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発癌メカニズムの謎 スリーパー・セルって知ってる?発癌物質については、未解明な点が多い!

 本日翻訳し紹介するのは The New YorkerDecember 18, 2023, issue に掲載の記事で、タイトルは、"All the Carcinogens We Cannot See"(発癌物質については未解明な点が多い)です。Siddhartha Mukherjee による記事です。


 Siddhartha Mukherjee は現役の医師のです。医療関連の記事をしばしば寄稿しています。スニペットは、”We routinely test for chemicals that cause mutations. What about the dark matter of carcinogens—substances that don’t create cancer cells but rouse them from their slumber?”(突然変異を引き起こす化学物質は日夜続けられている。しかし、発癌物質のダークマター、つまり癌細胞を生み出さないが癌細胞を眠りから目覚めさせる物質については未だ解明されていない点が多い?)となっていました。

 本日翻訳した記事の内容は癌研究に関するものでした。結論は、発癌物質については、未解明の点が多いということでした。どういうことかと言うと、そもそも発癌メカニズムは完全には解明できていないし、発癌物質については未確認のものが無数にあるようです。標準的な発癌メカニズムがあるわけですが、それでは説明できない事例が多いとのこと。

 さて、私がこの記事を読んで驚いたのは、癌の研究では不明な点が思っているより非常に多いということです。例えば、喫煙は肺癌を助長することが知られていますが、タバコで肺癌になった者の癌標本の 1 割には、タバコに含まれる化学物質の影響による変異が見られないのです。じゃあ、タバコが原因ではいのではないか?未解明の謎が多いようです・・・。ということで、発癌メカニズムが十分に解明されておらず、発癌物質についても既知のもの以外のものも無数にあるようですので、癌になるのは防ぎようが無いし、必ずしも治癒できるわけでもないのです。完全に癌になることを避けることは出来ませんが、既知のリスクは避けたいものです(発癌メカニズムが解明されていないのだから、既知のリスクとされているものに必ずしもリスクがあるわけではない気もするが・・・)。

 この記事を翻訳してみて思ったことがあります。医療関連の記事で堅い内容なのですが、医学雑誌の記事ではないからなのか、無駄な比喩や暗喩が多いです。日本人の私からすると、それ必要か?と思わなくもありません。この記事では、発癌物質を特定することを探偵の犯人探しに例えています。それで、コナン・ドイルの推理小説の「パスカヴィル家の犬」と「斑の紐」の内容が引用されています。私は、両方とも読んだことがあるし、テレビで映画を見たので理解できたのですが、理解できない人の方が多いのではないかと思います。まあ、今はサクッとググれば、それくらいはすぐ分かるので問題ないのですが。他の記事を訳している際にも、有名な曲や小説や映画が例えで出てくることがしばしばあります。逆に話が分かりにくくなることも少なくないし、そんな比喩調べなきゃ誰もわからんだろっとツッコミを入れたくなることもあります。ひょっとすると、アメリカで英語の文章を書く際には、こうした無駄な比喩を入れ込むのがマナーなのかもしれませんね。あるいは、流行っているとか?このあたりのことを知っておられる方がいましたら、お教えいただけますと助かります。

 では、以下に和訳全文を掲載します。詳細は和訳全文をご覧ください。

和訳全文掲載。ここをクリック。


Annals of Medicine

All the Carcinogens We Cannot See
発癌物質については未解明な点が多い

We routinely test for chemicals that cause mutations. What about the dark matter of carcinogens—substances that don’t create cancer cells but rouse them from their slumber?
突然変異を引き起こす化学物質は日夜続けられている。しかし、発癌物質のダークマター、つまり癌細胞を生み出さないが癌細胞を眠りから目覚めさせる物質については未だ解明されていない点が多い?

By Siddhartha Mukherjee December 11, 2023

1.

 1970 年代、カリフォルニア大学バークレー校( the University of California, Berkeley)の生化学者ブルース・エイムズ( Bruce Ames )は、安く簡単に化学物質に癌を引き起こす性質があるか否かを調べる方法を考案した。これまでに、癌発生のメカニズム自体は大まかではあるが明らかになっている。癌は遺伝子の突然変異、つまり細胞の DNA 配列の変化によって引き起こされる。配列の変化によって細胞分裂が制御不能になる。このような突然変異には、遺伝的なもの、ウイルスによって誘発されるもの、分裂中の細胞におけるランダムなコピーエラーによって生じるものなどがある。また、放射線、紫外線、ベンゼンなどの物理的、化学的要因によって生じるものもある。ある日、エイムズはポテトチップスのパッケージに印刷されている成分表示を読み、保存料として使われている化学物質が本当に安全なのか疑問に思った。

 しかし、発癌物質( carcinogen )であると特定するのは容易ではなかった。マウスに疑わしい化学物質を接触させて、発癌するか否かを調べる方法がある。毒物学者たちは何世代にもわたってそうしてきた。しかし、この方法には時間がかかりすぎるという難点がある。また、コストがかかりすぎるため、十分な規模で実施することは不可能である。ワイドラペル(襟の広い)のツイード・ジャケットと奇抜なネクタイの着用を好んだエイムズは、あるアイデアを思いついた。もし、ある化学物質が人間の細胞内の DNA の突然変異を引き起こすなら、細菌細胞内の DNA にも突然変異を引き起こす可能性が高いと推論した。幸いにもエイムズは、細菌の突然変異率を測定する方法を考案済みであった。数十年にわたる研究によって考案したもので、増殖が早く培養が容易なサルモネラ菌を使うものであった。数人の同僚と協力して、彼は化学物資に発癌性があるか否かを調べる測定法を確立し、その方法を概説した論文を発表した。「発癌物質( carcinogens )は突然変異原( mutagens )である」という大胆なタイトルが付いていた。この方法は、突然変異原を調べるためのエイムス試験( Ames test )として知られていて、現在でも癌を引き起こす可能性のある物質をスクリーニングするための標準的な技術である。

 エイムズは、この方法を開発した時点で、発癌性があるか否かを調べる完璧な方法ではないことを認識していた。他の研究者もそれは同じだった。たとえば、ジエチルスチルベストロール( diethylstilbestrol:略号 DES )等のエストロゲン様作用を有する非ステロイド性の化学物質への曝露が、膣癌、子宮頸癌、乳癌のリスクを高めることが多くの疫学者によって明らかにされていて、毒物学者たちもマウスやラットを使った実験で同様の結果を得ていたが、エイムズ試験では DES が突然変異原であることは示されなかった。DES の発癌メカニズムはまだ解明されていないが、おそらくホルモン感受性細胞( hormone-responsive cells )の増殖を促したり、癌関連遺伝子の発現を変化させたりすることが関係していると推測される。また、エイムズ試験では認識されなかったが、後に発癌物質であることが判明したものは他にもある。シクロスポリン( cyclosporine )など一部の免疫抑制剤( immune suppressor )である。癌細胞の特徴の 1 つは、免疫系( immune system )による検出を回避することにある。シクロスポリンなどの免疫抑制剤は、DNA に突然変異を起こさないにもかかわらず、癌を促進する化学物質として認識されるようになった。

