【エッセイ】敵のいない生活に慣れよ

今年大学を卒業してから、どうも日々の生活にハリがなくなったように思われた。
そこで少々うーんと考えてみたところ、これは僕の周りから敵がいなくなってしまったからではないか?という結論に至った。
思えば僕は、思春期以降なにかと他者に敏感で、表には出さないが常に義憤に駆られ反発心に燃えていた。
そのためを作るのを厭わないところがあり、そうした敵の存在は僕の生活にそれなりの(時には耐え難い)ストレスを与えてきた。

中学時代、自分と比べてあまりに馬鹿な同級生たちを敵と見定め、彼らと同レベルであることを拒み続けた。
高校に上がると、頭の固い教師共と敵対したので、公然と反対勢力を自称してネット上での母校の評判を地の果てまで失墜させた。
大学になると、偶然参加した演劇企画の主宰と真っ向から決裂し、しばらくは本気で彼を殺害する方法を練ってさえいた。
キャンパス内でも、チャラくて無責任かつ無批判な学生が嫌いでしようがなかったので、そうした学生が少しでも居心地悪くなるよう様々な活動を行ったものだ。

回想してみると、これまでライフステージのどの段階でも、とにかく何らかの敵はいた。
それは大体の場合「馬鹿な同級生」であったり「不満な環境」であったりする。
そして僕は、そういったものを破壊しようと、よく言えば活気を、悪く言えば害意を持って日々を生きていた。
植物毒が少量ならスパイスと呼ばれるのと同じく、これらの要素は僕の日常にとってまさしくスパイスであったのかもしれない。
もちろん、僕がかなりの辛党であったことは否定すべくもないのだが。

ところが、大学で哲学科の教授に触れたり、いろいろな経験をしたり、様々な人々を面白がったりするうち、僕は大人になってしまった。
他者や世界に対しての期待が限りなく0になってしまったし、自分にとって不快なものに出くわしたら黙って逃げてしまうのが最良と分かってしまった。
また、これまでの人生をそれなりによく考えて生きてきた報いか、気の置けない友人も必要充分にいて、音楽の才能もそれなりにあって、美人かつ心の通った恋人までいる。
そうすると、大学を卒業して初めて、今の僕には敵がいない
そこにあって喜ばしいと思えるものだけが残り、喜ばしくないものは残らなかった。
無論、それでも世界が生きやすいわけではこれっぽっちもないし、未来の不安は絶えないが、少なくとも今、僕にとって積極的に破壊したい敵はいないのだ。

この感覚には慣れないが、しかし慣れねばならない。
もう敵と戦う必要がないということは、紛れもなく喜ぶべきことだからだ。
それを喜べないとしたら何のために戦っていたのか分からない。
これから先は、嫌いなものを破壊するためではなく、好きなものを守るために戦うべきなのだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?