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美しさは私とラブドールのあいだに

美しくないものを美しいと言っているうちに、どんどん自分がダメになりそうになっていくことに気がついた。何かを切り捨てて、先に進むことが、私の中の美学とかありたい姿が、誰かを傷つけることになるのではないかと常に心配していた。

幼い頃、私が見ていたテレビや小説よりも、大人になるにつれて、現実世界の生身の人間はよっぽど生々しく、重く、仄暗いことに気がついてきた。まあ、あえて、そういうものを見に行ったところはある。

その年で、どうして、こんなことになっているんだろうという人も何人も見た。ひと回りもふた回りも年上で、私はそれらの重さや、「助けてくれ」みたいな姿を見るたびに、ひっくり返りそうになる。こっちがジャッジするのもよくないが、「救われない魂!?!?」みたいなものである。大学院で女児アニメの話ばっかりしていた私は、本当に自分の持ちうる光では太刀打ちできないホンモノのバケモノたちを見て、おどろくしかないのだった。

ゼミで話していたことといえば、貧困報道についてだとか、難民についてだとか。それらについて議論を交わしている時とは違う、なんかもっと生々しいしんどさ。 個人として、「ゆるやかにしんどいものとぬちゃっと関わる」ということは、想像を絶していた。

中途半端な居場所のなさを埋めるために、ひけらかされる中途半端な趣味や、その披露、褒められたい挙動に、完全に心が疲れている。どんどん曇ってしまう。私は、それをすごいと思えないのだ。どんどん「甘えるなボケ」という気持ちが大きくなって、全ての自己表現は素晴らしいという気持ちが、どんな人にでも居場所があるという覚悟が揺らいでいった。もっと公共的でベーシックなケアだと思っていたものに、余計なものがどんどん乗っかってくる。人は救えない。

拙くてもいい、純度を私は見たい。純度をなんでお前が判定できるのかと言われるとわからないけど、それ私の心と感性が決めていることなんだ。格好良さげでダサいものもあるし、ダサく見えて格好いいものもある。わたしは、ダサく見えても格好いいものが好きだ。本気で一生懸命であってほしい。腐りが嫌いだ。何が嫌いか言うことと、ケアが終わりになるのかは、よくわかんない。

私は子どもの頃から25〜6くらいまで、常にエネルギーに溢れる人たちとおり、目の前にはいつも溌剌とした人たちがいた。自分はなれないかもしれないけど、憧れてしまうような人たち。なりたかった人たち。たとえば、文化祭で、死ぬ気で練習してステージに上がる人の姿。常に鏡を見ながら、自分と戦っている人たち。そういう人たちをずっと見てきた。私だって、本当はこうありたくないという気持ちと常に向き合ってきたつもりだ。

人は鏡を見ることを忘れると容易に化け物になる。化け物は、恐ろしい。不思議な行動ばかりとる。

それから、下品な言葉をかけたり使ったりする人は嫌いだ。たとえそういう語彙しか得られなかったことに何かしら、私と違うバックグラウンドがあったとしても、くだらん話をする奴が、私は嫌いなのだった。それは私の美学だから。生涯耳にできる言葉が決まっているなら、なるべく美しいものを選びたい。

美しい言葉と、一生懸命な自己表現を、愛していたから、箸にも棒にもかからない表現をする人と、思いやりのない言葉をかける人と、生きていくのは、私には難しい。耐えられない。私が耐えられない人は、まあ、他の人は大丈夫かもしれないが、でも、もちろん大人気というわけもなく…。嫌われる個体と、愛される個体がどんどん差が開いていくというのは、どうしようもないことなのかもしれないな。

「優しくする」って、なんなんだろう。この世を器用に運転していくには、難しいことばかりである。車の外にはたくさんゾンビがいて、私の車にはユーミンがかかっている。「救えないなぁ」と思いながら轢き殺したり、ワイパーで掻き分けたりする日々だ。載せたらいけない、ということが、だんだんわかってきた。仲良くすればいいと、思っていたのだけど。私は全力でアクセルを踏んで、見慣れた格好のいい車たちと、一緒に走らなきゃいけないのだ。1人1人違う車だけど、なるべく長く、素敵な車と同じ集団で走っていたい。ゾンビの街には、いられない。


年齢を重ねても、何を見ても、腐らないかって、それはでも、最後は、自己責任なんだ。自分が腐らなければ、人に良いものを渡せるからな。システムとして自己責任論は終わるべきだと思っているが、心意気だけは自己責任なのだ。

外界のほとんどがキモい。想定外の事態全てがウザい。モテってなんなんだろうな。愛や恋と、言いがかりって何が違うんだろうな。私もよくやるのですいませんだが。

能町みね子の私小説『私以外みんな不潔』という本を読んだ時に、胸がスッとした。幼稚園のころ、彼女が好きだったレオ・レオニの『あおくんときいろちゃん』という絵本に、あおくんときいろちゃんがまざりあって、みどりになる、というシーンがあり、それが嫌だったと書いてあった。あおならあお、きいろならきいろでいたい、それが、彼女の主張だった。

私はそれをよく思い出す。私は独立したあおで、独立したきいろなのだ。なのに、どんどんそれが邪魔される。いやだ。と思うのだ。

大学の外に行ってから、女体として見られることが増えた。立ち飲み屋で女の子と2人でいる時、他のお兄さんたちの相手をするためにいるわけじゃないから話しかけないでほしい。なんで私の時間をあんまり面白くない話に奪われなきゃいけないのかがわからない。普段もっと楽しい話をしてるのに。今日は、その女の子と私で話してるのに。放っておいてほしい。だからお店を変えなきゃいけない。迷惑だ。

