオからしたら、もう私は若くないぽい。(別にだからどうだと言う話ではないが)。女性の年齢をクリスマスケーキに例えて、25日から1日遅れればなんとやら、と言われていた時代からは、全然空気は変わった。でも、マッチングアプリで年齢を基準に検索されたら、この先は漏れることも増えていくんだなぁ。その検索条件をする人と合うかは別だけど。

▲昨日は松陰神社前の「イーヴル」というお店に55歳年上のお友達のレディと行ってた。オトナプリキュア活動

子どもを産むのなんてだいぶ先だと思っていたし、産むか産まないかもわからないと思っていたのに、まあまあ向こう12〜3年の話でリアルに決着をつけなければいけない感じだし。卵子凍結にも金がかかるし、別に子どもを産んだり育てたりすることにこの社会がことさら優しい感じでもないことに気がついてきたし、なんか、自分と距離のある「社会問題」だと思っていたことが、急に「自分ごと」として降りかかってくるようになった感じがする。

あ、この世界は未完成のまま、私を飲み込んでいくんだ。把握。

あ、未完成のぬちょぬちょしたゼリーの中に気がつけば入れ込まれていて、「お、この感じのままで、自分のところに社会のありようがまわってくるわけね。了解。」「……了解!?!?」みたいな感じだ。気がつけばゼリーに身体を絡めとられて出られなくなりそうだし、逃げても逃げても、でかいゼリーがやってくるのだ。

職歴やキャリアがあるかといえば別にそんなこともないので、別に若くもなく、何か社会に対して分かりやすい尺度の職務能力もないまま20代後半に突っ込んでいる。たぶん、そういう面でも、ある側面から見れば「選ばれない」年齢になっていく。「取り返しがつかないことになったらどうするんだ!」と、なんとなく自分の中の存在しない他者の声が聞こえてくるけど、その時々で私は自分の心の声に従って、最善は尽くしたと思うんだよな。自分の信条と違うものとどれだけ付き合えばいいかがわからない。ちゃんと生きてるつもりはつもりなんだけどな。いじいじ。

わがままなのか、折り合いがつけられないのか、わからんけど、納得がいかないのだ。腑に落ちてない。心の底からのYESが欲しい。人生の中で、あるから、心の底からのYES。先週末、カラオケバー借りてスナックやったけど、心の底からYESって顔してる。

▲心の底からYES

「それは趣味だろ」「それだけで食ってるわけじゃないだろ!」と言われたらまあそれもあるが、ちゃんと小商いのひとつであるし、真剣である。お客様が足を運んでくれたし、しっかりとした金額のお金を払ってくださって、応援してくださったし、私もすごく楽しかったし、成立している。もう少し続けて、より豊かな場所にして、安定させたい。価値があると思っているし、腑に落ちる感じがある。「仕事した」という手触りがあるんだよな。

昨日、地元の公園一緒に行った友達の弟は仕事をやめて家にいると言っていたし、私のLINEには昔からの友達から休職の連絡ばかり入る。うちの弟ももう10年くらい引きこもっている。

私も仕事ができなくて人に迷惑をかけたり、逆に出来の悪いと思ってしまう人や話の通じないに苛立つこともある。ただ、なんか1人1人には人生があり、その人が育っていくまでに携わってきた人たちがいたんだよな、みたいな話もあって、その間で、難しいよな、と思うことばかりだ。私は自分の友達は大切にしたいが、友達くらい大事にできる範囲にも、限界があり、切り捨てられるものももちろんある。

ゼリーの中で息ができなくなりそうだが、こうやって文章を書くことが、もう少し澄んだ別のゼリーを纏いながらめりめりと進む。カタツムリの粘液には傷口を修復する効果があるらしい。

