【無料記事】中川文人氏の短編ハードボイルド小説集

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 中川文人氏の新しい本が出た。『黒ヘル戦記』という短編小説集である。初小説というわけではなく、87年に出たデビュー作『余は如何にしてイスラム教徒となりし乎』(2014年に『1987年の聖戦』と改題してKindle版で復刊)も小説といえば小説だし、08年の『地獄誕生の物語』もまあ小説だろう。しかし今回の『黒ヘル戦記』はもっと本格的に小説で、多くの人が小説と聞いて思い浮かべるような感じの、実に小説っぽい小説が並んでいる。
 〝ショート・ショート〟めいた3篇の巻末付録を別にして、全9話である。〝全〟というか、たぶん中川氏はこの方面にいくらでもネタというかアイデアを持ってるはずなので、売れればシリーズ化されて第2弾、第3弾が出る可能性もあろう。じっさい売れても不思議ではなく、帯文にある「反体制ハードボイルド小説」の看板に偽りなし、エンタテインメントとしてもよくできてるし、第1話「詐病」や第5話「秘密党員」など、冒頭にちょっとした謎があり最後に〝意外な真相〟が示される探偵小説っぽい話もいくつかあり、世が世なら(日本社会が本格的にFラン化する95年以前なら)テレビドラマ化されていたかもしれない。日本推理作家協会賞の〝長編および連作短編集〟部門にノミネートぐらいされてもよかろうし、〝このミステリーがすごい!〟の「20位以下の作品」欄に登場したり、いっそランクインしたって当然のようにも思う。
 つまり以下に記すような、この連作短編集の成立背景を知らずとも、サヨクだのカゲキハだのを快く思ってない人や、はっきり云ってそこらへんの人民でも、まあエンタメ小説をたまには読むぐらいの人であればフツーに楽しめるだろう。

 私の本の熱心な読者には改めて説明するまでもあるまいが、中川氏は80年代後半の法政大の活動家である。88年に法大の〝黒ヘル〟つまりノンセクト勢力の首領となり、78年以来、約10年にわたって法大に恐怖支配体制を敷いていた悪の組織つまり中核派との抗争を指揮して、東欧諸国で共産党政権が次々と打倒されたのと同じ89年、これを勝利に導いた。もっとも勝利の代償として中川氏は退学を余儀なくされ、当時まだギリギリ存在していたソ連の、レニングラード大に〝亡命〟することになる。まあここらへんの事情は『全共闘以後』に書いたし、もっと詳しくは中川氏との共著というか私が中川氏に当時の話を根掘り葉掘りインタビューした『ポスト学生運動史』を読めば分かる。ちなみに中川氏は〝法大出身の……〟と紹介されるとちょっと不機嫌で、〝レニングラード大出身の……〟と紹介されるととても嬉しそうである。
 私見によれば中川氏は〝自覚のないドブネズミ系活動家〟で、〝ドブネズミ系〟扱いすると一所懸命それを否定しようとする。〝ドブネズミ系〟とは、80年代後半の日本の革命運動・反体制運動・諸闘争を中心的に担った(当時の)若い活動家たちの総称で、それら諸運動のBGMとして機能していたブルーハーツの、「リンダ リンダ」の歌詞に由来してそう呼ばれるようになった(もともと私が〝ブルーハーツ世代の諸運動〟とか云ってたのを絓秀実氏が〝ドブネズミ系〟と云い換え、〝ドブネズミ系〟の諸運動とは敵対的な野間易通氏なども批判的に使用し始めた)。まあ中川氏個人の音楽的背景は〝YAZAWA〟とからしいが、中川氏と共に闘った80年代末の法大ノンセクト活動家たちの、少なくとも下級生部分は〝ブルーハーツ・チルドレン〟であったろうことは疑う余地もない。
 〝ドブネズミ系〟の特徴としては、先行世代が担ってきた新左翼運動に半ば影響され、半ば反発して、自覚的にか結果的にか、その〝批判的継承〟を志したことがまず1つ挙げられる。そしてもう1つ、80年代後半には(実は一種の〝政治の季節〟であり、リベラル派にはものすごく存在感があったが)ラジカル派の運動はすでに壊滅の危機に瀕しており、そうした閉塞状況を突破するための武器として多くの者が〝芸の研鑽〟に励み、つまり〝面白主義〟をとことん追求したことである。従来の新左翼と〝似て非なる〟主張を掲げているわけで、〝似て〟はいるんだから80年代後半ともなれば〝アブな〜い〟と敬遠されやすく、そこを一目で反射的に〝どうも違うようだ〟と分からせるための〝面白主義〟だったのだ、と後から振り返って気がついた。ほとんどゼロから仲間集めを開始する必要があり、フツーの人民にはもともと理解されにくいラジカルな主張をフツーの人民に理解させるべく全力で頑張ったので、私もまさにそうであるように、〝ドブネズミ系〟諸運動の残党たちは難しいことを(内容面では一切妥協せず)分かりやすく表現する技術に長けていたりする。
