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私的な執着と世界観を担ったまま大人になった

痛みを感じるのは、大切だったからだ。子供の頃、祖母や従兄弟たちと大人数で泊まりがけにディズニーランドに行った日の帰り、ワールドバザールの出口を出た後、寂しくて泣いてしまった。

大人になってから親族との関係も希薄になった。だけど、そのあの瞬間は、帰りに寂しくて泣いてしまうほどあたたかくて、楽しかった。

役立たない個人的なことに、極めて強い執着をすることは、現行の資本主義とは極めて相性が悪いようだった。愛には執着という側面があり、個人的な愛は反社会的な意味を持つことがある。

子どもの頃、ディズニーランドのアトラクション「空飛ぶダンボ」に乗る時は絶対にピンクがよかった。順番を一周待ってもピンクのダンボに乗りたかった。その主張は、多分効率的にダンボに顧客を乗車させるのには不向きな主張であった。私は幼少期ピンクのダンボに乗ったことがある。大好きな色のダンボに乗れてとても幸せだったことを思い出す。でもそれは、やはり迷惑で子どもじみた行為である。ダンボの色を指定できる券が売ってたら、大人になった私は買うのだろうか、と考えてみたりする。

ダンボはいまもぐるぐるとんでいる

今度、開園と同時にダンボにダッシュしてみるディズニーをやってみようかな。ホテルに泊まった人が開園15分前に入れる権利を使ってダンボにダッシュしたりしてもいいのだ。必ずしもスペースマウンテンとか、バズライトイヤーに並ばなきゃいけないわけじゃない。ピンクのダンボを目掛けてダッシュしてもいいことをすっかり忘れていた。私は絶叫マシンが嫌いで、ダンボが好きなのだ。自分の1番は自分で決めていいのだとしたら、私にとってそれはピンクのダンボである可能性が出てきた。字もまだ読めない幼少期にダンボの絵本を暗唱し「ダンボはみじめでした…」の部分を情感たっぷりに読み上げていたという。

ディズニーリゾートの絶叫マシンは思春期に克服したつもりになってたけど、それは仲良しのみんなで乗って同じ景色を見たかったからだ。
だけど、もしかしたらもう乗りたくないのかもと思い始めた。絶叫マシンに乗れることが大人だと思っていたんだけど、全然好きじゃないことに書きながら気がついた。多分ストレスがでかい。

今後は仲良しの友達が絶叫マシンに乗ってる間に、私は大好きなミッキーの形のワッフルとかを食べてきてもいいのだ。ワッフルのお店の制服は赤いギンガムチェックのエプロンが可愛い。憧れである。ディズニーリゾートでバイトをしても、好きな店に配属されるとは限らないから、自分で縫うくらいしか解決策がない。

神戸屋の青いギンガムチェックの制服を着たかった。アンナミラーズのオレンジの制服を着たかった。アンナミラーズはもうこの世にないから、こちらも縫うしか解決策がない。たぶん私は胸が大きいから、エプロンタイプの服、良くも悪くもなんとなく目立つ気がする。自らの身体性に良いも悪いもないな。

27歳になっても世界のことをキッザニアだと思っているフシがある。世界をナメていると同時に、世界の楽しくて華やかな部分を大事にしているとも言える。

70年の大阪万博のパビリオンの制服が好きなので、25年の大阪万博の年になったら勝手に自分のパビリオンを考えて、何かしらの制服をつくって着ようと思っている。25年の大阪万博には特に期待しておらず、勝手万博にしか興味がない。2025年に一緒に勝手万博ををやるメンバーはそろそろ集め始めた方がいいし、だからといって誰でも良いわけではない。極上の勝手万博をやりましょうね〜と思っている。この前、友達の家でお鍋を食べてたら「今度一緒に万博記念公園に行こうね!」と言ってもらったので、ウッキウキ。サンキュー☆と思っている。彼女と2人パビリオンガールになって写真をいつか撮りたい。