過去は積み重なって混じり合っていく

アラサーアラサーと周りの友達が言い始めているが、特にそう言う言葉は使いたくないと思っている。これから先の人生は、死に向かっていくだけで、肌も顔も身体もどんどん衰えるのだろうか。人生の絶頂は終わったのだろうか、と想う。いつも絶頂でいる必要はないと言えばそうだし、周りの友達には「彩華ちゃんは若さを失うのがこわいんだと思っていた。」と言われ、うーん、と言う感じになる。わからない。私にとって生きることはずっと編物をしているようなイメージだから。早くなったり遅くなったり、途中で終わったりするけど、ずっと編む。

ていうか、外界ではなく、内面の事情で動きたいのだ、私は、いつだって。なんか、こんなに分離されたまま生きていくことになると思ってませんでした。労働と身体性がとか関係性も切り離されていってるしね。

▲最近積極的に
「自分の中の女児ごころをくすぐるもの」を
あつめはじめた。

◯歳だから◯歳らしいと言うこともなく、地層のように、3歳の私も5歳の私も10歳の私も15歳の私も20歳の私も25歳の私もいる。そして今表面に出ているのが27歳の私だ。それもまた9月で28歳の私が重なっていくのだけど。

人格というのは、ケーキの断面のようなものだから。ていうか、綺麗に層になっているとも思わないし。人格というのは、その人の中の過去が混じり合いながら完成されていくものだ。

「若くして〇〇」に、踊らない、踊らされない

これはマジで思うことなんですけど、私は20代の前半、自分の目の前の年長者が言うことがめっちゃ正しいと思ってた。それから、若くして〇〇みたいなのがすごく思えることあるけど、それって内実、ブレーンが奥にいたりとか、操り人形になってる場合も多いと思う。正直。世間もそんなチヤホヤしなくていいし、私たちも焦らなくてもいいし、踊らされなくていい。

ただ、本当に若くして頑張ってる子がいる場合、それに対して、他にブレーンがいるだろう、というのは違う。

でも、若さとか、なんか、未来を見る若者感とかで焚き付けてくる人間はFAKEだ。年長者が、世界の全てを知っているように思えても、世界の全てを知っている場合はないので、自分の実感を大事にした方がいい。

▲年上のレディの緑の靴がかわいい。
私の靴は公園にいたら女児に「ガラスのくつ?」
って聞かれた。女児とのシンパシーがある。

マジでそう、冠だけ渡してくる人間は、悪のプロデュースだから。自分の思いついたこととか、自分が世間に仕掛けたいことのメディアとして若い女を使いたがる側面がある。自分の欲望の体現としてとか。

つまり、初音ミクを探しているということだ。自我が薄くて、それでも気にしない人はその手を取ればいいと思うが、何かそのプロジェクトがうまくいかなくなれば、前に立った側が損するし。だから、若い女性をプロデュースしたい人は、とっとと自分がバ美肉(いわゆるV-tuber化)して、やりたいことをやればいいのだ。

私には自我がある、とにかく私は去る。
自分の中の腑に落ちる感じを大事にしたい。

生真面目さを搾取されないように

優等生で一生懸命やっていれば、世界は私を裏切らないと思っていた。目の前のひとの言うことを100聞いていれば結構いいことが、あったから。

例えば、英文法を教われば英語が上手くなるし、理科の授業を受ければ、星座の名前を言えるようになる。ABCクッキングという料理教室に通っていた時は、美味しいインドカレーの作り方を学ぶことができた。

で、それが原因で世界の全てがエラーになってしまう。

予備校時代にとてもお世話になった名物英語教師は、私がスタッフになった後、オキニの女子だけ集めて魚金(高級居酒屋)に行く会をやって、それに行ったけどクソくだらなかった。

中受の時の理科の教員も、成長した教え子抱きまくってたし、私と成人式で再会した後もどセクハラかましまくってきて、「若い子とセックスできないことが原因でもう自殺したい」とか言われてびっくりするし。

世界は私を裏切るが、他人に期待しちゃいけないみたいな言葉で諭されたくない。お前らがヤワで弱くて、そのこと自体は責めないが、そのことすら認められないくらいの恥知らずだったということだ。恥知らずであるなら、最初から尊大ぶって、教壇上がるなよつってんだよな。

