【2023年度哲学思想研究会部誌収録文章】とある実在の視点紹介     

一.始めに

 今回、哲学思想研究会の冊子作製にあたり、文章を作成する機会を頂けたこと嬉しく思います。第一締め切り六日前にやっと何を書こうか考え始め、まずは私が取り組んでいる思想について現在の思索進捗をまとめようと思いました。しかしながら、冊子が一般に広く公開されるということや、語れる範囲の限界などもあり、今回は代わりに私が取り組んでいる思想の出発点や根底となる基礎的な視点らしきものを、専門用語等の使用を極力控えたうえで、重要と思われる個所をできるだけ簡単に、あくまで私の解釈で紹介させて頂きたいと思います。初めてこのような文を書くので、私にとってこれからの勢い付けや方針の指標となればと思います。

二.「〇〇とは何であるか」という問い

 哲学はすごく大雑把にですが、「世界の原質とは何か」と問う古代ギリシャより始まったとされていると思います。ギリシャ以降、問いの基本線は「〇〇とは何であるか」というもので、後にこの「〇〇」の部分に神やその他諸々が入り、認識論や存在論などと
いった〇〇論や倫理学等に枝分かれして議論が広がっていくという(この場で書くためにものすごく省略したからでもありますが)粗雑なイメージを持つこともできると思います。しかし、今のと
ころ私はこの「〇〇」の部分に何が入ろうとも大抵の議論は最終的には「実在とは何か」という問いに回収されるように思います。様々な複合体(議論)の中にはそれ以上分割ができない最小単純として、それだけで完全性を持つ明らかなものが必要で、私はこれ
が実在だと思うからです。
 では、実在に対してこのような問いの方法は妥当なのか、むし
ろそもそも実在を「何であるか」と知性の対象として問うことは
出来るのか、再度検討をする必要があると私は思います。なぜなら、「何であるか」という問いは、多くの場合に超越的な定点としての主体が固定化された知の対象とされる「〇〇」という客体を、知性を押し出した判断形式で問うという仕組みになっているが故に、全てのものが静止しているからです。実在を静止したものと
することの問題点は「この世界に完全に静止したものが何か一つでもありますか?」とでも聞いてみれば分かり易いのではないでしょうか。うまくはない例ですが、古来より存在する街一つを見
ても、建物が新たに建ったり、なくなったりするし、そこにいる人も変わるでしょう。あり続けている建物も外壁が劣化したり内装が変わったりするでしょう。
  つまり私にとって実在というものは、後程詳しく述べるのですが、静止したようなものでは決して無く「〇〇とは何であるか」という知の対象になるのか、また言葉で語れるものなのかも怪しいのです。従って実在についても、静止した状態である実在を基盤、もしくは前提で行われている上記の〇〇論をはじめとする諸哲学も、基礎から考え直す必要があるのではないのでしょうか。