そういえば大学の頃、文化祭と同日に、大学の近くのスペースを借り切ってスナックをやったことがあった。大学の中では酒類の提供が禁止されているため、近くを借りて偶然同じ日に酒を出す催しをしているだけで、非公式文化祭の「はなれ」だった。その年の文化祭は、同学年のある女の子が自分の立ち上げたサークルでメインステージでパフォーマンスをした年でもあった。その女の子と私を比較して、文化祭の日にメインステージでパフォーマンスをするのが彼女で、同じ日にキャンパス外でスナックをやるのがあなただよね、と言われたことがあったが、自分が何の疑いもなくやったことが、アンオフィシャルでインディーズ的になってしまう場合がある。

「裏をやる」という気持ちもなく、やりたいことがやりたかった。私は自分がしていることを邪道だと思ったことがなく、私は私の見た世界を現実だと強く思いすぎており、それを現実にすることにしか興味がない。ていうか私、学内のメインステージは、大学1年生の時に、ファッションショーの衣装作って立ってるし。名前も紹介されたし、自分でおしゃべりする機会もあったし、もう満足しているのだ。運動神経も悪く、派手なダンスをみんなで踊ることもできないし、チアリーディングをして人間を持ち上げることもできないが、これならチャンスがあると思っていたし、その通りだった。それ以上のことは、もうできないことが、痛いほどわかっていた。華やかな後夜祭とかには混ざれないから。

次の年もそのファッションショーに携わっていたが、ステージのタイムテーブルの事情により文化祭でのステージはなかった。私にとってはその年重要だったのは、仲良しの友達にディズニーハロウィン用のコスプレ衣装をつくること、であり、私は彼女のことが大好きだったため、全力投球であった。確かに前年立った大きなステージには恍惚とした感動はあった。野外ステージから眺めるキャンパスの中ほどまで続く人だかりを、今、たぶん9年ぶりくらいに思い出した。しかし、それは瞬間だけ切り取った刺激のようなもので、私の記憶の中でそれほどの順位ではない。

その年うちでディズニーハロウィンのコスプレの試着をしたこととか、数年後に文化祭の日にキャンパスの外でスナックをやって、訪ねてきてくれた人とかのことをよく思い出す。

いつも勝手にパラレルを生きていて、自分の見た社会を社会だと認識したり、自分にとって重要なものを、みんなにとって重要なものにしていきたいと躍起になる節があり、それは才能であり狂気であり幼稚であり暴力的であり、反社会的だ。愛でもある。

幼稚園の時に、クラスの全園児が梅雨の時期の工作として、朝顔の折り紙を折らされる機会があった。「続きはまた明日やりましょう」と親のお迎えが来る退園の時間になったのに、私は最後まで折り紙を折り続けようとした。私は泣き喚き、先生に引きずられながら退園した。

それから、同じく幼稚園の頃、私はBB弾のことを知らず、植物の種だと思っていた。園庭の砂場に拾ってきたBB弾を埋めて、水でもやろうかと水道に行ったら、隣のクラスの男の子たちに場所を取られて、揉めてしまった。こちらとしてはBB弾が発芽する可能性があるのでとても困るのである。繰り返したい、こちらとしては「BB弾が発芽する」可能性があるのだ。これは、重大だった。

私にとっては「BB弾が発芽するかもしれない」と願った場所であることが大事なのだった。聖地、なんてそんなものである。もし、私のことがすごく好きな人がいたら、「サイカがBB弾が発芽するかもしれないと思っていた場所」として大事に思うかもしれない。

BB弾が種子であるかどうかと聞かれれば、種子ではない。そこが特別な場所かどうかは、人によって違う。だから、そのことを信じるかどうかで、戦いが生まれた。意味のない執着は愛しさと共に暴力性を帯びる。それでも人は物語を重んじるし、そこまで執着するほど、生きることに直結してるのだと思う。

以前、友達の地元に行った際、「俺が彼女に告白したスポットを見て欲しい」と言われて、峠の途中の見晴らしのいい場所に、連行されたことがあった。微笑ましいが、これは結構、「BB弾発芽可能性」と近い文脈にあるんじゃないかと思う。