「自分のところの教員なんて警察捕まったよー」って友達が教えてくれるが、それなら、あらかじめ「今目の前で自分が正しいみたいな顔で話してくる人も、まあまあ捕まることがある。」と教えておいて欲しい。それなら「オッケー!時々捕まるのねー!」くらいに思っておくので…。もし、そうだったら私は責めない。みんなちゃんとしてないのに、ちゃんとしたふりをしていることがくだらない。

偏見と、個人としての判断

偏見と安全についても最近考える。ヤンチャな地元の同級生が、数年前、他の友達にお金貸してと言って、その子を消費者金融に行くようにお願いして金を借りさせたりしたらしい。やっぱ、ヤンチャな奴って普通にヤンチャなんだよな。みたいな、「元も子もないこと」はちゃんと「元も子もないよ」って、教えておいて欲しいんだよな。「普通はみんなまあまあ気がついてるから、私が世間知らず」みたいに言うのは、ナシね。私には私の美学があるので…。

人種やバックグラウンドに関係なく、第一印象ではなく、全ては平等であるべきだと、思っているし考えている。だが、それはそれとして、「危なそうな同級生はやはり危ない」みたいな、個人として生きる上の「そりゃそうだぜ」みたいなものとの折り合いがうまくつかない。自分の人生を安全にしたいという欲求は誰にでもあるから、難しいと思う。

普通に、ちょっとクラスで浮いてたな、でもまあまあ愛されてたな、みたいな同級生から、おそらくナンパ術研修を受けたであろう不審なDMがFacebookに届く時に、「あ、浮いてる人ってやっぱり文面が変だし、これ以上近づくとなんとなく危ないかもしれない。」というレーダーが働き、なんか、難しいなと思うことがある。ティーンや子供は無垢なものとして、周りが扱ってくれるが、25超えてからの、そうはいっても人付き合いが選べるみたいなものって、どうしようもなく残酷。奇跡のような大逆転とか、奇跡のような(落とし所という意味での)わかり合いってマジで、個人の範疇では難しい。

こういう意味で大人になっていくのが正直めちゃくちゃやだ。思いの外、外界がくだらなかったせいで私の中に諦念が積み重なるのが嫌すぎる。それは、私の内面が足りなかったということでもあり、世界を信じるに足りる内面を私はこれから養いたい。現実を見ながら現実を変えていくことはできるけど、でも、何を現実とするかも選べるからなぁ。もう一度外界に触れても大丈夫な内面をつくるのである。

いわゆる大学のキャンパスの中や、人文系の集まりでで「偏見を無くそう」というのはとても簡単で、その実、危ないことはやっぱり危ない、もたくさんあり、揺れながら考えるしかない。幅広く色んな人が安心して楽しく暮らして欲しいと思うことと、個人としてそれを引き受けられるかはまじで別なんだよな。

▲学問バーkisiに立った時、ケアについて語りまくる。
「彩華さんは国にならなくて大丈夫」
(全てを包摂しなくて大丈夫の意)
と言われて安堵

期待に応えない生き方がわからない

自分の周りにいて、「才能がある」と言ってくれた、お兄さんやおじさんに絡め取られたことも数多ある。人から有能だと思われるのは、承認をもらえるのは気持ちがいい。その気持ちの良さって、優等生であることの心地よさだ。

「とってこい」が好きだ。「とってこい」と言われたものはかなりの割合で取ってくる。人の期待に応えたいという性分が、よくわからない歪みをもたらしてしまうことがある。期待に応えなくていい、のに、応えていると安心するのだ。私は承認が欲しい。

▲私に院試を勧めてくれた方が
合格発表に同伴していたが、
私は「これは距離感おかしくないか?」と
少し思っていた。でも記念撮影できてよかった。

なんか、21〜22の頃って本当に人生の先行きが読めなくて。母親が精神疾患で急死してから、なんか、全然自分の夢とか目標とか、ちゃんと生きていくこと、にやる気がわかなくて。

ふらふらとたどり着いた先で会った人に「休学するなら大学院行けば?」と言われた。その人は、なんか人生いろいろあって、娘さんとの縁も途絶えていた感じで、なんか寂しそうだった。「あ、私暇だし、いたらいいなこんな娘業」くらいはできるかなーとおもっていた。