 しかし、発癌メカニズムには謎の部分が多く、疫学者や毒物学者を困惑させ続けている。今年( 2023 年)の秋の初め、私はカリフォルニア大学サンフランシスコ校( the University of California, San Francisco )の癌遺伝学者アラン・バルメイン( Allan Balmain )とこの問題について話し合った。バルメインは 70 代で、スコットランドのウィック( Wick )生まれで、スコットランド訛りが抜けていない。彼はカーディガンを着ていた。穴が空いていたが、瞳の色と同じ鮮やかな青色でとても似合っていた。「発癌物質を発見し分類するためのほぼすべての標準的なモデルは、発癌物質が癌細胞に与える影響に依存している。」と彼は私に言った。バルメインは、疫学者や毒物学者があまりにも狭い視野で物事を考えすぎていると考えている。彼は癌疫学上の未解決な案件をいくつか列挙して教えてくれた。例えば、アメリカの若い男女における大腸癌( colorectal cancer )の発生率は、1995 年以降でほぼ倍増している。アメリカ国外に目を向けると、一部の地域では喫煙経験のない若者の肺癌( lung-cancer )罹患率が劇的に上昇している。その原因について多くの研究者がさまざまな説を唱えているが、確かなことは分かっていないという。どうやら癌を誘発する因子の中には、私たちが認識していないものがたくさんあるようである。発癌物質の宇宙には、ダークマターが潜んでいる。

 私たちは、ミッションベイ( Mission Bay )のサードストリート( Third Street )を見下ろす風通しの良いガラス張りのアトリウム内にあるバルメインの 研究室へと続く狭い通路に立っていた。数ブロック先には、梯子のような 4 本の脚と突き出した梁を持つ何トンもの鋼鉄の巨大造作物が見えた。芝生の丘の上にそびえ立つのはマーク・ディ・スヴェロ( Mark di Suvero:抽象表現主義の彫刻家)製作の彫刻であった。見事な風景であった。彫刻とその背景が調和していることで、芸術性が高まっていた。芝生と丘がなければ、この彫刻は大学の近くに置かれた建設用クレーンにしか見えなかったかもしれない。バルメインによれば、癌についても同じことが言えるという。癌細胞は正常な細胞に囲まれて成長し、正常な組織の中に埋もれている。癌だけを見るのではなく、その回り、もっと大きな生態系、全体を俯瞰して見る必要がある。

 彼は私を研究室に案内してくれた。そこは整理整頓された清潔な空間で、まるで家政婦が掃除をして帰った後のようだった。彼の研究チームが 2020 年に行った研究では、ヒトに対して発癌性がある物質として知られている、あるいは疑われている 20 種類の化学物質をマウスに曝露させた。いくつも腫瘍ができた。研究チームはその DNA を分析した。「それらは既知の強力な発癌物質であった。」とバルメインは私に言った。「成長した腫瘍には突然変異が広がっていると予想された」。そのように予想した理由は、DNA を破壊する化学物質には、癌に関連する特定の遺伝子だけでなくゲノム全体に見られる特徴的な突然変異誘発効果があるからである。しかし、17 種類の化学物質については、突然変異との間に明確な関連性は見られなかった。「それは首をかしげたくなる結果だった。」とバルメインは言った。「それで、化学物質が癌を取り囲む細胞を変えていると推測したのである」。

 1980 年代、バルメインが癌の研究を始めて間もなくの頃、多くの癌研究者は、発癌現象は段階的に起こるものと考え、マルチヒットモデル( 1 つの細胞に化学物質が複数回ヒットしてはじめて発癌すると仮定したモデル)は正しいと信じていた。つまり、当時は、正常な細胞が 1 つの遺伝子変異を獲得し、さらに別の変異を獲得し、同様に続けて何度も変異を獲得し、遺伝子 1 つ 1 つが悪性細胞へと移行していくと考えられていたのである。初めに突然変異は細胞分裂を促進する遺伝子を過剰に活性化し、次に突然変異は異常が検出された時に細胞死を引き起こす遺伝子を阻害し、さらに次に突然変異は DNA 修復に特化した遺伝子を妨害する。当時はそう考えられていたのである。「一部の癌について、それは完全に当てはまることであった。だから、当時はそれが正しいと考えられていた。」とバルメインは私に言った。しかし、1940 年代のマウスを使った実験等によって、そうした軌道をたどらない発癌現象が存在していることも分かっていた。「いくつかの実験で、標準的な発癌モデルに当てはまらないものが示されていた。」とバルメインは言った。

 その実験は、オックスフォード大学のアイザック・ベレンブルム( Isaac Berenblum )とフィリップ・シュビック( Philippe Shubik )という 2 人の研究者によって行われたものである。たくさんのマウスを集め、それぞれの背中の毛の一部を切り取って地肌が出た部分にコールタールに含まれる癌関連化学物質である DMBA を塗った。しかし、悪性病変が発生したのは 38 匹中 1 匹だけであった。そこで 2 人が同じ場所にクロトン油( croton oil )を塗ったところ、結果は驚くほど違うものとなった(クロトン油は、中国や東南アジアに産するハズ (巴豆)の種子から抽出される水ぶくれのような炎症を引き起こす液体で、催吐剤や皮膚の角質除去剤として使用される)。なんと、悪性腫瘍が半数以上のマウスに出現したのである。重要だったのは順番であった。最初にクロトン油で次にタールを塗るというように、塗る順番を逆にすると、悪性腫瘍は発生しなかった。

 あたかも既知の発癌物質である DMBA が細胞を刺激し、クロトン油が細胞を悪性腫瘍に向かって一気に加速させたかのようであった。ベレンブルムとシュビックは、クロトン油を促進作用のある物質、促進剤と見なした。炎症反応を通じて作用する新種の発癌物質であると見なしたのである。炎症が癌につながるという考えは新しいものではなかった。1870 年代にウィーンの外科医アレクサンダー・フォン・ヴィニヴァーター( Alexander von Winiwarter )は、癌は傷の不完全な治癒の結果であると主張していた。しかし、どのような意味でクロトン油が発癌物質と定義されるのであろうか?クロトン油だけを塗ったマウスには腫瘍はできなかった。細菌を使った標準的なエイムズ試験でも、ミバエの細胞を使ったより感度の高いエイムズ試験でもクロトン油に発癌性は見られなかった。動物の細胞を使った検査でも発癌性は見られなかった。要するに、クロトン油が DNA の突然変異を引き起こすという証拠は全く存在していなかった。

 さて、クロトン油はどのように作用したのだろうか。なぜコールタールに含まれる DMBA が塗布された後に塗布した場合のみ悪影響を及ぼすのか。クロトン油は炎症を引き起こすが、炎症を引き起こす化学物質は他にもたくさんある。ブドウ球菌に皮膚が感染すると強力な炎症が起こる。しかし、皮膚癌が引き起こされることはない。この謎は何十年もの間、癌研究者を当惑させてきた。このような発癌メカニズムは偶然認識されたもので興味深いものである。これまであまり認識されていなかったわけだが、癌の主要な原因である可能性もある。もしそうであるなら、どのような化学物質が癌を発症させて被害者を死に至らしめるのか?