大事に思うことって、狂気と表裏一体で、私が「BB弾は絶対に発芽するのでこの砂場に人が立ち入ることを拒否する!」という人格のまま年齢を重ねれば、木を切らなかったりゴミ屋敷のまま近所に迷惑をかける人や、ものすごい勢いで宗教やヤバい化粧品に騙されて布教してしまう人とかになっていた可能性がある。たまたま執着の強さと同時に、客観性と勉強ができる感じもそれなりに身についたからよかった。

すごく大事な人たちが、傷ついたのを間近で見た経験があり、それを原体験に、この社会がいかに個別の存在を労わることに対して冷たく、それが男性中心社会的か、という論文を東大の修士課程に提出した後、横浜のLOFTでトークショーをしたりしている。自分の物語とか、信じるものの影響力をどれだけ大きくできるかというコンテンツには興味がある。それはすごく宗教的な社会との戦い方だと思う。それは物語の戦いである。アニメだってアイドルだって物語の戦いだ。渋谷も池袋もたくさんのコンテンツの広告が流れていて、みんな特別だと信じる何かの写真を撮ったり、グッズを持ち歩いている。人は物語がないと結局生きられないのではないかと思う。


宗教って、そういう適当さから始まる可能性があって。危険である。同時に、楽しさもあると思う。陰謀論とかもね。

教祖になるというのは、人から盲信されて崇め奉られることだと思っていたけど、たぶん違って、ストーリーテラーになることなんだと思う。それは大きくても小さくても良くて、自分が大事だと思うものを大事にし続けることだと思う。私は私のための教祖で、私は私のための信者でありたい。今世界を包み込んでいるのが、なるべく個別の執着を大事にしないほうが豊かになれるという教義の宗教なのだとしたら、それを少し書き換えてみたいと思う。

人はテキトーで、結構多数派に流されたりする。私は絶叫マシンに乗るのが大人っぽくて格好いいと思っていた。通過儀礼的な話だと思っていた。全然ダンボに乗っていきたい派であることを今日勇気を持って表明したし、BB弾発芽主張女児であった過去も恥ずかしながら暴露した。個人的に信じてたこととかこだわってたことって幼くて恥ずかしい感じがして怖い。

私、バンジージャンプが大人になる通過儀礼の社会が存在したら、たぶん嫌だなー、合わないなー。絶叫マシン乗りたくないし。私は、なんか理屈を捏ね回して、通過儀礼の方を「ダンボに楽しく乗れる人」に変更していく話題性を作る方が飛び降りてしまうより容易い。バンジージャンプの台の隣に、ダンボもつくって、ダンボがいい人とバンジーがいいひと、それぞれ並べばいいと思う。

「今!バンジーよりダンボを選んだ方がモテます!とか、ダンボの方がお金持ちになれるかも!とか、その上ピンクのダンボに乗れたあなたは生涯ラッキー!」とか言って、人をダンボに案内し続けると、だんだんそんな感じになるかもしれない。儀式をつくる力みたいなのが自分に結構あって、それが社会との折り合いの悪さになったり、魅力になったり、お金になったり、逆に仕事が続かなかったり、あとは危険を孕んでたり、癒しを与えたりする。

私は、催事で売り子とかキャンペーンガールとかをするバイトを昔よくやってたんだけど、「もうお召し上がりになりましたか?」とか「もうお飲みになりましたか?」と言って渡すと絶対受け取ってくれる。だって本当はお召し上がりにならなきゃいけないのを「まだ」やっていないという物語に相手を引き込んでいるから。本当に、私はこういう能力をね、いいように使わないといけないと思うんだよ…危険性があるよ…。

時代が時代なら魔女裁判にあってたかもしれない。自分の思っていることを他者に思わせる力みたいなものが異常に強く、暴力的で、喧嘩も生む。

自分のことへの執着が少ないほうが、資本主義の今の社会では生き抜けるような気がした。住む場所も、一緒に住みたい人も、携わりたいことも、執着がない方が、何かと楽だ。砂場の一角にBB弾を埋めたと主張する人間は、転勤がどうとか以前の精神性だし、怖すぎる。