愛でもモテでもない、「そこに女体があったから」みたいな、変な優しさと、変な話しかけられ方みたいなものが、グッと増えた。てか待って、もしかして世のほとんどってそれなんですか?多分、それは私があえてそういう場所に足を、踏み入れてたのもあるけど、そういう嫌な出来事をシャットアウトするコマンドを持っていないから、もあるな。これから実装しないといけない。

人間としてガチで向き合うみたいなのを常に気を張りすぎているとめちゃくちゃ疲れる。向こうは、「女の子たちが2人でいるから話しかけよーっ」と思っているが、こちらは「人間とガチで向き合ってやる!」と思っているので、すれ違いの内面アンジャッシュが起きる。消えてくれ。

パワーがエナジードレインされていく。コーチングやスナックでもないのに、絡まれた人の話に永遠に付き合わなくてもいい。1人でいたい。常に朗らかなオーラを纏いたいと思っているが、ちょっと怖くてピリッとしたオーラを纏った方が良いのかもしれない。

仮に女と男をAとBだとして、今世での私のボディタイプはちょっと人気なAタイプだ。Aタイプのダルさが、大学を出てから一気に襲いかかってくる。気持ち悪すぎる。

私が会って気持ち悪かったひとは、私が勝手にジャッジしただけだけど、内面的にあまり引き出しを持っておらず、その人が持っている内面性でしか他人を表すことができない。知らねーよ、何が「明るい女の子」だよ、馬鹿クソ、ニヤニヤすんな。と思ったりするからな、口が悪いな…。私そんなにつまらない言葉で言い表されたこと人生で一度もないから。一番好きな居酒屋、紹介しちゃだめだったなぁー。

その世界に組み込まれること自体が不愉快で、私はとにかく人が嫌いなんだと思った。なんでこんなことまで思ってしまうのかよくわかんない。わかってほしい、というのは性欲であり、業だ。そういう欲が多分強すぎる。私はまなざされたくないし、語られたくない、私がまなざしたいし、語りたい。多分主体でありたい気持ちが強すぎる。

私の周りにいた人たちは、人間に対して結構、捨てたもんじゃないとか、ちゃんと思ってたりして。その人の面白さとか、豊かさとか、たくさん表現するコマンドをもっていたから、私はそれに含まれるとリスペクトを感じて嬉しくなるのだ。そういう人たちが私に与えてくれる言葉を信じている。嬉しいと思う。私というものの価値は、それらの言葉の集積であってほしいと思うから。

私はその、チープな語彙の世界にいられない。リスペクトのある、言葉の世界に身を置きたい。私は、私というものがどういう言葉で言い表されるかを、どう扱われるかと捉えるから、すごくいい感じに、話ができる人たちと一緒にいたい。

昨日、オリエント工業のラブドールを見た。なんというか、愛されて生まれてきた、神がかった精巧な女体に、ドキドキした。作ることは丁寧に人の心を砕くことだからな。女の身体が丁寧に扱われているのを見ると、なぜだか、ものすごくケアされているように感じるのだった。私もこっち側の性でよかった!と思った。

私の身体はまなざされて定義づけされるものではないし、美しく丁寧に愛を持って接されるものだと思っているし、人は一生懸命生きた方がいいし、趣味とかも真剣にやって甘えない方がいいし、美しくて一生懸命やったものが好きだし、誰かをジャッジしてはいけないというのなら、オリエント工業のラブドールを私は見つめ続けるから、他は半分くらいしか視界に入らない。たぶん、仏像とかを拝んでた人ってそういう気持ちなんだろうな。

今日はオリエント工業のラブドールの扱い方、お手入れ法の動画を見ていたら、女体がとても丁寧に扱われていて、なぜか半泣きになっていた。なんでだろうな、これくらい価値のあるものです、と、言われているような気分。優しく触れられる、ダッチワイフを見て、私は何かが癒されるのを感じる。

しんどい色恋沙汰のトラブルを聞いて心が痛くて倒れそうになった時より、オリエント工業のラブドールを見ていると元気になる。

人形には、余白がある。私は私の思う何かをそのラブドールに投影する。オリエント工業のラブドール、私展示2回見に行ってるんだよな。おジャ魔女とかプリキュアとかも好きなんだけど、全部において、独立した身体性と自我でいたいんだと思う。外界からどんな風にまなざされるかは関係なく、私の中の女の子像にしか興味がない。自閉した非モテ感と、中途半端な優しさと、曖昧な笑顔と、破裂しそうなエネルギーでわけがわからなくなっている。あー!言葉にしたらスッキリした!おーい!中途半端な優しさで好いたり好かれ合うのやめましょう!だるいから!私ももうやめます!みんなでおりましょ!私は降ります!

眼差しと関係なく存在する堂々とした存在になりたい。私とラブドールのあいだに、私のなりたい私がある気がするのだった。どうか、離れたところで見ていてほしい。私のマリア像かもしれない。

本当に、私とアニメとか、私と人形とか、そういうもの以外に興味がない。あと、雑誌も好きだったなぁ。オタクだろうか?でも心の教義に従っていると言うだけであるから、私に必要なのは宗教だと、よく言っているけど。

外の世界を見ていると気が狂ってしまう。しばらくは、オリエント工業のラブドールを見て過ごす。外界からの扱いで、歪んだ私の像を、取り戻したい。私と人形との関係は、私そのものになっていくのだから。

女児アニメに執着するのは、私が私でいたいと言うだけなんだよな。幼さって言うな、本当に私の世界に誰も入ってこないで欲しい。その反面、私は自分の世界に人を取り込む方が得意なようだった。ラブドールと一緒に、腐った世界を抜け出したいと思うのだった。

自己愛をずっとやっている。

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