三.実在について

 ここでは簡単に、私にとっての実在について述べたいと思います。私は実在を非物質的(非延長)な「活動態」なるものと捉えています。今のところ、活動態とは其のままの通り真に自由で、絶えず動く全体性の流れであり、常に古い質を引き継ぎながら多数の多様なモードや独自性を持ち、新たに唯一無二の質を生成し続ける自己組織化、自己創造、所謂有機システムのようなもの、もしくはエネルギー、で精神そのものであるというイメージです。この活動は何か統一に向かうことはなく、分散して動くので活動態自体には、決まった方向も、未来を想定した選択の分岐点や必然的な何かも考えられないのではないでしょうか。この生成発展は意識的なものに限るものではありません。そもそも、意識的な創造よりも「何か全く分からないけれど、そうなっている」というような意識の範囲外のようなところでの創造の方がはるかに広範囲のはずです。そして、新たな多様な質の生成変化を同時に多数行うことによって、活動態は独自の環境(空間)をも創造し包むと同時に、環境(空間)に包まれる(影響を受ける)ことでまたさらに、次々と新たな生成を行います。ここで出てくる「質」とは、数値化不可なものであり、均質な背後を想定した数値化可能で、区別や重ね合わせでの比較や配列が可能な「量」ではありません。しかし、数値化は出来なくても質は単一なものではなく、多様な性質をもつ多層的なものです。
全てが活動態の中に巻き込まれながら、唯一無二の全く新たな固有の性質を絶えず作り出すようなものとなっていそうです。この流れの中には、自らは動かず動きを支えたり支配したりするものや、固定化した視点や輪郭等は存在しません。なぜなら、あくまでそれらは流れの一部を取り出すもので、これらの想定は流れを静止させて非運動にしてしまうことだからです。加えて、流れである実在を外から見る超越論的な視点や定点も無く、凡てが活動態の内部において行われるため、流れから出ることは不可能であるし、流れを切り取って静止してしまう主体と客体というものもありません。つまり定点や、根拠を持たないということは「宙づり」だということでしょう。これらのことから「見る位置を決める、物事に輪郭を絶えずつけたがる本性を持つ意識」が自由な活動を狭い範囲で限定して妨げるものだとわかります。意識に関してはさらにまた別の機会に議論や思索を進めることにします。
また、いきなり話のスケールが跳躍しているように思えるのですが、最終的には宇宙や精神等といったものも活動態即ち有機システムのようなものだということになると思います。活動態というのは、決して小さな範囲で収まる話ではないことは明らかです。
これらのことから、常に生成変化をして多数の新たな独自性や質を生み出し続ける活動態に対して「実在とは何であるか」という主体と客体を分けたうえで定点を作製した、静止した状態を前提とした仕組みの問いは不適当であると思います。
ような猫を思い浮かべるでしょうか。私は白ベースで所々黒い毛をしていて、かなり肥えているせいかほとんど動かず、性格もかなりおっとりしているのかちょっと抜けているのか分からないような猫を想像しました。当たり前ですが、人によって思い浮かべる猫は様々で全く同じ猫は想像できないと思います。想像した猫とは別に想像できなかったような猫も、そこらへんに実際にいる猫も、仮に見た目が似ている猫だとしても細部まで見るとこれまた全く同じ猫はいないと思われます。尚且つ猫は動き続けます。しかし、そんな猫それぞれが代用の利かない独自性や固有性を持っていたとしても、これらは「猫」の一括りで事足りてしまうのです。いや、そもそも「猫」といつの間にか勝手に呼ばれているだけで、別に私がこれを勝手に「犬」と呼んだって良いわけです。
という例を考えてみました。確かに情報を付け足していくことで猫という個体は具体的にはなっていくかもしれません。しかし、飽くまでそれらは知覚による情報であるためリアルタイムではなくすでに過去のものであるし、流れの固定化を余儀なくされてしまいます。残念ながら活動態は常に生成変化をするため、言葉が対応するに相応しい固定化されたものが無いわけです。とにかく、やはり活動態の独自性を言葉で捉えきることは出来ないということが少しでも伝わると私としては嬉しいです。

三の二.この節の最後に
 ここまで私が賛同する実在について、私が現時点で言語化できる範囲で出来るだけ簡単に私なりの解釈で述べてきましたが、私が主に研究したい哲学者についての本に、活動態としての実在を分かり易い例えで示しているような箇所がありましたので、これを参考に最後にまとめとして自分なりに例のようなものを挙げたいと思います。
水の入ったコップの中に角砂糖を入れると勿論角砂糖は解けていきます。なんだかはぐらかされているようですがまさに、この溶けてゆく過程こそが現時点で考えている実在に近いです。この溶けて絶えず姿が変わっていく砂糖のどこの一部分を切り取るとそのものの独自性が語れるでしょうか。また、時間によって解ける量は増えるので濃度は変わります。これによって、水の甘さという環境が変わるので過程的に溶ける砂糖は環境を創造して包みますし、同時に砂糖水に包まれるのです。解け切った後も砂糖は完全に消えたわけではないし、どこかで静止しているわけではないと思います。その中に同じ形や大きさのものはないし、これらは変化していきます。これをもっと大きな水の入った容器に移し替えても砂糖水であった記憶は、消えたりなどはしないはずです。
やはり「実在とは何であるか」という静止した形式や、知性的な問いが立てられないことも、固有性を持つ活動態を言葉で言い表せないことも明らかだと思います。砂糖が解けていく過程の、いったいどの場面を切り取って実在とするのでしょうか。
ここまで私の現時点での実在の解釈を書きましたが、現実離れした豊かな理想というか楽観的というか…という印象を受けると思います。ですが、均質で、支配的な厳しい現実に隠された、自由で生き生きとした実在を取り出してみるという試みだと思っていただけると嬉しいです。少なくとも、現時点で私はそう念頭に置いています。

