【2023年度哲学思想研究会部誌収録文章】三社祭の思い出

 私がふと思い立って、三社祭へ行くことに決めたのは、その最終日である五月二十一日の前日、二十日の夜のことであった。
 ちょうどその時私はいつもの如く布団の上で重い学術書を引っ張り出し、傍らにボールペンとノートを広げて読書会のメモを作っていたが、三、四十分程も作業を続けていると集中力も切れてきて、本を開いてもその文章ではなくて、ページの隅の方に小さくついた滴の痕であったり、古本で買ったものだから所々に点付いている染みや埃であったりが気になり出す。
 そんな堂々巡りの思索と行為の中で、あの浅草の祭りに行ってみようという考えがまろび出たのだった。
 翌日の朝九時三十分頃だったか、私は支度をして板橋区の家を出発した。あんまり周囲のことを詳しく書くと住所がすっかり割れてしまうから、一旦大きくすっ飛ばして、王子駅の方に差し掛かった所から書き始めようと思う。
 石神井川の曲がりくねった流れにそって北区の方へ歩いて行くと、私が最初にたどり着くのが京浜東北線と都電荒川線の王子駅である。昔から春先になると私はまた高速道路の下をとぼとぼと歩いて、飛鳥山の桜を眺めに行ったものであるが、今回は単なる通過点として寄り道をすることは無かった。
 五月の終わりとは言え空気はまだ澄んで冷たく、時折前から吹き抜ける風が心地よかった。
 滝野川四丁目の交差点から、王子新道を神社前までずっと西に向けて歩くと、紅葉橋を抜けて王子本町の方に出る。そこから都道四五五号線を南に進み、王子神社の脇へ目を向けると、 音無橋というのが架かっているのが見える。バスで王子駅に行 く時はこの橋をそのまま渡って、飛鳥山区間の都電共同線路を 眺めながら行くのであるが、私は今回其方には行かず、音無橋 のたもとから階段を降りて行って、音無親水公園を通り抜け た。
 親水公園は石神井川から小さな支流を引いて、そこに沿う様 に作られた公園であるが、その規模は公園というより遊歩道の それに近い。周囲の地形に比べて一段低まったところにあるた め、上の方に植えられた街路樹の広げる枝で道は殆ど木陰に覆 われていた。この辺りで似ているところと言えば、五号館前の 甫水の森の様なものと思ってくれればよい。    
私は水の音と緑の葉っぱを通して降り注ぐ光を浴びながら、 ゆっくりと公園を抜けて行った。初めて王子を訪れて以来、こ れまで数えきれぬほどこの辺りを歩き回ってきたが、私はこの 公園の存在を全く知らなかった。知っていれば飛鳥山と合わせ て幾度か足を運んだだろう。
音無公園を通り抜けて王子駅の方に行き、京浜東北線と東北 新幹線の走る高架の下を潜って向こう側へ出ると、丁度帝京病 院を経由して王子の方へ行くバスの終点ロータリーがある。面 前にはあの見慣れた王子の駅前街が広がっており、左手には昔 中学生の自分に演劇部で公演を見に行った劇場が、右手には都 電荒川線の王子駅が見える。
スマートフォンの地図によると右手の方に行けとのことで あったから、私はその様にして、早稲田行きの小ホームの横に ある小道を辿って行った。小学生の頃はこの小道をずっと行く と後はどこに着くのかというのをずっと気にしていたが、今に なってようやくその答えがわかるというわけである。
しばらく荒川線と並び歩きをしていくと、ややあって向こうのほうは栄町の方へがくんと曲がってしまう。右手に見える高架だけはずっと変わりがないので、時折そこを走り抜けていく電車を見遣りつつ、私は田端の方に歩いて行った。
 思えば田端というのも不思議な思い出のある場所である。私が家族と一緒にどこか飛行機に乗って旅行に行くとき、山手線に乗って浜松町から羽田へ行くのが常だったのだが、その時は快速で他の駅をすっ飛ばしたが早いと思って、いつも田端で正面向かいの東北線に乗り込んでいた。
 この頃私は常々不思議に思っていた。というのは、いつも田端から乗っていくものだから、この電車は田端の前はどこから来ているのだろう、よもやここが始点で終点まで山手線と並走しているということはあるまい、ということである。この謎が解決したのは中学二年生時分のことで、職場体験で地方のテレビ局へ行く時の集合場所が王子であった。その時行き方を調べていると、路線図には尾久駅と王子駅の存在がはっきりと描かれていて、またさらにその果てには埼玉の大宮というところがあることが分かった。