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2.

 科学的調査は、探偵小説と同様、認識論(同じ出来事を経験しても感じ方は人それぞれ違うという考え方)的なシステムで進められる。つまり、見えている事実からいかにして推論して全体像を解き明かすかが腕の見せ所となる。殺人者を特定するには、まず殺害方法を特定する必要がある。しかし、それは時として容易ではないことがあり、想像しているよりも難解であることもある。殺人に使われた凶器を見つけた後、複数に絡み合うさまざまな要因を解き明かさなければならないこともある。アーサー・コナン・ドイル( Arthur Conan Doyle )の ” The Adventure of the Speckled Band(邦題:斑の紐 )” では、シャーロック・ホームズ( Sherlock Holmes )はドアをすり抜けると推測される謎の殺人者を警戒した。彼は部屋の中の椅子に座って、寝ずに排気口の近くに注意を払っていた。毒蛇を使った殺人であることが判明した。毒蛇はロープを伝って立坑を登り、排気口を伝い被害者を噛んだのである。しかし、毒蛇が唯一の原因ではない。毒蛇は必要条件ではあるが、十分条件ではないのである。犯人は毒蛇が被害者を攻撃するようにするために、それを狂乱させ、興奮させなければならなかった。”The Hound of the Baskervilles(邦題:バスカヴィル家の犬 )”では、猟犬は人を殺すために襲いはしなかった。被害者を死ぬほど怖がらせただけであった。この猟犬が死の一因となった理由は、蓄光物質が塗られていたことにある。また、特殊な背景も理由であった。それは、被害者は自分の祖先が超自然的な怪物に取り憑かれていたという伝説に怯えていたことである。コナン・ドイルが伏線を張ることを好んだ理由は、ミステリーの複雑さを増幅するためであった。

 何十年もの間、化学性刺激物( chemical irritant )は発癌物質研究者に構造的に同様の問題を与えてきた。化学性刺激物は、他の化学物質と組み合わせた場合のみ機能する。沼地に潜むパスカヴィル家の猟犬は、被害者に過去の因縁がなければ、何も引き起こさなかった。それと同様に、化学性刺激物が刺激を引き起こすか否かは、過去の曝露歴に依存している可能性がある(クロトン油は、その前に DMBA に曝露された場合にのみ、悪性病変を発生させる)。そして、コナン・ドイルの推理小説に登場する毒蛇や猟犬と同様に、化学性刺激物は単独では機能せず複数の要因に依存している可能性がある。刺激物は腫瘍の発生を促進するが、それはある種の開始剤が使われた後のみである。であるから、特定の物質の後か同時に使われた場合にのみ作用する物質に発癌性が有るか否かを調べる方法を確立しなければならない。

 ベレンブルムとシュビックが実験結果を発表してから間もなく、アーヴィング・セリコフ( Irving Selikoff )という名の医師がニュージャージー州パターソン( Paterson )に診療所を開設した。労働者階級の多い都市である。診療所は、小ぎれいな机と椅子が数脚置かれていてスッキリしてモダンな感じであった。周辺では戦後に多くの工場が閉鎖され始めたが、アスベスト断熱材を生産していたパターソンズ・ユニオン・アスベスト・アンド・ラバー・カンパニー( Paterson’s Union Asbestos and Rubber Company )の工場はまだ稼働していた。その工場で働く多くの労働者が彼の診療所にやって来た。

 セリコフは特に肺疾患に関心を持っていた。1950 年代初頭に、彼は抗生物質イソニアジド( isoniazid )を使って結核を治療する方法を学んだ(なお、この功績により、彼と数人の同僚はラスカー賞( Lasker Award )を受賞している)。すぐに、彼はアスベストにさらされた患者の肺に問題があることに気づいた。瘢痕化した炎症病変にカルシウムの沈着が認められたのである。「多くの労働者が、毎日、衣類や頭髪や手荷物などにアスベストの白っぽい繊維が付着した状態で帰宅していた。」と、タイムズ紙( the Times )は後に報じた。「耐火製品のサンプルを子供たちのおもちゃとして持ち帰ることもあった」。

 それから数年で、事態はさらに不気味な方向へ進んだ。セリコフは、イギリスとドイツで行われた研究の結果を目にした後、多くの断熱材工場の労働者が中皮腫( mesothelioma )で死亡していると指摘した。中皮腫は、肺の外側や胸壁の内側を覆う膜(胸膜)に広がる致死率の高い比較的稀な癌である。X 線検査をすると、肺の背面と底部に癌の白い影がはっきりと浮かび上がる。中皮腫の悪性腫瘍はしばしば脊椎や胸壁に浸潤する。そうなると、苦しみながら死ぬこととなる。1960 年代初頭までに、セリコフは断熱材工場で長年働いていた 632 人の男性に関するデータを収集していた。数人については、長期間のデータを収集できていた。これらの男性の中でセリコフが肺癌や中皮腫と診断した者は 45 人であった。予想の 7 倍であった。胃癌、結腸癌、直腸癌の発生率は予想の 3 倍であった。

 しかし、この工場の労働者の癌の主要因がアスベストであると特定されても、癌研究者たちはアスベストがどのようにして癌を引き起こすかを解明するのに苦労していた。それは、現在でも解明されていない。1977 年に発表されたある論文では、研究チームはさまざまな細菌株をアスベスト繊維に曝露させた。しかし、アスベスト繊維が突然変異と関連していることは確認できなかった。ある毒物学者による研究では、研究チームはアスベストに加えて他のいくつかの化学物質も曝露させた。それで、最終的には細菌の変異体が出現した。別の毒物学者の研究では、アスベストに曝露させたことによって動物の細胞に染色体異常を出現させることに成功した。さらに別の研究では、アスベストを注射されたマウスは癌を発症したが、アスベストのヒトに対する発癌物質としての効力を考慮すると、その潜伏期間は不可解に長かったことが判明した。そして、多くの村民がアスベストに曝露されたトルコの村の研究では、全く逆の結果が出た。高感度の検査を実施したものの DNA 損傷の増加は見られなかったのだ。アスベストへの曝露が癌のリスクを高めることは明らかであった。しかし、どのようなメカニズムであるかは明らかになっていない。クロトン油と同様に、アスベストは促進剤として作用するのかもしれない。最初に突然変異が引き起こされ、次に刺激剤を追加すると、細胞が腫瘍になるのが促進された。

