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演劇批評誌『紙背』 『批評家派遣プログラム』① 冨士本 学

豊岡演劇祭2023フリンジセレクションでは、演劇批評誌『紙背』『批評家派遣プログラム』を実施しました。
公募によって選ばれた2名の批評家、関根遼氏と冨士本学氏による批評を掲載します。


「コンテクストを相対化する」― 豊岡演劇祭2023

冨士本 学

 9月24日、11日間にわたって開催された豊岡演劇祭2023が閉幕した。2020年に始まった豊岡演劇祭は、今回で3度目となる。開催地である兵庫県北部の但馬地域の9つのエリア―豊岡、城崎、竹野、神鍋、江原、出石、但東、養父、香美―は、海と山と川に囲まれ、その間の入り組んだ細長い谷地に田畑があり、集落が点在する地域だ。山によって視界が阻まれるため、どこにいても隣のエリアまで見通すことはほとんどできない。こうした地形の影響もあって、地域ごとに特徴の異なる風景や文化が醸成されている。その多様で豊かな風土の上に公演会場が点在するように設けられ、90以上ものプログラムが行われた。
 豊岡演劇祭は、「まちづくりに演劇の力を活かす」を掲げ、地元住民・観光客・アーティストの三者が交流・対話する場となることを目指している。こうした地方創生の文脈においては、ある地方に外から関わる人を「風の人」、地元に根付き生活する人を「土の人」と呼び、その両者の共存と相互作用が重要であるとしばしば言われる。これに倣えば、演劇祭において、観光客とアーティストは「風の人」で、地元住民は「土の人」である。さらに拡大して解釈すれば、演劇祭での上演演目を「風」、豊岡の風土を「土」と言うこともできるだろう。
 そこで、豊岡演劇祭2023において「土」が「風」に及ぼした作用について論じてみたい。なお、筆者が滞在できたのは開催期間のうち前半の週末3日間のみで、演劇祭の全体像を俯瞰することは到底できない。本稿では、劇場とは異なる特色ある場所での上演が目立ったフリンジプログラムのうち、「ながめくらしつ」、「安住の地」、奥野衆英による3作品を取り上げる。
 
ながめくらしつ 目黒陽介独演『ライフワーク』(国府地区コミュニティセンター、9月16日17時00分開演)
 「ながめくらしつ」は、ジャグラーの目黒陽介が2008年に“ジャグリング&音楽集団”として結成した現代サーカスのカンパニーである。現代サーカスは70年代のフランスで生まれたとされる舞台表現で、サーカス特有の曲芸に演劇やダンス、音楽、美術といった様々な要素を融合させ、ストーリー性を持ったひとつの作品として提示するのが特徴だ。近年、海外カンパニーの招聘公演が開催されるなど、現代サーカスに対する国内での認知度も高まりつつあるが、15年にわたって活動を続けてきた「ながめくらしつ」は日本におけるその先駆けと言えるであろう。
 一口に現代サーカスと言っても様々な形式・技法がある。例えば、空中に吊り下げられた輪や布で演技をするエアリアルでは吊り下げるための大規模な舞台機構や装置が必要だ。大人数の集団のアクロバットでは、装置を用いなくとも舞台上に広い空間を用意しなければならない。移動手段の確保の問題もある。ツアーや再演には困難が付き物だ。
 そこで昨年生まれたのが本作『ライフワーク』だ。装置は最小限に抑え、出演者も目黒と演奏家の2人のみという約1時間のソロ作品である。そうすることで、将来的に長期にわたって各地で再演することを可能とした。繰り返し上演することには、様々な地域の観客が現代サーカスに触れることができる、目黒のパフォーマーとしての変化を追うことができる、といった利点がある。東京、松本に続き、この豊岡公演で3度目の上演となった。
 今回の公演会場は、水田が広がり古い集落も残る地区に建つ、公民館の多目的ホールだ。天井が高く、学校の小体育館のような趣も感じる。普段は地域住民のための体操教室や展覧会などに利用されているという。会場に入ってまず目に入るのは、正面奥にそびえ立つ黒い壁。床には黒いリノリウムが敷かれ、その上にはリングや靴のほか、小さなデスクと椅子などが置かれている。
 そこに、ピアニストのイーガルとともに黒一色の衣裳で現れた目黒は、まず舞台の上に用意された靴を履き、長袖シャツを着る。次に、手で自身の身体を確かめるように触る。儀式的な準備の時間だ。そして、ボールを手に取りカスケード(奇数個の道具を両手で交互に投げてキャッチする技)を始める。目黒の意識は全てボールと自身の身体に向かっており、まるで目の前に観客など居ないかのように内省的だ。時にエラーが起き、ボールが床に落ちる。音楽もどこか影のある曲調だ。その目黒の姿には、公民館の日常的な空間も相まって、華やかな公演の裏で日々ジャグリングの技術を鍛錬する求道者的なパフォーマーの在り方が見えた。
 中盤、目黒はジャグリング道具を手放して背後の壁に立ち向かう。壁の大きさを確かめるように時間をかけて身体を預け、倒立したり、上端を掴んでぶら下がったりする。高い身体能力をもって試行錯誤を重ねる光景に、あらゆる身体が重力の制約を受けているという、あまりに当然で忘れがちな真理を思い起こした。ついには壁の上に上がって自在に移動してみせるが、この一連の動作には、コロナ禍以来のオンライン時代で顕在化した、パフォーマーにとって障壁と言うべき身体の不在に対峙し格闘してきた過程が象徴されていた。
 小休止を挟んで終盤に入ると、音楽が明るい長調に変わり、目黒の卓越した技術が次々に展開する。宙に投げたリングはピアノの符点のリズムに同調し、さらに目黒の手の上で組み上がりひとつのオブジェとなる。また、ボールに回転をかけて床の上で転がすと、まるでボールに意思が宿ったかのように円の軌道を描いて目黒のもとに戻ってくる。いくつものボールがぶつからずに交差しつつ大小様々な円を描く光景は、静かながらも圧巻だった。ひとつひとつの動作を迷いなく丁寧に積み重ねていく目黒の姿には、中盤までとは異なる前向きさや希望が感じられた。
 このように、『ライフワーク』は目黒が演奏家とともに黒一色の舞台に立ち、ただひたすらにジャグリングに向き合う作品である。しかしそれは単なる曲芸の披露に留まらず、作品の中には、過去の上演の記憶と、その時々の社会の動きと、変化していく目黒の身体性とが深く刻まれている。今後も永く観続けたい作品に出会った。

