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演劇批評誌『紙背』 『批評家派遣プログラム』② 関根遼

豊岡演劇祭2023フリンジセレクションでは、演劇批評誌『紙背』『批評家派遣プログラム』を実施しました。
公募によって選ばれた2名の批評家、関根遼氏と冨士本学氏による批評を掲載します。


「わかる/らないもの」をつなぐ場としての演劇祭 ─豊岡演劇祭2023滞在記─

関根遼

 かつて、演劇とは「なんじゃこりゃ⁉︎」という他者と出会う場である、と誰かが言った。これを言い換えれば、演劇=劇場とは「わからないもの」と出会う場だということができるだろう。これをさらに広げると、演劇祭とは「わからないもの」の寄せ集めということになるのだろうか。
 筆者は本誌(『紙背』)の批評家派遣プログラムの参加者として9月14日から19日までの6日間、兵庫県豊岡市一帯で開催された豊岡演劇祭2023に派遣され、合計10作品を鑑賞した。実質3回目の開催となる今年、初めて豊岡演劇祭に参加することとなった。
この演劇祭がフランス・アヴィニョン演劇祭をモデルとし、「アジア(日本)のアヴィニョン」を目指すのであれば、第一に多くのアーティストや観客に対して場を開くこと(公共性)、そして優れて「わからないもの」を積極的にプログラムすること(芸術的前衛性)の2点の両立が求められると思うのだが、今年の豊岡演劇祭(の少なくとも前半)は、フリンジも含めて、どちらかといえば前者に重点が置かれている印象を受けた。つまり、老若男女誰でも簡単に参加できて楽しめる作品=「わかるもの」が多く、その合間を縫うようにして、いくつかの「わからないもの」がプログラムされていた。もちろん、多少なりとも公金を使った演劇祭である以上、前者を重視することは間違いではないし、両者に優劣をつけることはできない。重要なのは、1つの演劇祭の中でどちらの作品も観劇できる状況が整えられていたこと、そしてほとんどの観客がどちらの作品も観劇したであろうことだ。
筆者の体感として、東京ではこれら「わかる/らないもの」の観客層はそれぞれ完全に分かれている。一方で豊岡演劇祭は「わかる/らないもの」を隔てる境界線の「/」を揺さぶり、作品と観客とをつなぐ場として機能していた。どの観客も気軽に「わかるもの」を楽しむと同時に、「わからないもの」との出会いに戸惑い、困惑し、思索する契機が与えられていたのだ。
以下では筆者の印象に残った作品をいくつかピックアップして論じることで、豊岡演劇祭2023の像を断片的にではあるが描き出すことを試みる。
 長岡岳大×めぐみ梨華『スーパーリラックス』(演出:濱口啓介)は、2人のパフォーマーに連れられて、竹野の町を歩いて移動しながら、ジャグリングやディアボロなどそれぞれの大道芸を見るというシンプルかつささやかな作品。ほぼ無言ながらも、時折ジェスチャーを通じて観客を参加させつつ、全体を緩くまとめる2人のやりとりが楽しかった。出発地の漁業組合から神社、生活感溢れる狭い路地を通ってゴール地点の浜辺に至るまで、場所の選択が絶妙で、観客は大道芸と一緒に竹野の町や海の美しさを楽しむことができた。予約不要・無料(終演後に投げ銭)だったこともあり、特に地元の親子連れが楽しそうに参加していたのが記憶に残っている。
 『スーパーリラックス』は出演者が2人だけの小さな作品だったが、ほかにも出演者が1〜2人の小規模な作品で優れたものがいくつかあった。奥野衆英『BLANC DE BLANC -白の中の白-』もその一つだ。パントマイムの巨匠マルセル・マルソーに師事した奥野の1人舞台は、暗闇の中で白い光に照らされ、静かな音楽とともに流れるように進んでいく。無言のまま滑らかに、しかしその中にある種の硬質さを感じさせる奥野のストイックなマイムは、単なる形態模写にとどまらず、あえて細部を抽象化することによって、それを一つの踊りとして鑑賞しうるものに昇華させていた。豊岡演劇祭2023の最多公演回数(16回!)の称号を勝ち取った奥野と本作に素直に拍手を送りたい。
山﨑健太と橋本清の2人のユニットy/nのレクチャー・パフォーマンス『カミングアウトレッスン』もまた、少人数・小規模ながら優れた成果を挙げたといえる。兵庫県立芸術文化観光専門職大学の小教室で上演されたy/nの代表作である本作は、今回が4度目の上演というだけあって完成度の高さを感じさせたし、上演時間も本編45分+トーク(観客との質疑応答)30分とよくまとまっていた。
