おじいちゃんと私

1ヶ月とちょっと前、おじいちゃんが天国に行った。

今週末は四十九日。本当だったら福島に帰るつもりがこんな状況で帰れなくなってしまった。コロナはこんな機会までも奪っていくのか。

おじいちゃんは良い意味でも悪い意味でも変わった人だったけど、すごく芯がしっかりしていてかっこいい人だった。波平さんか友蔵さんかで言えば、波平さん。背が高くてお洒落で、スキー、水泳、テニス、水墨画、囲碁と多趣味でグルメな人だった。

一緒に住んでいたこともあって、私と弟の基礎はおじいちゃんに作られた。おじいちゃんに言わせると子供は喋るようになるまでの子育てが肝心らしい。ちゃんと歩けるようになる前から懸垂させられたり、水に頭突っ込まれたり多少手荒ではあったけど、そのおかけで自転車に乗れたのはみんなより早かったし、体育はずっと好きだった。

いろんなところに連れて行かれて、いろんなものを体験させられた。礼儀、歩き方、テニス、水泳、歴史、本当にいろんなことを教えてもらった。

口うるさい時もあったからうざったく感じて冷たく接してしまうこともあったけど、大好きだった。いや、今も大好きだ。そして、心から感謝している。この1ヶ月とちょっと、思い出さなかった日はない。私はおじいちゃんの1番の仲良しだった。

3月21日、私は友達と渋谷のカラオケボックスで気持ちよく歌っていた。そこにかかってきたお母さんからの電話で、おじいちゃんが亡くなったことを知った。全然実感が湧かなくて、いや逆にパニックでいつも通り振る舞おうと必死だったのかもしれないが、フリータイムギリギリまで歌って帰った。帰りの電車で1人になった途端、もう耐えられなかった。

22日の昼には福島にいた。2週間ぶりぐらいに会う家族は、みんな元気そうだけどずっとふわふわしている感じだった。無言になるのが怖かったし、1人になるのが怖かった。
寝ているおじいちゃんの顔は、とても綺麗だった。今すぐ起き出しそうだった。首の太い血管が切れてしまったことが原因だと聞いた。長く苦しむことはなかったらしい。病院が嫌いだったから、闘病の末とかじゃなくて良かったなと思った。

それからバタバタと準備する日が続き25日、お通夜。初めて、ではないが物心着いてからの私にとって初めてのお葬式というものが始まった。

お葬式は物凄くしんどかった。物凄くしんどかったけれど、お葬式が終わるとちゃんとおじいちゃんの死と向き合えるようになっていた。もうみんなふわふわしていなかった。無言でも平気になった。

お葬式はすごい。お葬式は亡くなった人の魂を天国にまっすぐ向かわせるためだけのものではなく、残った私たちがその人への、その人からの愛を再確認し、前向きに生きていくためのものでもあるんだと私は思った。
きっとそれは遺影や棺桶に入れるものを選んだり、これからの家のことを考えたり、遺品を整理しながらおじいちゃんとの思い出をみんなで振り返ったり、まっすぐに家族と向き合う時間が自然にできるからだと思う。

だから、コロナで亡くなった方はお葬式ができないというニュースを聞いたときは胸が締め付けられた。

人生で初めて大切な人の死を経験して、私は文字にはできない多くのことを感じた。決してこれは忘れたくないと、せめて文字にできる部分だけでも残しておこうとこれを書き始めたわけだが気持ちの整理がついたはずなのにここまで書き終えるのに何回涙ぐんだか。どれだけ私の日常におじいちゃんがいたか、いなくなってから気づく。ご飯の食べ方も、お風呂から上がる時の体の拭き方も、生活のいたるところにおじいちゃんがいる。

ありきたりだけど、大切な人は大切にしようと改めて思った。いくら大切にしてたって「あの時ああしてたら、こうしてたら」って絶対出てくるはずだから。せめて大切な人には素直に気持ちを伝えたい。「ありがとう」「ごめんね」「大好き」「尊敬してる」ぐらいはちゃんと口で伝えよう。

最後におじいちゃんにとって、私は自慢の孫だったらしい。いろんなところで自慢話をしていたらしくて、私の名前だけが一人歩きしているのだ。だから、私はもっともっとおじいちゃんの自慢の孫になる。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?