で、気がついたら、よくわからない師弟関係に巻き込まれてきた。そして私も巻き込まれることを望んでしまっていた。

ものすごく、絡め取られやすく、共依存的になって離れることができない。例えば、「このままだと社会に出られない」とか、「君は発達障害があるからよそでやっていけない」といった、外の世界は怖いみたいなことを言って、私を繋ぎ止めた後、なんか、変な感じで自我に入り込んでくる。そういうのは、違うのだやっぱり。

自分の知性が気持ちの悪い形で搾取されていることに気がつけない

東大院に入ってから、なんかその、私に院進を勧めてきた人に対して、モヤつきと、どうしたらいいかわからない気持ちが出てきた。

「これからメディアに出ることになるのに君は大学院生でまだ『ペスト』も読んでないのか!みんなに笑われる!」といわれたり、「大学院生なのにハイデガーとハンナアーレントの往復書簡も読んでないのか!」と言われたりした。

「こりゃあいけない!」と思い(バカ正直なので)、一生懸命「ハイデガーとハンナアーレントの往復書簡」を読んだが、アーレントが、教員だった17歳年上のハイデガーとの哲学と知を媒介とした恋愛往復書簡だ、ということに気がつき、「あ、これ私読まされたのなんか、ヤバいかも…。」と思い始めた。そういう、知性を使ったキモい浸入みたいなものに私が気がつけなかったんだよな。その後も家父長制満載の変な発言ばかりで、私は慌てて逃げ出すことになった。

よく借りてたレンタルスペースのオーナーなんだけど、そこで働いてたら、「君はここの女将だから」とか「僕のパートナーだと思われている。」とか言われていて。なんかわかるんだよ、確かに、そういう立ち位置って、真実は別として「愛人ポジ」っぽい人がつとめることもあるんだよな。でも、違うから。当時の私の純度が高すぎて、よく分かってなかった。

でもさ、それから6年経っても自分で場所を借りて何かしらの催しをしているということは、私には「志」がある。ずっとケアと食卓の話してるし。私の「志」のことをナメているよね。どんなに外側から見て「愛人ポジ」だったとしても、私には「志」があるよね。

▲これは自分で場所借りたわけではなくて
立たせてもらったんだけど。(学問バー kisi)
人が集まる場所と、ケアと、食卓みたいなのって
どう考えても私のキーワードだろ。
人のプロデュースを受けたり、誰かの愛人とか
どこかの女将としてやってるわけじゃない。

なんか、相手が中に入ってきて、自我に侵入した後、こちらをこき下ろしたり一体化してくるみたいな、身体を経由しないが、なんとなくキモ関係みたいなことに私が鈍感すぎたのだ。そしてそれを承認と取り違えて、人に認められるのが嬉しくて、トラブルになってしまう。

後また別件で、文章のメンターをしてくれた人に散々赤入れされあと、「最近、三園さんが書く文章が僕に似てきた。」みたいな、ことに、ふわっと気持ちよくなるみたいな。そして少し気持ち悪くて絡めとられて逃げられないみたいな。そういう変な依存関係に、ものすごく巻き込まれやすかった。そして私もそれを多分望んでいた。庇護下って気持ちいい。20代前半。

「いい子だね」「才能があるね」「頑張っているね」「頭がいいね」と言われて、褒められて、それに応えることが、放置してるとまずいことになるなんて私は考えてなかったんだよな。だめです。強靭な自我を持って自分の満足のために生きる。

やっぱ、チヤホヤされることに靡いちゃいけないんだよな。チヤホヤされて私も嬉しかったんだと思う。でも、「なんか変だ」って感じがあったからそれにちゃんと気がついていたいね。違和感って違和感だから。

▲赤坂見附のスナックは借りて2年!(ありがたい)
だから、私は愚直に場所を求めてるだけだが

そういういわゆるメンターみたいな人たちの期待に応え続けていれば自分にチャンスが回ってくるとか、場所が手に入るとか、ラッキーが起こるんじゃないかと思ったんだけど、そんなことはなかった。