橋本と山﨑はホワイトボードを背に観客と向き合い、あたかも教師と学生のような位置関係で上演は始まる。冒頭に橋本から、本作は「カミングアウト」についてのレッスンであることが語られ、以降、橋本は「橋本自身が体験したこと」としてセクシュアリティについてのカミングアウト体験談を語り、山﨑はそれを続けて英訳する。しかし中盤、唐突に橋本が「ところで、この話というのは、実は僕の話ではなく、彼の話だったんですけど」と言い、続けて山﨑が「By the way, in fact this story is not mine but his story」と述べる。この瞬間、カミングアウトあるいは自伝的パフォーマンスにおいて自明の前提とされている語り手と語られる内容(の主体)の一致、そこで求められる真正性が空転し、宙吊りにされる。つまり橋本は、これまでの話を「彼(=山﨑)」のものだったと言い、同時に山﨑は、「これは彼(=橋本)の話」だと語っているのだ。今までのカミングアウトの体験談(それ自体が観客に対するカミングアウトとして機能していた)は、橋本のものなのか、山﨑のものなのか、あるいは誰でもない第三者の話を語って=騙っていたのか。山﨑はただの通訳ではなく、この空転のための仕掛けとして用意されており、直後の「ゲイじゃない人がゲイだって嘘をつくのは、ありなんですかね(Is it O. K. for straight to pretend to be gay?)」というセリフによっても、これまでの体験談が誰のものなのかますます曖昧になっていった。さらに出会い系アプリやハッテン場といった「欲望」を充足させるための場所についてのレクチャーである後半は、山﨑の英語を橋本が日本語に翻訳するかたちで発話の順番が逆転し、カミングアウトの主体が誰なのか決定することは不可能な状態へと陥ってしまう。だがそもそも、本作が「演劇」である以上、出演者や語られる言葉がホンモノかどうかは決定不可能なはずではないか。
このように本作は、一見すると単純に見えるが形式的にも工夫された、演劇そのものに対する問いかけを含んだ作品であり、それが大学の教室という本質的にレクチャーのための場所で上演されると、より一層刺激的に感じられた。一方で、本作の仕掛けが豊岡の観客にどこまで通じたのかは疑問が残った(特に山﨑の英語を単なる通訳として聞き流していたり、そもそも英語をよく解さない観客もいたように思われた)。ただその後に設けられた30分の質疑応答の時間は、作品と観客との間の隔たり、「わかる/らないもの」の境界線をつなぐものとして機能していたといえよう。
福井裕孝『インテリア』は、ヒトとモノの関係性を問題とした作品。本作では特に劇的な出来事が起きるわけではなく、というか筋と言えるような筋さえなく、ただ1人暮らしの男(金子仁司)と女(石田ミヲ)が生活する様子がそれぞれ交互に繰り返されるだけだ。出演者は白線で囲まれた空間の中で、日常動作(手や顔を洗う、洗濯物を干す・しまう等)をマイム的に再現したり、床に置かれた様々なモノ(電気ケトル、美顔スチーマー、観葉植物、一万円札、眼鏡ケースetc.)を使ったり、移動したりする。
実は本作の主役は、白線の枠内に置かれたこれらのモノたち(=インテリア)なのだ。観客には事前に「あなたの部屋の中にある“もの”を一つ会場までお持ち寄りください。あなたご自身で上演空間に自由に配置し、上演を共に体験していただきます」というメールが送られており、上演前に持ってきたモノを白線の内側の好きな場所に置くよう指示される。白線の内側は、実に多様なモノたちで埋め尽くされていった。それらを用いつつ、あるいは避けつつ、枠内で男と女が生活を再現していくのだが、それが交互に反復されるうちにモノたちが徐々にズレていき、生活の再現は齟齬をきたすようになる。不思議なことに、生活の再現がぎこちなくなっていくにつれて、床に置かれたモノたちが自律的に動き始めるように感じられた(もちろん動かすのは俳優たちなのだが)。出演者の行動が床に置かれたモノたちに規定されているという、この状況から浮かび上がってくるのは、我々が生きる日常もまた、過剰なほど溢れるモノたちに規定されているのではないか、という疑念だ。モノたちに囲まれ、従属し、その間を縫うようにして生きる我々の生とは一体何か。本作もまた、シンプルな外見の中に大きな問いを内包していた。