でもさ、全然、同じ場所を守り続けるとか、同じ人の話を聞き続けるとか、人を大事にするとか、関係性をずっとやるとかは得意だからさ、そっちの方面では異常執着が役立つこともある。そっちでやっていくしかないと思うことがありそのことを考えるとワクワクする。例えば、同じ花束を正確に綺麗に作り続けなければいけないタスクにおいては私は劣等生だが、来たひとの話を聞いて贈る人にあった花束をつくったり、その話を文面にして物語として付与することは得意だと思う。その人にとってのピンクのダンボとか、発芽すると思ったBB弾は、その人自身の宗教における、大事なモチーフだからだ。

ティーンの頃に、夕方のニュースの特集で、球場のビールの売り子の女の子が、お客さんの似顔絵と特徴と頼んだものをびっしりと手帳に書いていた。私はそれを見て、めちゃくちゃやりたいと思ったし、こういうことが仕事になるのか!と極めて羨ましく思った!
「あーーー、これ水商売的だからあまり社会的にいい顔はされないかもしれないけど、私これたぶん得意だなーーーやりたいなーーーでもこれからたぶん、いい大学行ってキャリアウーマンにならなきゃいけないから、できないなーーー」と思ったことがある。あと、体力がないので、ビールを背負うと転げ落ちる可能性があり、こぼす可能性もある。でも、人の似顔絵を描いて、その人の特徴と好きなものを暗記しておくことがキャリアになる仕事があるのだと知ったことがとても鮮明に思い出せるのだ。覚えているということはやりたいことだったんだと思う。

いわゆる、客商売とか、「女の子的な」仕事が、軽んじられるのって、社会的には「しょーもねー」ことに脳の容量を割いているからではないだろうか。

そりゃ、心臓の手術ができる方法を知ってるとか、法律についてとか、税金の仕組みとかに脳の容量を割いたら、いろんな場所で使える。交換可能性も高い。

まじで、いつも外野席の右端に座っている人は、○回裏のタイミングでいつも◯を頼むし、好きな選手は◯◯みたいなことを覚えてることって、人に媚びてるみたいでダサかったり、全く社会の役に立たなかったりする。でも、それってすごくいいことだと思うんだよな。みんな自分の存在覚えてもらいたいでしょ。まぁ、逆に匿名性がある方が安心するというのもあって常連になると負担で店を変えたりする人もいるけど。

あと、実際球場行ってあまりにキャバクラすぎて吐き気がすることはあるんだけど。いや、キャバクラもいいんですけどね…。まあまあ、まともな大人っていわゆる「お水ノリ」みたいなのを、舐められてると思う人っているから…。ただビール買いたいだけなのに「あぁ〜初めていらっしゃったんですか?♡次買ってください♡」みたいなやつ。「逆にこれ人のこと舐めてるな」と思われたりするからなー。

やっぱ、その人が注文するタイミングとか、好きなものとかを覚えていることとかがベーシックに大事な気がしてる。売り子が男の子でも、そういうの覚えててくれる売り子さんがいたら、買う側は嬉しいっしょ。

銀座のクラブのママは、顧客リストを持っておりそこに客の勤め先とか好きなものとか全部つけてるってYouTubeで見たけど、私は人のカルテとか投薬履歴を管理することには向いていないが、その顧客リストを作ることを考えるとワクワクする。もうその人に対する場面以外では、なんの実利性のないことをひたすらに覚え続けたい。医者や弁護士や税理士のような公的なことはできないが、公的な医者と弁護士と税理士の人の私的な部分は担うことができる。好きな歌やいつも飲むものや子どもの頃住んでた場所とか全然覚えられる。そんな感じで社会に生息して、それを「大人になること」としてカウントしてもいいのだろうか、と思う。それはすごく得意だと思う。人のピンクのダンボを覚え続ける。人が埋めたBB弾に執着し続ける。

私はこのところ、なるべく悲しいことが増えないように、物事に執着をしないようになっていた気がする。執着なんてない方が、うまくやっていける気がしたが、執着がないと味気ない気もした。手のかかるものほど、愛が深くなる。『星の王子様』のバラの話を思い出す。痛みを感じないことこそ、大人になることだと思っていたけれど、痛みを表明していくことは、大事かもしれないなー。

バンジージャンプを飛ばないまま、ダンボに乗って大人になってしまった。

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