 煙や煤等が人間の身体に悪影響を及ぼすことは今では常識である。そのことを初めて認識した医師は、たまたま気づいただけであった。癌が突然変異した遺伝子の異常によるものとして理解されるずっと前、遺伝子( gene )や DNA という用語が医学用語として使われるずっと前のことであるが、パーシバル・ポット( Percivall Pott )というロンドンの医師が、煙突清掃に従事していた者たちに発見された癌性の陰嚢潰瘍について次のように書いていた。「彼らは幼い頃から狭い煙突の中に押し込められ、時には熱風に突き上げられ、打撲傷を負い、火傷を負い、煤(すす)を吸い込み、息の詰まる思いをしていた」。けれども、当初、彼らの症状は性病によるものと考えられていた(貧しい男性の性器に異常が見られて、その原因は乱交とされたわけである。どういう風に考えると、そういう推定ができるのか?はなはだ疑問ではある)。ポットは 1775 年の論文で、煙突清掃人の陰嚢に出来た癌を”煤いぼ( soot-wart )”もしくは”煙突掃除人癌”と呼び、それは煤の粒子への慢性的な曝露によって引き起こされた可能性が高いと推測した。それは陰嚢の扁平上皮に出現した。

 癌が煤によって引き起こされるというポットの発見に着想を得て、タバコのタールと癌の関連性を疑う者も少なからずいる。そう考えるのはあながち不自然ではない。しかし、標準的なエイムズ試験でタバコのタールや煙を検査しても、タバコが癌を引き起こすと結論付けることは不可能であった。確かにタバコの煙には 60 以上の突然変異原が含まれていることが確認されている。発癌物質も含まれている。しかし、2023 年に行われた研究では、ヒトの肺癌でタバコの煙によって引き起こされた DNA の損傷の特徴的な痕跡を調べたのだが、予想外の結果が出た。喫煙者から採取された癌標本のうち、92% にはタバコの煙によって誘発された遺伝子損傷の明らかな痕跡があった。煙に含まれる DNA 損傷物質に関連する変異が見られたのである。しかし、約 8 %にはこの種の損傷が見られなかった。これらの癌が発生する別のメカニズムが存在する可能性を示唆していた。

 ほぼ 10 人に 1 人の割合で、喫煙者であっても肺癌発症の明確なメカニズムを特定できないという事実は、私たちが大量の発癌物質を見逃している可能性を示唆している。マルチヒットモデル( 1 つの細胞に化学物質が複数回ヒットしてはじめて発癌すると仮定したモデル) は、細胞内で何が起こっているかを示すものであるが、バルメインは細胞が惑星間を漂う孤立した宇宙船のようなものではないことも知っていた。だから、彼は、複数回のヒットの内の一部は癌細胞ではなく、癌細胞が存在する組織環境に関係しているのではないかと疑うようになったのである。毒蛇は有毒であるが、攻撃を誘発するために鞭で打たなければならない。猟犬は畜光塗料を塗られ、沼地を歩き回らなければならないのである。

 「待って、待って!」と、私が立ち上がって帰ろうとした時、バルメインは言った。「見てもらいたいものが他にもある」。彼はコンピューター上の画像を見せてくれた。数年前、彼の研究室の博士号を取得した 1 人の研究員が、遺伝子改変されたマウスを数匹入手していた。マウスは、化学的トリガーが与えられると、強力な発癌遺伝子が皮膚細胞内で活性化されるように遺伝子改変されていた。しかし、化学的トリガーを投与したのだが、ほとんど何も起こらなかった。「遺伝子改変したマウスを使った実験では、こうしたことがしばしば起こる。」と彼は言った。「ヒトの癌に関連する遺伝子を刺激し、腫瘍ができるまで何カ月も待った。癌遺伝子が活性化されると何が起こるかを推測するためだった。しかし、大したことは起こらなかった。変異細胞は存在していたが、腫瘍は無かった」。

 次に、彼の研究室の研究チームは、マウスの皮膚を線状に切開した。それだけでは腫瘍は出来なかった。その後、全くの偶然なのか研究チームの奮闘が実ったのかは分からないが、奇妙な結果を得ることができた。研究チームは切開部位に 3 本の医療用ステープル( surgical staples )を打ち込んでいた(実験用マウスの苦痛を最小限に抑えるため、この実験は獣医師によって注意深く監視されていた)。治りが悪い傷、つまり慢性炎症が、3 カ所の周囲に形成されていた。そして、その 3 カ所に腫瘍が出来ていたのである。

 バルメインはペンを使ってコンピューター画面上の数個の腫瘍を指した。「 1 つ、2 つ、3 つ」と彼は言った。 「ベレンブルムの実験と全く同じである。私たちは細胞を悪性化させようとした。しかし、細胞は休眠状態のままだった」。慢性的な刺激によって正常な状態から逸脱した後にのみ腫瘍が出来た。「変異細胞はそこにただ横たわっているだけだった。」と彼は言った。「それを目覚めさせたのは、炎症である」。

 私はバルメインの研究室の窓から外を覗いてみた。時刻は午後 6 時 30 分で、道路に車が湧き出し始めていた。多くの車がひしめき合ってテトリスブロック( Tetris blocks:ブロック崩しの一種のテレビゲーム )のように隙間を埋めようとしていた。数通り離れたところにある巨大なガラス張りウーバー( Uber )本社の建物もまもなく無人になるだろう。しばらくしたら、外の空気が排気ガス臭くなるだろう。

 「しかし、大気汚染などの環境破壊が刺激剤となる可能性はないのか?」と私は尋ねた。明白なことであるが、医療用ステープルは突然変異誘発物質ではない。だが、腫瘍形成を促進した。同じロジックが、刺激性化学物質にもあてはまるのかもしれない。刺激性化学物質は、私たちが普段から食べているものの中に含まれている。また、子供たちもそれに曝露しているし、あるいは大気中に存在していて誰もが無意識の内に吸い込んでいる可能性もある。おそらく、それらはエイムズ試験や標準的な毒物学検査では発癌物質として特定できないだろう。私たちがまだ適切な研究をできていないために、発見できていない事実は少なくないのかもしれない。発癌を誘発したり促進するメカニズムについては、未解明な点が多いと推測される。

 「ロンドンのチャーリー・スワントン( Charlie Swanton ) が詳しいので、彼に話を聞いてみるべきだと思う。」とバルメインは言った。

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3.