安住の地『かいころく』(日本基督教団 但馬日高伝道所、9月17日10時00分開演)
 「安住の地」は、京都を拠点に2017年から活動を続ける劇団・アーティストグループである。演劇を主軸としつつ、YouTuberやファッションデザイナーなど、他ジャンルのアーティストらと積極的にコラボレーションする分野横断的な活動が特徴だ。
 今回、私道かぴが企画・脚本を手がけた新作『かいころく』は、森脇康貴演じる養蚕農家の息子が、家族や蚕と送った生活を回顧する約30分の一人芝居だ。
 会場の但馬日高伝道所は、1959年に建てられた小さな木造のプロテスタント教会である。JR江原駅から歩いて10分程度、山と川に挟まれた平坦な谷地の住宅地の中にある。素朴な造りで、中に入って見上げると、細い木材を組み合わせた小屋組のトラスが屋根を支えており、近代日本で用いられた建築技術の系譜が窺える。小さなアプス(祭壇)には、装飾のない十字架がかけられている。側面に大きく採られた窓からは、朝の光が柔らかく差し込んでいた。すぐ近くの小学校で行われている運動会の声援は不思議と遠く、湿度の高い残暑の空気が漂う、しんとした優しい空間だった。客席は室の中央を囲むように設けられ、床にはいくつもの白い繭がちりばめられている。窓際には小さな脚立がひとつ。それ以外に装置や小道具は何もない。
 そこに木綿のゆったりとした作業服を纏った青年(森脇)が現れる。青年は、家族とともに年中蚕の世話に明け暮れた幼い頃の日常について、特徴的なオノマトペを含んだ言葉とマイムで語る。森脇の動作はひとつひとつに説得力があった。例えば、刈り取った桑の葉を籠に押し込む場面では、葉や籠といった具体的なオブジェクトが何ひとつ舞台上に無くとも、質感を持ってその光景が眼前に現れた。一方で、語られる言葉や語り口は客観的で、どこか透明感があった。
 時が経ち、中盤、戦争が始まったことが青年の口から告げられ、彼が回顧していた時間が太平洋戦争以前であったことが判明する。先刻まで青年の手に握られていた見えない鍬は、気付けば見えない槍に変わっていた。見えない召集令状を受け取った青年は、脚立を機敏に上り、見えない神棚に向けて力強く敬礼する。
 ここで、冒頭で彼がつぶやいた一言が、筆者の脳裏に木霊した。
 「…そこで、わたしはしがない、蚕飼いだった」
この過去形に、この青年のもとにあの慎ましくも穏やかな日常が戻って来ないことを思い知った。森脇が醸していた透明感は、彼岸が見えている人間の、諦念とも覚悟とも言える空気なのかもしれない。
 この戯曲の特筆すべき点は、家族の愛を受けて育った子が出征を受け入れる姿が、繭を作りその中で死ぬ蚕の姿に重ねられているところにある。蚕が繭を完成させて蛹になると、人間は糸を紡ぐために繭を乾燥し鍋で煮る。たとえ蛹が羽化して蛾の成虫になったとしても、人間の長年の品種改良の結果、その羽に飛ぶ力はなく、退化した口ではものを食べることもできない。
 終盤、森脇は蚕のその運命を語りながら身体で描く。床の上で丸まって右へ左へ大きく転がり、その力がだんだんと激しさを増したかと思うと立ち上がり、羽を広げるように身体をぎこちなく伸ばしていく。抗し難い現実に対する青年のはっきりとは語られない願いが、脆い蚕蛾に託されていた。
 教会という祈りの空間の中で、削ぎ落された表現が紡ぐ青年の運命に胸を打たれた。加えて指摘したいのは、窓から差し込んでいた日光が、まるで各場面に合わせた照明のように明暗したことである。その奇跡的な演出に、何か超現実的なものの存在を感じずにはいられなかった。祈りとは、神や死者といった遠くの存在に思いを馳せ、自己や他者、世界の安寧を願う行為だ。80年近く前、この国のどこかにいたかもしれない蚕飼いの青年に思いを馳せ、災禍の続く不安定なこの世の平和を祈った。