 中川氏の場合、80年代半ばを過ぎてもラジカル志向のノンセクト活動家がまだ3ケタ人も存在したという法大という特殊環境が活動の舞台だったので、主に大学以外の空間で派手に暴れていた他の〝ドブネズミ系〟活動家たちと、ちょっと体験の質が違う。とはいえ、『ポスト学生運動史』を読めば分かり、『全共闘以後』でも改めて解説を加えているとおり、中川氏を首領とした時期の法大学生運動は明確に〝ドブネズミ的〟である。〝面白さ〟を重視し、中核派との抗争においても〝一芸に秀でた〟活動家たちの個人芸の結集によって勝利した点などを見れば、〝ドブネズミ系〟以外の何物でもない(学生団体などを含む既成の組織とは切れたところから出発した他の〝ドブネズミ系〟諸運動とは所与の前提が異なり、だからこそ独特に形成された中川氏らの当時の運動を私は〝ドブネズミ党〟もしくは〝ドブネズミ軍〟とよく形容する)。その首領たる中川氏は、当然にも〝難しいことを(内容面では一切妥協せず)分かりやすく表現する〟技術に長けた〝面白〟の達人であり、稀に見る芸達者なのであって、したがって中川氏が法大学生運動に特有のややこしい事情を読者にスルスルと説明する(というか違和感なくそんなものかと受け入れさせる)手際も見事である。

 これも容易に想像しうることだろうが、『黒ヘル戦記』全9話のほとんど、あるいはもしかするとすべてが、実話をベースとして書かれている。世間的には知られていない、単に私が中川氏から直接聞かされていた、法大学生運動にまつわる大小のエピソードが、物語の軸だったり脱線だったりしつつ、いくつも出てきた。舞台となっている〝外堀大学〟は云うまでもなくまさに法大そのものだし、中核派も〝マルゲリ(マルクス主義者同盟ゲリラ戦貫徹派)〟という架空の〝悪の組織〟としてたびたび登場する。もちろん百パーセント実話ということではなく、話によって、8割ぐらい事実の場合もあれば、逆に8割ぐらいフィクションである場合もあるように思われる。例えば全9話のうち最もスリリングな話であろう第4話「ボクサー」に出てくる、80年代後半の中核派の(他大学でのそれを含めた)学生運動全体を現実に指揮していた松尾眞をモデルとした人物の〝戦線逃亡〟の事情は、時期も含めて史実とは異なる。
 だから史実そのままなのかどうか分からないのだが、読んでいて〝やっぱり!〟と改めて確信を深めたことが1つある。
 日本の学生運動が下火になっていったのは、世間がそう思いたがっているように〝72年の連合赤軍事件以降〟ではなく、実際には80年代半ば以降である。衰退の原因はいくつかあるが、83年3月8日に起きた三里塚農民組織〝空港反対同盟〟の熱田派と北原派への分裂、いわゆる〝3・8分裂〟もかなり大きな原因の1つだったのではないか、というのが私のここ最近の仮説で、だから教養強化合宿でも直近の何回かでは〝3・8分裂〟について少し詳しめに解説を加えたりしている。そして第2話「ランボーみたいな人」と第4話「ボクサー」に、この仮説を裏づけるような重大なエピソードへの言及があるのだ。
 私は三里塚闘争に関わったことがないし、そもそも興味を惹かれたことがなく、したがって三里塚に行ったことさえない。最近急に関心が湧いたのは、中核派の学生活動家どもがたまに思い出したように数ヶ月おきに、我が「教養強化合宿」をツイッターでディスってくるようになったためで、その際の決まり文句が、〝外山合宿の出身者たちは1人も三里塚に来ない!〟なのである。実際にはそんなこともないのだが(それどころか合宿参加後に中核派に走った〝不肖の弟子〟たちも何人かいて、合宿中にあんなに中核派の悪口を云ってるのに教育の無力を痛感するばかりだが、中核派にはむしろ感謝されてもいいぐらいだろう)、それはいいとして、そういえば学生たちに新左翼運動史をレクチャーしているオレ自身が三里塚闘争なんかに興味を持ったこともないしなあ、と思ってちょっと反省し、改めて調べてみて、三里塚闘争への参加者が激減したのは主に中核派が悪いんであって、80年代以降の三里塚闘争は〝悪の組織〟中核派(や解放派)の延命のために続けられているにすぎず、むしろ参加すべきではない(そんな連中の延命に寄与すべきではない)し、そもそも三里塚闘争に興味さえ抱いたことがない私は昔からそれだけ健全かつ優秀な活動家だったということである、とますます増長した。中核派からのディスりには〝どの口が云うか!〟で充分、今後とも我が「教養強化合宿」出身の若人たちには、三里塚闘争などという(現在では)徹頭徹尾くだらない、何の意味もないものには決して参加しないでいてほしい。