 この頃まで私はスマートフォンを持っていなかったし、ゲーム機もインターネットにほとんど繋げていなかったから、家で調べるということができなかったのである。
 この様な思い出のある田端であるが、実際に駅の外を訪れるのはもちろん初めてである。一体何があるのかと思って、だだっ広い工場敷地を横目に見つつ、うきうきと歩を進めていたが、今思い返すと案外印象に残らぬものである。唯一ああこんなものがあった、と思うのは田端の直前にある操車場めいたところであって、まるで何か塞栓でもされたかの様に複数の線路がパッと並んで、鉄道の範囲が膨張していた。地図で見ればこれも一目瞭然である。(後になって尾久車両センターなる施設があるのを知ったが、この頃は田端のものであるとばかり思っていた)
 さて、田端を過ぎれば日暮里、その向こう側には谷中・桜木を越えて上野公園がある。荒川区を踏破して台東区に至ったわけである。
 日暮里駅前は田端に比べて変化に富んだ面白い場所であった。浅草が近くなるにつれて観光客らしき人影も増えており、その殆どが外国人だった。通りがかった消防団の基地の前で、開いたシャッターの向こうに停まる消防車と写真を撮っていた、アジア系とヨーロッパ系の連れ合いの姿が記憶に残っている。
 もう一つ記憶に残っていることがある。件の消防団基地から線路沿いに南東の方角に歩き、都道五十八号線に合流するまでの間、小さな飲み屋が連なっているちょっとした通りがあるのだが、そこに異様な看板を掲げている店があった。
「妖狐蘇忌羅邪異魔世」
 この強い印象を放つ漢字の羅列に囚われて、私は暫しの間店の扉の前で足を止めた。そして、数秒経ってそれが、
「ようこそいらっしゃいませ」
 の意であると悟ると、何かしら胸のすくような思いがして、満足と共にその場を後にしたのだった。店構えはおどろおどろしく、何やらオカルトめいた意匠が随所に見られていた。そして、店の扉にはおそらくこの店の従業員だろう、顔を白く塗った上に黒と赤とで隈取を入れた幾人かの「悪魔的」男女の写真が飾られていた。誰も皆魅力的に見えたのを時折思い出す。
 日暮里を行き過ぎると、ついで根岸・鶯谷の町が見えて来る。こと根岸は私の慕ってやまない哲学者、九鬼周造が東京にあって住居を構えていた場所であり、是非一度見て回りたいと思っていたところだった。しかし、不運なことにその日は時間と体力が寄り道を許してくれず、私は黙って根岸を通り過ぎ入谷の金美館通りへ向かうことを余儀なくされた。誠に心残りであるから、この文章が世に出る前には是非訪れたいものである。
 金美館通りをのんびりと歩いていると、私のすぐ目の前に軒を連ねる出店から、食べ物の良い匂いが漂ってきた。側の掲示板を読んでみると、なんと言う偶然か私がそこを訪れた日は、当地の小野照崎神社の祭日であった。
 小野照崎神社の由緒は古く、西暦にして852年の頃にかの参議小野篁が当地に社を創建したのが始まりであるという。以来千百年以上の間この入谷の鎮守として厚い崇敬を寄せられてきたのであった。
 さて、そうして入谷を過ぎて千束に出ると、ここで私は初めて三社祭に向かう神輿の渡御に遭遇した。その様子は荒々しくも美しく、古き良き江戸の風情を体現するものであった。町会の紋を入れた法被を着込んだ男女がないまぜになって、上に絢爛たる鳳凰の飾りを抱いた大神輿を担ぎ、辺りをびりびりと震わせる威勢の良い掛け声と共に渡していくのである。
 こればかりは私の筆でその風情を言い尽くすことはできない。一度現地に足を運び、その熱情を直に語感で感じないことには始まらない。ただ言えるのは、その神輿渡御の様子が、普段部屋にこもって難解な書物を読むことより取り柄のない私に対して与えた衝撃が、まことにひとかたならぬものであったと言うことだけである
 沸き立つような熱、嵐のような声、それらが浅草の街の全てであった。私と神輿の他は何も見えなくなって、ただその行く先のみが私の目の前にあったように思えた。
 あの初夏の情景は、秋になってこうして振り返ってみても、未だ鮮やかさを失わずに瞼の裏に残っている。願わくば来年もまた、あの熱さの中に、より深くまで飛び込んでみたい。

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