奥野衆英『BLANC DE BLANC -白の中の白-』(豊岡稽古堂、9月17日15時15分開演)
 奥野衆英は、フランス・パリを拠点とするマイム俳優だ。マイムは、物語や感情を身体の動きや姿勢で伝えるノンバーバルの芸術表現である。奥野は、“沈黙の詩人”や“パントマイムの神様”と称されるマルセル・マルソー晩年の数少ない直弟子のひとりであり、マルソー自身が教鞭を執ったパリのマイム学校で学んだ。
 近年、日本国内での活動の幅を広げており、元山海塾の浅井信好とともに2015年に立ち上げた名古屋が拠点の「月灯りの移動劇場」で制作や出演を続けている。一方、本作は奥野が単独で演出・出演する約1時間のオムニバス形式のマイム作品で、これが謂わば奥野の本業だ。
 会場は豊岡の市街地に建つ豊岡稽古堂(旧豊岡町役場)で、建物に入ってすぐのロビーのような空間に、黒いパネルとリノリウムでできた小さな舞台が設えられた。舞台上には大きな白い風船や球がいくつも置かれ、抽象的な空間を作っている。
 そこに、サスペンダー付きの灰色のパンタロン、黒いシャツ、灰色のニット帽という出で立ちで奥野が現れる。モノトーンで細身のシルエットがなんともパリジャンらしい。奥野は、各小品のタイトルを背後のパネルにチョークで書いてからパフォーマンスを始める。
 ジョルダン・トゥマリンソンによるピアノの音源が流れ、奥野が一歩踏み出した瞬間、その身体を媒介としてパリの風景が鮮やかに脳裏に浮かび上がる。揺れながらのろのろと走るメトロを降り、駅を出て上を見上げると、オスマン建築のマンサード屋根の向こうに空が覗く。道路に面したカフェには老若男女が集っており、自らもその一席に座ってエクスプレッソを片手に新聞を広げると、見ず知らずの隣の客からふいに話しかけられる(この時、実際には奥野は空気椅子だ)。
 パリには、手工業を営む労働者が多く生活している。とあるアトリエの中で、仕立て屋の職人がひとりせっせと生地を選び、手際よく裁断し、丁寧にアイロンを掛け、足踏みミシンに向かっている。ミシンの場面は本作のクライマックスのひとつだった。大きな白い一枚の布を奥野が宙にはためかせると、足で床を細かく踏み鳴らしながら、我々の目には見えない布を次々に送っていく。舞台上には存在しない道具やアトリエの内装までもが、奥野の動作ひとつひとつによって輝きを持って立ち現れる。その光景には、労働への誇りと喜び、労働者への敬意が満ち満ちており、普遍的な人間の在り様が見えた。
 終盤、奥野は白いパネルを背後に掛け、舞台手前にパリの風景が刻まれた手作りの切り絵のパネルを並べる。スピーカーから日本の国際空港のアナウンスが流れる中、奥野は片手に握った懐中電灯で、もう一方の手と影絵とを照らす。するとパネルには、手で形作った飛行機の離陸する様が影で映し出される。パリに到着すると、飛行機を表していた影は歩く人間の形に変わり、その背後にはガルニエ宮、ルーヴル宮、サクレ・クール寺院といった、憧憬を抱かずにはいられないような風景が流れていく。
 この場面は、奥野自身が20代の頃にまっさらな状態で単身パリに渡った時のことを描いたものだという。そこで本場のマイムに出会い、芸術の道を志し、技術を磨いてきた奥野が、いま故郷の日本で自身の作品を披露する。奥野が我々に向けた自己紹介、挨拶とも言えよう。
 本作の大きな特徴として、上記のような具体的な情景を描いた作品の間に、マイムのメソッドだけで構成された作品が挟まっていることが挙げられる。奥野がマイム学校で学んだ型をそのまま体現することで、マイム芸術の継承者としての自身の矜持が示されていた。
 終演後、奥野は観客に向けて、「僕のマイム作品は、僕が動いて、皆さんの頭の中で完結する作品です。正解を探そうとすることで、皆さんのもっと豊かな想像力を止めないでください」と語りかけた。豊岡にいる観客一人ひとりが遠く離れたパリの景色を鮮やかに想像できるのは、奥野の演技が正確無比な技術、人間や事物に対する深い洞察、そしてユーモアに富んだ芝居心に裏打ちされているからに他ならない。詩的で心温まるマイムの表現と奥野の鋭くも優しい眼差しに、これからも注目したい。