今年の個人的本命だったQ『弱法師』(市原佐都子劇作・演出)は、母親の人形遣いを務める予定だった川村美紀子の休演というトラブルの影響を一切感じさせないほどの成功を見せた。今年の世界演劇祭で初演された本作は、乙女文楽に着想を得て、原サチコの語りに西原鶴真の琵琶、一人遣いの人形を組み合わせた二幕構成の人形劇。同じく世界演劇祭で上演された『バッコスの信女―ホルスタインの雌』や、昨年豊岡で上演された『Madama Butterfly』などと同じく、今回も市原は「俊徳丸」伝説やそれを題材とする先行作を参照しつつも、同時に全く新しい『弱法師』を作りあげた。
本作で遣われる人形はフツウの文楽人形ではなく、交通誘導人形(父)、ラブドール(母、坊や)、マネキン人形(継母)などであり、それらは「俊徳丸/弱法師」を換骨奪胎した物語と複雑に絡み合いながら、本作の主題である人形/人間、モノ/ヒト、現実/演劇の境界線をラディカルに揺さぶり、問い直し、越境しようとする。通常文楽では、舞台上で遣われている人形は人間として認識されるし、遣い手は不可視の存在として受け入れられる。だが本作の登場人物はしばしば自らが人形であると語り、あるいは他の登場人物からも人形であると指摘される。これは、作中世界が人形によって成立している、というだけでなく、舞台上の存在も、ヒトによって遣われる人形=モノでしかないことを観客に強く意識させる効果を持つ。本作で用いられる人形の外見的特徴(クセの強さ)、さらに一人遣いの形式や、肌色の全身タイツを着たパフォーマーの存在もまた、観客をイリュージョンの中に没入させず、舞台上の人形をモノとして意識させる効果を有していた。このように本作の登場人物は、物語の中でも舞台上でも、人間であること、あるいは一人の人間としてみなされることを欲し、人間になろうとしつつも、「人形」というモノ、あるいは人間のニセモノという地位から逃れることができない。それは演劇が現実そのものとして認識されることを欲しつつも、同時に、誰もがそれを現実のニセモノとして認識しているからこそ可能であることとも重なる。この人間への欲望の不可能性、不可能な現実への夢は本作の最後の場面で乗り越えられた(ように思われる)のだが、これについては、また稿を改めて詳しく論じたい。
さらに豊岡演劇祭の国際性という観点から言えば、フランスの劇作家パスカル・ランベールが自作の戯曲を、長年共同作業を行なってきたフェスティバルディレクターの平田オリザと共同で演出した『KOTATSU』にも触れなければいけない。正月元旦、炬燵に集う大企業の一族(小市民的幸福)と、作中では直接描かれることがない、その企業が関わる海外の建設現場での事故(遠くの地獄)が対比され、本来繋がるはずのない両者を繋ぎ、正月の幸福を台無しにしてしまうSNSの脅威が主題として描かれる。全体を通して描かれるSNS観に若干の古臭さを感じずにはいられなかったが、出演者である青年団の俳優に当てて書かれただけあって、伝統芸能のような安心感で見ることができた。
以上、とりとめもなくいくつかの作品を挙げてきた。本稿で取り上げた6作品を見ても、その規模、形式、主題は大きく異なっており、実に多様な作品が集結していたことがわかる。紙面の都合で触れられなかった作品もほとんどが良作であり、今年の豊岡は非常に充実していた。「わかる/らないもの」を隔てる境界線を揺さぶり、問い直す場として演劇祭が機能しており、少なくとも筆者はその体験を、戸惑いつつ同時に楽しむことができた。一方でフリンジも含めて、今回観劇した作品の多くは東京やその他の都市でも観劇可能な、あるいはすでに上演された作品だったことには留意すべきだ。豊岡演劇祭が今後さらなる発展を遂げるためには、多くのアーティストと観客に場を開いていくことはもちろん、豊岡でしか見ることができない=豊岡だから見ることができる優れた作品を積極的にプログラムする必要があるだろう。

関根遼
1999年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科演劇映像学コース博士後期課程在学中。専門は現代演劇、日本演劇、舞台芸術とアーカイヴをめぐる様々な実践の研究・批評。劇評に「村川拓也『事件』:日常化する非日常を上演する」、「「/」を可視化する─y/n『Education(in your language)』」など。早稲田大学演劇博物館・河竹黙阿弥展(開催中)図録所収の「黙阿弥全作品解題」を共同で執筆。


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