 チャールズ・スワントンの研究室は、キングス・クロス( King’s Cross )近くのフランシス・クリック研究所( Francis Crick Institute )内にある。サンフランシスコにあるバルメインの研究センターと同様、この建物には巨大なアトリウムがあり、ガラスの壁、いくつものエレベーターと連絡通路が設けられている。2 つの癌研究施設は、まるでクローンのようであった。

 偶然にも、スワントンが研究しているのはクローンであった。癌生物学においてクローン( clone )とは、遺伝的に同一である個体や細胞(の集合)を指し、体細胞クローンは無性生殖により発生する。細胞の大家族のようなものである。曾祖父、その子供たち(祖父母等)、その子供たち(父母等)、その子供たち(自分や兄弟等)からなる大家族を想像してもらいたい。それらの中には、ランダムに起こる細胞分裂によって独自の突然変異を獲得した個体があることもある。それらはサブクローン( subclone )と呼ばれる。しかし、その集団は、クローン的に関連している( clonally related )。つまり、それらすべてを結び付ける遺伝系統( genetic lineage )が存在している。

 針金のように細いが、スワントンはアスリートらしい身体をしている。余分なものをすべて取り除いたかのようである。頭髪も無い。しかし、筋骨隆々としていて屈強そうである。過去 10 年間にわたって行われた彼の独創的な研究は、腫瘍が成長する際のヒトの癌細胞のクローンの状況に注目したものであった。彼の説明によれば、癌はクローン間の競合( clonal competition )に影響して発癌過程を開始するという。癌が進行する際に、どのクローンが優勢になるのか? 彼の研究は、癌の進行に関する詳細を明らかにした。1 センチの腫瘍には、約 1 億個の細胞が含まれている。「これらの 1 億個の細胞は、すべて 1 つの細胞の子孫である。つまり、それらはクローン的に関連している。」と、スワントンは説明した。「しかし、腫瘍が進行する時点では、既に無数のさまざまなクローンが含まれている」。

 これが癌のゾッとするような二重性である。個々の癌細胞は単一の細胞から発生したものであるが、それぞれの癌細胞には時間と空間の中で進化する数千個のクローンが含まれている。癌を治療または治癒するには、この信じられないほどの遺伝的多様性に対処する必要がある。それは、クローンとの戦いである。そして臨床現場では、敢然と戦いが続けられている。抗癌療法が施される。しかし、それに対する耐性を与える突然変異が生じたクローンが増殖する。それが、転移( metastases )を促進する。「常に全てのクローンに先回りして対処することは、不可能である。」とスワントンは言った。また、重要なのはそもそも腫瘍の形成を防ぐ努力であると強調した。

 2019 年 6 月、スワントンは癌のクローン進化( clonal evolution )について講演するため韓国に飛んだ。時差ぼけで疲れきっていて、少々眠かったものの彼は講演を無事に終えた。それから、懇親会に参加した。それはルーチンのようなもので、とりあえず出席して、軽くおしゃべりして、ワインを一杯飲んで、軽く何か食べたら、部屋に戻って寝るつもりだった。

 1 人の若い台湾の医師が彼に話しかけてきた。彼はスワントンが肺癌の突然変異について話すのを注意深く聞いていた。彼は、スワントンに 1 枚の地図を見せた。地球全体の微粒子による大気汚染状況が示されていた。次にもう 1 枚の地図を見せた。非喫煙者の肺癌の発生率が示されていた。「少し目が覚めたような気がした。」とスワントンは言った。顕著な相関関係が見られるエリアがあった。「中国南部、台湾、香港の南部と北部では、この 2 つの現象が重なっているように見えた」。

 それは謎であった。これまでのところ、大気汚染に顕著な変異原性があることは示されていない。浮遊微小粒子状物質( tiny airborne particulate matter )は、そのサイズ( 2.5 マイクロメートル以下。2.5 マイクロメートルは人間の髪の毛の幅の約 30 分の 1)から PM2.5 とも呼ばれる。それは、肺の細い気道に入り込む。しかし、この物質は DNA に検出可能なほどの損傷を与えるわけではない。ひょっとすると、PM2.5 は潜在的な突然変異原であるかもしれないが、変異を引き起こすほど十分な濃度ではないのかもしれない。スワントンは、大気汚染と非喫煙者の肺癌との相関関係の根底にあるものは何なのか疑問に思った。

 ロンドンに戻ったスワントンは、この件に関する調査・分析を 3 人の研究者に任せた。ウィリアム・ヒル( William Hill )とエミリア・リム( Emilia Lim )とクレア・ウィーデン( Clare Weeden )である。ヒルはランニング愛好家のウェールズ人であった。リムは陽気なカナダ人であった。彼女のシンガポール人の祖母は一度も喫煙したことがなかったが、肺癌で亡くなっていた。ウィーデンは探偵小説が大好きなオーストラリア人であった。喫煙経験が無い人に肺癌が発生する場合、悪性細胞の EGFR 遺伝子に変異が見られることがしばしばある(訳者注:EGFR 遺伝子とは、必要に応じて上皮細胞の増殖を促す上皮成長因子受容体タンパク質をコードする遺伝子)。リムは、疫学者の研究チームと協力し、英国、韓国、台湾の各種データを使用して、大気汚染と EGFR 遺伝子に変異がある肺癌との関連性を調査した。彼女は、これら 3 カ国のいずれにおいても、大気汚染レベルが高いほど、EGFR 遺伝子に変異がある肺癌の発生率が高いことを発見した。UK バイオバンク( the U.K. Biobank )は約 50 万人の被験者の健康状態を追跡している(バイオバンクとは、血液や組織などの試料(検体)とそれに付随する診療情報などを保管し、医学研究に活用する仕組みのことである。UK バイオバンクは、イギリスで長期にわたって大規模な研究を続けている)。UK バイオバンクが蓄積してきたデータが、追加データを生成し、大気汚染と非喫煙者の肺癌との関連性を確認するのに役立った。

 曇った日の朝、私はフランシス・クリック研究所でヒルとウィーデンに会った。リムがいなかったのは、カナダに新しい研究施設を設立したからである。時刻は午前 11 時過ぎであった。研究所は活気に満ちていた。ヒルは私を研究室のベンチまで連れて行ってくれた。そこには、いくつもの箱が不安定に積み上げられていた。それぞれの箱には、スライスした組織が入った数十枚のスライドガラスが入っていた。それは、映画” Howards End (邦題:ハワーズ・エンド)”で本棚が哀れなレナード・バスト( Leonard Bast )に倒れた場面を彷彿とさせた。

 ヒルは引き出しに手を伸ばし、石炭のように黒いスラッジが詰まった小瓶を取り出した。「これは粉塵( dust )と煤( soot )の浮遊粒子の溶液である。」と彼は説明した。「それは大気汚染を水に溶かしたようなものである」。