コンテクストを相対化する 
 豊岡演劇祭2023での観劇を通じて筆者が興味深く感じたのは、上演される場の影響を受けて作品が個々に有するコンテクストが相対化され、作品の輪郭が際立ったり、予期しなかったサイトスペシフィックな側面が現れたりしていたことである。
 長年再演することを前提として創作された『ライフワーク』では、地域住民の利用を前提とした公民館を会場とすることで、日々鍛錬するパフォーマーの内面にある、求道者的な性質がより効果的に浮き彫りになった。戦時中を生きる青年の運命を近代の主要産業と重ねた『かいころく』では、当時を思わせる教会を会場とすることで、過去へタイムスリップするような感覚を観客に与えるとともに、死者や平和に対する祈りというテーマが重なった。フランスで発達し芸術として成立した正統派のマイムで構築された『BLANC DE BLANC』では、パリの生活者に特有の身体性を、パリから遠く離れた言語も文化も風景も異なる地で垣間見ることで、その身体性の中に人間の普遍性を見た。
 冒頭で述べた「風」と「土」の関係で言えば、「風」は「土」の恩恵を受け、豊岡固有の観劇体験が生まれていた。他方で同時に、作品が有するコンテクストは、豊岡の風土を再解釈する力を持っているだろう。しかし今回、筆者の短い滞在ではその点を十分に認識するに至らなかった。余談だが、開催エリア内の飲食店などで地元住民と話す機会を得た際、演劇祭の存在は知っていても観劇する予定はないという声もあり、演劇祭そのものが文化として土地に根付くにはまだ距離があるように感じた。豊岡演劇祭の今後の継続的な開催を期待したい。

冨士本学
1994年生まれ。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程に在籍中。
専門は、建築構法および文化財保存。「木骨煉瓦造」を対象に、近代日本における西洋由来の建築構法の変遷とそのメカニズムについて研究している。日本建築学会優秀修士論文賞(2020年)ほか受賞。
建築の研究と並行して、昨年より舞踊を中心とした舞台芸術の批評活動を開始。愛知県芸術劇場「鑑賞&レビュー講座2022」を修了。愛知県芸術劇場×DaBYダンスプロジェクト 鈴木竜×大巻伸嗣×evala『Rain』初演のレビューを執筆(2023年3月)。


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