四.生命と実在

 実在が最も出てくるのは生命の場においてであるという話がありますが、全くその通りだと思います。生命こそ常に新たな質に変化をしていく活動態の最たる例であるということは例えば、我々の細胞が生誕時から不変なものではなく常に変化し、それに伴って身体も成長という変化を繰り返して年老いていく、ということだけでも分かるかと思います。人間においては「子供」や「大人」などの区別(輪郭)が一般的にされますが、確かによく考えると発達して年老いていくどこが子供でどこが大人かという明確な区切りはできず、成長という常に変化し続ける流れであることが明らかだと思います。
 繰り返しになりますが、生命とは常に多様な新たな質を創造し続ける活動態そのものです。先程の「実在について」でも述べた通り、活動態の中には流れを止めるような固定化された定点はないので、流れである生命において驚くべきことですが「私」という固定化された点などは無いということになります。加えて、活動を否定するようなものも無いと思われます。そして、生命の議論は最終的には「個体」について考えなければならないのです。
先程の節でも、活動態では古い質を引き継ぎながら新たに様々な固有の要素や性質が絶えず生成されていると述べましたが、この固有性を持った独自の多くの質、またはこれらの網目状の繋がりこそがまさに個体だと思います。この固有の要素や性質は活動態内部に固定化された点は無いため、これ自体が活動態でなければなりません。活動態においては、それぞれ別々の質を作り出すので、同じ個体など存在しませんし、他の個体が入ってきて内部を動かすことなどはないと思われます。かの有名な「窓がない」というやつでしょうか。
となると「質の違いを出す」ことが常に生成発展する活動において重要なことになるでしょう。個体が網目状に繋がり、生成発展することで異質な個体を創り続けるといったイメージです。質の生成が常時行われる個体は、自身が動くことによって個体を維持します。ここで先程の節で出た、身体での行為が重要となります。即ち、個体という究極の主語なるものは述語によって形成される、主語があってこれによって述語がある、というよりは述語が主語を形成するというイメージです。
そして、少し矛盾のように感じますが、個体は独自性固有性を持つと同時に、活動態全体を要素として持ち、質を表現しなければ
ならないと思います。これが、「多が一を包み、一が多を包む」ということだとも思います(ここに関してはこれから検討していくので聞き流してください)。きっと矛盾を持ちながら、表裏一体のように…というのは重要になりそうです。そして、先程も述べた通り個体には意識的だろうが、無意識だろうが表現の質的な差が、記憶の差があるのだと思います。
 「自己において自己を見る」とか、「自己において絶対の他を見る」なども定点を排して活動の内部で異質な個体を次々に形成していくこと、なんとなくではありますが活動を内部で捉えることに関係しそうだと今のところは思います。

五.これからの課題

 活動態や個物についてさらに論じる際には、知覚や認識、精神や記憶、意識や無意識、身体や行為、経験、欲求、先験、物質、空間や時間などのさらに多くの要素が加わります。これらの要素は、それぞれで詳しく思索をしていかなければなりません。
活動態や個体、自己組織化の更なる思索や、如何にして本来文字では記述できない活動を捉え、記述するか。個体と物質の関係。「意識」という活動の様々な要素を捨てて、固定化された見る位置を定めることで活動の幅を狭くしてしまおうとする厄介なものとの付き合いや、これを解除して如何にして個体を幅広く拡張して創造するか(これが私の一番の課題)。また、この生命的で創造性にあふれる理想的な実在と、悲惨で厳しい現実の乖離や、ネットワークについて。など多くの事がこれからの課題となってきます。また、私がこれ以前に興味のあった思想の仕組み変更などという大きすぎる野望もあります。
従って、「〇〇とは何であるか」ではなく、活動の中もしくは活動態として「何をしていくか」という形式の問いの立て方がよさそうだと思います。

六.最後に

 「私」という固定化された点を置いたうえで、そこを起点に物事を考える。この点を理念だけで打ち立てた方や、ここに個別の感性経験を加えた方等もいました。しかし、静止した主体が静止した客体を構成したり等の仕組みが、現在も一般的ではありそうです。
しかし、これまで述べてきた通り、静止した視点から問いを立てて考えることには大きな問題があり、その上に成り立っている諸哲学も問題が出てくると思います。うまく例として機能しているかは不明ですが、私の感覚的には「(世界の外の)私から見た静止した世界(全体性)」ではなく「世界(全体性)の中で動く私」というような視点の方向性から様々な問いをする方がよいという感じです。私が研究対象としている人物たちは、この際、光を使って比喩的に表現するので、これに乗っかって述べるならば「私が世界の中心もしくは、世界の外から超越者となって世界に光を当てて照らす」のではなく「光で満ちた世界の中で様々な屈折を生み出す私」という視点の取り方になるのではないでしょうか。
まだまだ読みが浅かったりする部分が多いのですが、「これからにご期待ください」ということで今回はこれくらいで視点の紹介を終わります。ありがとうございました。

参考文献
ベルクソン 『時間と自由』白水社 平井啓之 訳  
檜垣立哉  『ベルクソンの哲学』勁草書房 
中村昇   『ベルクソン=時間と空間の哲学』講談社 
ライプニッツ『モナドロジー』岩波文庫 谷川多佳子 岡部英男 訳
小坂国継  『西田幾多郎の思想』講談社学術文庫 
桑田禮彰  『フーコーの系譜学 フランス哲学覇権の変遷』講談社選書メチエ


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