 私は、小瓶が振られ、粒子が上昇したり沈降したりするのを観察した。それは、まるで私のニューヨークの部屋の窓枠に溜まった汚れを集めてスノーグローブ( snow globe )を作ったかのようだった。(訳者注:スノーグローブとは、球形やドーム形の透明な容器の中を水やグリセリンなどの透明な液体で満たし、人形・建物などのミニチュアと、雪に見立てたもの等を入れ、動かすことで雪が降っている風景をつくる物。日本ではスノードームとも言う)

 「気をつけてください。」とヒルは言った。「これはアメリカ国立標準技術研究所( the National Institute of Standards and Technology )が売っているもので、この液体には大気に汚染された都市から収集した規定の組成の粒子が含まれている。1 ボトル当たり約1,500ポンドの費用がかかっている。恐ろしいほど高価な煤である」。

 ヒル、リム、ウィーデンの 3 人は、化学的トリガーによって作動する変異型 EGFR 遺伝子を持つように遺伝子操作されたマウスを使った実験を開始していた。3 人がマウスの肺細胞内の癌関連遺伝子を活性化したところ、マウスにはまばらの腫瘍が発生した。それは、悪性腫瘍になる可能性が少なからずあるものであった。「次に、もっと難度の高い実験を進めた。」とヒルは言った。3 人は、多くのマウスの肺に大気汚染を溶かした薄黒い液体を注入した。マウスの群ごとに注入する用量を変えた。10 週間後、マウスを検査したところ、驚くべきデータが得られた。大気汚染の液体の用量が増加するにつれて、肺腫瘍が発生する頻度も増加した。最高用量 (つまり、注入された浮遊粒子が最も多い) の群では、肺腫瘍の数がほぼ 10 倍増加した。

 どういうメカニズムだったのか?ヒル、リム、ウィーデンの 3 人は遺伝子配列解明技術( gene sequencing )を使用して、何もしなかったマウスに発生した腫瘍と PM2.5 を注入したマウスの腫瘍を比較した。いずれの腫瘍でも、意図的に活性化された EGFR 遺伝子の変異が確認された。また、いずれにおいても、予想通りではあるが、自然発生的に生じた追加の変異がいくつか確認された。

 しかし、彼らが解明できなかったこともあった。解明できなかったことが重要であるのは明らかだった。「比較対象となる何もしなかったマウスの突然変異数と、PM2.5 を注入したマウスの突然変異数との間には有意な差は無かった。」とヒルは言った。PM2.5 を大量に注入されたマウスの腫瘍数が 10 倍に増加した原因が何であれ、癌細胞内に新たな変異を生み出したわけではない。ヒルたちは、注入した大気汚染物質は癌細胞の外側や周辺に影響を及ぼしたと推測した。「そこで私たちはマウスの組織を分析することにした。腫瘍を切り出し、それをスライス状にして顕微鏡で観察した。」とヒルは言った。大気汚染物質を注入されたマウスの肺は炎症細胞で満たされていることが判明した。

 ヒルは私を机の上の顕微鏡の前まで連れて行った。この施設には強力な顕微鏡が数十台あったが、それは中学校の理科室にあるような平凡なものであった。私はレンズを通してマウスの肺の非常に薄い切片を観察した。「これは、大気汚染物質を最も多く注入したマウスの内の 1 匹から採ったものである。」とヒルは私に言った。スライドガラスの中央には、いびつな形の悪性細胞が詰まった円盤状の肺腫瘍があった。しかし、その腫瘍は沸き立つ炎症の海の上を漂う筏のようだった。ヒルたちの分析により、炎症細胞の詳細が明らかにされた。彼らは、特定の種類のマクロファージ( macrophage )を発見していた。マクロファージは、直径 15 ~ 20μm の比較的大きな細胞で、全身の組織に広く分布しており、自然免疫(生まれつき持っている防御機構)において重要な役割を担っている。マクロは「大量に」、ファージは「食べる」という意味で、異質粒子( foreign particles )を大量に食べることからそう名付けられたのである。特定のマクロファージが、強力な炎症シグナル( inflammatory signal )であるインターロイキン -1β ( interleukin-1 beta:略号 IL-1β )
を排出することで免疫反応を活性化させることが明らかにされた。インターロイキン -1β が抗体でブロックされると、大気汚染物資への曝露の影響は減弱された。そして、ヒルとリムとウィーデンが免疫不全のマウスを使って実験を再実行したところ、大気汚染物質の影響は消失した。特定のマクロファージとそれが出す炎症シグナルが、何らかの形で腫瘍の発生を促進していたのである。

 「しかし、逆に謎は深まるばかりであった。」とウィーデンは言った。私たちは 2 階の研究室から 1 階のロビーに置かれたソファに移動した。ウィーデンは、そこでベビーカーの中で眠っている生後 4 カ月の娘を見守ることができた。娘は、クラッキーというアヒルのキャラクターのぬいぐるみと一緒に眠っていた。赤ちゃんが目を覚まさないように、私たちは静かに話した。「彼女が動くと、クラッキーは鳴き声をあげる。そしたら娘は目を覚ます。」とウィーデンは言った。「彼女が目覚めたら、すべては終わってしまう」。

 ヒルとリムとウィーデンを当惑させたのは、肺癌の疫学的な側面であった。もし PM2.5 が突然変異原ではなく、単に元々存在していた変異細胞の増殖を覚醒させただけだとしたら、その変異細胞はどこから来たものなのか? ウィーデンは身振りで眠っている子供の真似をしながら、静かに話し続けた。声をひそめて話し合っていたので、知らない者が見たら謀議を図っているように見えたかもしれない。私たちは古い旧来の理論を追い落とさなければならなかった。「なんか不思議な感じがするわ?」と彼女は言った。「ほぼ 4 年間、私たちは遺伝学の研究室に部外者として加わって、他の皆が遺伝子配列を解読してクローンを探している間も汚染されたスラッジの研究に取り組んできた。そして今、状況が大きく変わってしまった。私たちはクローンを探している。部外者のような立場だった私たちが遺伝学の王道中の王道に戻って、突然変異体のクローンを探すことになった」。エレベーターが少し大きな音を出した。ありがたいことに、赤ちゃんは眠り続けていた。

 元々あった変異細胞が PM2.5 に曝露される前から存在していたなら、稀なクローンを追跡するために数十年かけて開発された遺伝子分析手法を使ってそれらの細胞を見つけられたはずである。そこでヒルらの研究チームは、多数の被験者から採取した正常な肺組織の一部を検査した。最先端のディープシークエンシング法( deep sequencing method )を採用した。それは、ゲノム領域を何回も、時には何百回、何千回もシーケンス( DNA 配列解読)する手法である。高い精度を実現するために、何千もの DNA 鎖を何千回も分析し解析した。EGFR 遺伝子が変異した細胞は、かなり少数であるが発見された。研究チームは、EGFR 遺伝子が変異した細胞の発生率はおよそ 50 万個に 1 個であると計算した。発生するのは極めて稀なように思えるが、決してそんなことはない。肺細胞の数が数兆個にも達する可能性があることを考慮しなければならない。EGFR 遺伝子が変異した細胞は、適切な環境が整えば癌化する性質がある。