サポートをもらうって、支配を生むから。誰から出資をもらうかって関係性めっちゃ絡むから、クラファンひとつとっても大変だと思う。私は、いつか自分のスナックやスペースやバーを作る日がきたとしても、不特定多数に向けたクラファンはしないと思う。自分にとって合わないと思う人が、そういうものに関わってしまった場合、のちに関係性を切れないからである。

そうして、私は1人になった。全ての判断は、自分の範疇でしなければいけない。気持ちの良さと引き換えに誰かに依存しては行けない。
いろんな人に少しずつ依存してみんなで進むのはいいと思う。

27歳、自我をやっていくぞ。

『マイ・フェア・レディ』のラストで、イライザが、ヒギンズ教授に、怒りをぶちまけるシーンがある。

What a fool I was, what dominated fool,
to think that you were the earth and the sky.

『My Fair Lady』より「without  you」

私は、人が人を育てたいって気持ちに、こう、変な勾配とか、支配がかかるってことに気がついてなかった。

人の庇護下に入り、逃亡を繰り返し、「こんな感じでいいのか?」と思うたびに、なんとなーく鼻歌を歌う時がある。

あーあ、自我自我、自我やってくぞ。
被害者ぶって色んなことを書いてしまったけど、部分的には搾取であり、そして私が搾取を望んだとも言える。

信じられるのは、自分でやることだけだと思う。もう一度最初から仕切り直すのだ、と思っている。

だから、おジャ魔女かプリキュアになりたいってずっと、言ってるじゃん。自分が満足する自分でいたいってだけなんですよ。ていうか、私、研究テーマ「魔法少女アニメ」題材で大学院に行ったの、その、勧めてくれた人の期待に沿ってないんじゃないかと思ってずっとモゴモゴしてたんだよな。

▲結局イベントをやっている。
大学院を勧めてくれたのはその人だけど
私の合格は私のものだし、私の研究も私のものだ。

私の合格だし、私の修了なんだよな〜。なんだかんだゴニョゴニョ言って、結果やりたいこと通してるしな。

高校の卒アル、それほど私と縁が深かったわけではないんだけど、英語の先生が書いてくれた言葉をよく思い出す。少し、正確じゃなかったかもだけど。

「ゴチャゴチャやりながらなんだかんだやり通した君はすごい!明るい戦士でいろよ!」

と書いてあった。私だなぁ、この言葉は、と思う。多分ずっと思う。書いてくれた先生は、俳優の田宮二郎さんの息子さんだった。ご自身も俳優として活躍されていた。

明るい戦士、いいね!それは、なりたい!

今ある選択肢にないものを選びたいんだと思う。どんな人も関わってくれたことには意味も愛もある。自分の形が頑丈じゃないと、相手を悪く言ってしまう。

この前店に来た人に「彩華さんは選択的ティーンでしょ。」と言われてホクホクしたが、そういうことである。

ティーンエイジばかり着目されすぎるのはどうかと思う。自我がゆるふわな時期にできることなんて限られているのに。一番素敵な時期がティーンでたまるものかと思っている。

なんか、この前ラフォーレ行って友達と、「派手目の服で昔着てみたかったやつとか、今なら買えるけど着れる時期を過ぎている。」みたいな話になったけど、そういうのってやっぱバグだと思う。

ちゃんと自分で買えるようになった時に、着たいものを着られる方が正しい。若さをチヤホヤする社会は、自我がうっすら舐められた社会だということだ。自我がはっきりしてから、堂々としたり、ちやほやするべきである。

27歳の私だからできることをちゃんとやっていこうと思う。真面目にやるなら、他人の期待のためじゃなく、自分の内面を積み上げるために使った方がいい。幸せってそういうことだからな。やっぱり外界が嫌いすぎる。内面が染み出すことにしか、結局のところ私は期待できないのだった。

難しいことばっか!自分で選ばなきゃいけないっぽいー!

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