 ヒルとリムとウィーデンは、組織内で休眠状態にある潜在的な癌細胞を発見した唯一の研究者ではない。2015 年、ある研究チームが日常的に紫外線にさらされる皮膚領域である瞼の細胞を研究していた。この研究で使われた組織は、”まぶたリフト手術( eyelid lift surgery:まぶたの垂れ下がりや腫れに対処し若々しく見せる手術)”を受けた患者から採取したものであった。調べた細胞のおよそ 5 分の 1 から 3 分の 1 が皮膚癌を引き起こす変異を有しており、これらの変異のいくつかを有するクローンが増殖しており、正の選択( positive selection:適度に自己と反応できるような T 細胞を選ぶ過程 )を示唆していた。しかし、組織を採取された者の中には明らかに皮膚癌を患っている者は 1 人もいなかった。この研究は、健康な人が潜在的に癌性のクローンを保有している可能性があることを示唆していた。

 「それが答えである。」と、後で話した時にスワントンは言った。いささか激しい口調だった。「最も単純な説明は、喫煙しない者も喫煙する者も、元々肺に変異細胞を持っているということである。ただし、頻度としては非常に稀である。大気汚染によって引き起こされる癌の場合、PM2.5 (微小粒子状物質)が免疫細胞を活性化して炎症環境を作り出す」。そして、変異細胞は、煤によって炎症が引き起こされた辺りを住処にしようとする。

 スワントンのモデルは、発癌の標準モデルとは一線を画している。このモデルでは、腫瘍は突然変異によって突然変異を進化させることはない(ただし、腫瘍が成長するにつれて、さらなる突然変異が蓄積する可能性はある)。変異体のクローンは元から存在しており、潜伏細胞( sleeper cells:スリーパーセルと称されることもある)の状態で活性化されるのを待っているのである。

 「では、なぜ私たちは癌に侵されていないのか?」私はバルメインに聞いた説明を思い出しながらスワントンに尋ねた。私は数カ月前に小さな手術を受けたのだが、外科医は私の皮膚に医療用ステープルを 9 本残した。なぜ 9 個の腫瘍が出来なかったのか?

 「不運でなかっただけである。腫瘍が成長するには、悪い条件が積み重ならなければならない。腫瘍になる可能性のある細胞を、悪いタイミングで悪い場所に長期間にわたって留める必要がある。」とスワントンは言った。「遺伝の影響も考えられる。また、一部の変異体クローンの成長を鈍らせたり速めたりする遺伝子と環境の相互作用もあるかもしれない」。発癌現象については、子供の成長と同じことが言える。子供が育つには、氏と育ち( nature and nurture )のいずれもが重要である。発癌現象も同様で、細胞が元々腫瘍になる可能性を有していると同時に適切な環境も必要なのである。

 スワントンの研究室が大気汚染と肺癌に関する研究結果を発表した論文は、今年( 2023 年)初めにネイチャー誌( Nature )に掲載された。その論文は次のような不気味な言葉で締めくくられている。「我々が行った研究のデータは、以前から提唱されているように、大気汚染物質と肺癌との間に機械論的( mechanistic )関連があり、因果関係もあるということを示唆するものである。また、腫瘍促進に関する従前の知見を裏付けるものでもあり、都市部における粒子状物質の排出を制限する公衆衛生上の規制を正当化するものである」。大気汚染のリスクがあるエリアに住んでいる人口は非常に多い。「世界の総人口の 99% が、世界保健機関( WHO )が発表した安全基準を超えるレベルの大気汚染にさらされている。」とヒルは言った。喫煙は大気汚染よりも肺癌のリスクをはるかに高める。しかし、大気汚染にさらされる者の数は非常に膨大なので、それぞれがもたらす被害額はほぼ同じになる可能性がある。スワントンは、大気汚染によって引き起こされる肺癌により、毎年 700 万人か 800 万人が死亡していると推定している。

 スワントンの大気汚染に関する論文が掲載された号のネイチャー誌の表紙には、スモッグに覆われた私の故郷であるニューデリー( New Delhi )の写真が掲載されていた。この記事を書いている時点、つまり 2023 年 11 月であるが、大気汚染のレベルが人間の居住にとって危険とされる限界に達したため、ニューデリーは部分的に封鎖されている。私は若い頃に見た悲喜劇的な光景を思い出した。インド政府がニューデリーで最も交通量の多い交差点の 1 つに大気汚染計測器を設置した。たくさんの車、バイク、トラックが煙を吐き出しながらその交差点を通過していた。たくさんの工場が灰を含んだ薄黒い空気を大気中に吐き出していた。高速道路沿いの木々が煤で黒くなって幽霊のようなシルエットを見せていた。ある朝、私は顔を上げて大気汚染計測器を見てみた。数字が読めないことに気づいた。計測器前面のガラスは真っ黒だった。煤を測定する装置は煤で見えなくなっていたのだ。

 「一握りの疫学者だけが認識している事実をお教えする。」とスワントンは私に言った。1960 年代中頃のことであるが、イギリスの疫学者リチャード・ドール( Richard Doll )とオースティン・ブラッドフォード・ヒル( Austin Bradford Hill )が肺癌の原因を特定しようとしていた時、彼らは主な原因と疑われる候補を 2 つに絞り込んでいた。その 1 つはタバコの煙であった。今でも 2 人はタバコと癌との関連性を初めて明らかにしたとして称賛されている。しかし、スワントンによれば、2 人は論文で、他にも癌と相関関係があるものを列挙していたという。主要な道路、ガス工場、大型化学プラント、石炭火災発電所への近接と癌との間に相関関係があると指摘していたのである。高レベルの大気汚染への曝露が癌の原因になりうることを示唆していたと言える。「当時の生物学者がその原因を調査するツールを持っていたら、癌予防の歴史はもっと違ったものになったに違いない。」とスワントンは思いを巡らせながら言った。

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4.

 シャーロック・ホームズのファンならご存知のように、「バスカヴィル家の犬」では、結局のところホームズは殺人犯を捕まえられなかった。悪党のステイプルトンは、深い霧の中をさまよい、沼地の池に吸い込まれ、窒息死した。彼は自分の存在を明確に示す痕跡であるブーツと猟犬に塗った蓄光塗料の入った桶を残した。

 私はバルメインに、細胞組織の環境、つまり癌細胞の周辺の状況を変えることによって機能する発癌物質を検出する装置や手法を考案するにはどうすべきかを尋ねた。また、環境炎症誘発物質を検出するエイムズ試験は考案可能であるかも尋ねた。私たちは、日常生活で「炎症( inflammation )」という言葉を気軽に口にしている。あたかも十分に理解しているように。しかし、もう少し深く掘り下げてみると、この言葉はいろんな意味で使われていることが分かる。自己免疫疾患( autoimmune disease )による慢性的な炎症を示す際に使われる。ウイルス感染後症候群( postviral syndrome )の内臓の不具合や治りにくい外傷を示す際にも使われる。スワントンの研究チームが発見したマクロファージが産生するインターロイキン -1β が媒介していると思われる炎症の特異性を考慮すると、炎症を引き起こす物質を捕捉できる装置や手法を確立するのは容易ではないと思われる。

 「それは、確かに容易ではない。」とバルマンは言った。しかし、どこから探し始めるべきかについてのヒントはある。彼は、検出方法を確立しようとしている研究チームと協力してきた。特殊なオルガノイド( organoid:試験管の中で幹細胞から作るミニチュアの臓器)を利用した検出方法は、具体的には皮膚細胞と免疫細胞を一緒に培養して 3 次元的な組織様構造を形成するのだが、可能性があるかもしれない。私自身の研究室でも同様の癌オルガノイドの研究に取り組んでいる。原理的には、化学的刺激物は免疫細胞に炎症の連鎖を引き起こす可能性があり、炎症の連鎖が続くことで癌細胞が増殖する可能性がある。

 あるいは、発癌物質の特定を目指す研究者は、マクロファージを研究するようになるかもしれない。たとえば、マクロファージを化学物質にさらすことで、インターロイキン -1β によって部分的に媒介される特定の免疫応答( immune response )が活性化される可能性がある。あるいは、癌を促進する炎症の代用として、動物や人間の体内にある免疫シグナルを探すかもし​​れない。免疫細胞の不均衡を示すシグナルを検出することで、前癌病変を検出できる可能性がある。それは、予防のための集中的なモニタリングにつながる可能性がある。このアプローチでは、少なくとも最初は必ずしも犯人を特定できるわけではないが、猟犬の足跡の上にある蓄光塗料の入った桶を見つけるなどして、犯罪行為の証拠を得ることができるかもしれない。

 スワントンの研究室から聖バーソロミュー病院( St. Bartholomew’s Hospital )までは徒歩で約 30 分かかる。その日の午後、ロンドンは気持ちの良い天気だったので、私は歩いてそこに向かった。グレビル・ストリート( Greville Stree )沿いを各所に立ち寄りながら目的地を目指した。西へ約 1.5 マイル( 2.4 キロ)のところにロンドン衛生熱帯医学大学院( the London School of Hygiene & Tropical Medicine )があった。この中にイギリス医学研究審議会( the Medical Research Council )がある。そこは、先述の 2 人の疫学者、オースティン・ブラッドフォード・ヒル( Austin Bradford Hill )とリチャード・ドール( Richard Doll )が協力して研究をしていた場所である。2 人は 4 万人以上の喫煙する医師の集団を 29 カ月にわたって追跡調査し、喫煙と肺癌に関する今や誰もが知る論文を発表した。東に 2 マイル( 3.2 キロ)弱のところにロンドン病院( the London Hospital )の病棟があった。ここで勤務していたミュリエル・ニューハウス( Muriel Newhouse )とヒルダ・トンプソン( Hilda Thompson )が、アスベストに曝露されたことに起因する中皮腫患者がいることを世界で初めて示唆する論文を発表した。

 私は道端のベンチに座って、ネイチャー誌に掲載されていた論文をもう一度読んだ。かつて熱心な読書家である友人が私に言った、「偉大な文学作品を見分ける唯一の証しは、小説を読み始めた者と読み終えた者が決して同じではないということにある。良い小説は読者を変えることができる。」と。科学における優れた研究にも同じことが当てはまるのかもしれない。それは人々の世界の見方を根本的に変える。スワントンの研究チームは、疫学、毒物学、免疫学、遺伝学の知見をフルに活用して謎の解明に取り組んできた。そして、因果関係を明らかにして、生物学的に妥当と思われる発癌メカニズムを解明した。これは、私が科学分野で遭遇した分野を跨いだ研究の中で最もエレガントで調和の取れたものの 1 つである。

 セリコフはアスベストと腫瘍の関連性を指摘していた。それは正しいのか?私が思うに、おそらくアスベストは突然変異原というよりも促進剤であると考えられる。アスベストの発癌特性はそれが引き起こす刺激の結果である可能性がある。アスベスト繊維はマクロファージやその他の免疫細胞を呼び起こし、肺に瘢痕化や炎症を引き起こす可能性がある。この刺激により既存の悪性クローンが目覚める可能性がある。では、タバコはどうか?タールに含まれる化学物質は突然変異を引き起こす。煤の細かい粒子は化学的刺激物である。そしてニコチンは中毒性を高める。つまり、タバコの中には、厄介な 3 要素が全て揃っているのである。突然変異原、炎症誘発物質、依存症誘発物質であるが、それらが細い円筒の中に都合よく丸め込まれているのである。

 メンソールの霞を撒き散らしながら若い男が私の前を通り過ぎた。電子タバコを吸っていた。化学混合物が灼熱の気化粒子となって彼の体内に入った。私は、彼の肺の生検で何が明らかになるだろうかと想像した。通り過ぎるバイクが真っ黒な排気ガスを吐き出し、マスクをしてくるべきだったと後悔した。その時、私が気づいたのは、自分の周りの世界について考える時、化学的刺激物と炎症の観点からしか考えていないということであった。午後3時頃に、聖バーソロミュー病院の正門に着いた。この病院で、ポットは例の有害な煤いぼについての論文を書いた。ここはスワントンが医学訓練を受けた場所でもあった。ふと思い出したのだが、ここはワトソンが初めてホームズに会った場所でもあった。

 実験科学( experimental science )である毒物学と観察科学( observational science )
である疫学という 2 つの分野の知見を巧みに組み合わせる必要があるため、環境発癌物質( environmental carcinogens )を発見するのは難しいと考えられている。全く容易ではない。ヒトの癌の研究では、細菌や動物の実験では説明できない謎が投げかけられることがしばしばある。また、研究室で実験する際に現実と全く同じ環境を再現することは決して容易ではない。(アメリカ国立標準技術研究所が大気汚染の煤が入ったボトルを販売しているなんて誰が知っていただろうか?) 幸いなことに、この分野は洗練されつつある。新たな発癌物質を特定する能力がますます高まっていると言える。とはいえ、まだそのレベルは十分に高いわけではない。ようやく発癌物質が非常にたくさん存在していることが分かっただけである。

 聖バーソロミュー病院を離れる時、私はなぜかコナン・ドイルゆかりの地を訪ねてみたいと思った。この旅を終えるに当たり、ベイカー・ストリート( Baker Street )に向かうためタクシーに乗り込んだ。♦
以上

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