 長年にわたって新左翼運動史を検証してきた結果、現在の私が最も共感を抱いているのは70年代半ばから80年代初頭まで存在した〝「遠方から」派〟というミニ党派である。人数は少ないんだが(4人!)、その1人1人が揃いも揃って数百人分の働きをするいわゆる〝一騎当千〟の猛者ばかりというトンデモナイ党派で、この遠方派が、78年5月の成田空港開港の前後から翌79年にかけて、もはや展望のない三里塚闘争を終わらせるための、反対派農民と政府との秘密交渉を主導・仲介し、当時としては可能な限りの譲歩を政府から引き出したことがある。しかしこの〝終戦工作〟は、最終段階で中核派の妨害によって頓挫した。
 空港はもう作られてしまったんだし、なるべく良い補償条件で空港公団側と妥協して闘争にケリをつけたいと思う農民が増えてくるのは当たり前で、そういう脱落者が出ないよう、農民たちを監視していたのが中核派である。それでも脱落した農民には、中核派の指示で村八分がおこなわれた。もともと農民たちによっていわば傭兵として三里塚に引き入れられた中核派が、いつのまにか現地に恐怖支配体制を敷くようになっていたわけだ。
 初期の三里塚闘争にディープに関係し、のちノンフィクション作家として広く知られるようになる吉田司は、新左翼諸党派が三里塚闘争の〝永続化〟を目論んだのだと分析している(『世紀末ニッポン漂流記』所収の「さらば、三里塚」、『聖賎記』所収の三里塚農民リーダーたちとの対談など)。それは治安当局側の策略の成功でもあって、70年代に入って爆弾事件の頻発などに苦慮した公安が、作戦として、三里塚においてのみ〝過激派〟摘発を甘くし、他の一般の地域とくに都市中枢に潜む〝過激派〟は徹底的に摘発することによって、自動的に新左翼諸党派を三里塚へと追いやる、いわば囲い込みをおこなったのだ、というのである。こうして三里塚以外の日本のほとんどの地域での〝安心・安全〟が実現したというわけだ。つまり新左翼諸党派は公安側の作戦にまんまと乗せられてしまったことになる。三里塚でしか生きられなくなった新左翼諸党派は、三里塚闘争が終わってしまうと困るわけで、三里塚闘争の〝永続化〟を目論み始める。とくに〝熱心〟だったのが中核派である。70年代末には、ほとんど中核派をはじめとする諸党派を延命させるためだけに三里塚闘争は続いているようなもので、反対派農民のかなりの部分はもう闘争の終結を図りたくなっており、そのことを汲んだ遠方派が動いたわけだが、中核派に潰された。
 中核派による恐怖政治への農民たちの不満は当然ながらますます高じていき、そしてついに83年、空港反対同盟が熱田派と北原派に割れてしまう〝3・8分裂〟に至る。これは複雑な対立を背景とした分裂ではなく、単に中核派を嫌う農民と、引き続き中核派の支援を受けたい農民との、分っかりやすい分裂である。諸党派の多くは中核派ほど悪質ではないので、良識を示して、中核派を嫌う農民たちのグループ、つまり熱田派についた。この頃まではノンセクトの活動家たちも三里塚闘争にたくさん参加しており、当たり前だが、彼らの多くも熱田派につく。親・中核派である北原派についたのは、もともとノンセクトに近い明るい党派だったのに、中核派と同じぐらい悪質な革マル派と殺し合いを続けているうちにその体質が伝染して、かなりろくでもない党派に変質していた解放派(正確には解放派からろくでもない部分が割れて形成された狭間派)と、どういう事情からか戦旗西田派という中堅党派と、他に私もよく知らんマイナーな小党派が1つだけである。
 〝3・8分裂〟以後、ノンセクトは三里塚闘争には参加できなくなる。中核派や解放派が、それぞれの拠点大学のノンセクト活動家が熱田派を支援することを許さないからである。83年当時、学生運動が引き続きそれなりに盛んな大学のほとんどは、中核派・解放派(狭間派)・革マル派のいずれかの〝拠点校〟と化していた。革マル派の拠点大学でも、中核派や解放派が熱心に支援している印象の強い三里塚闘争それ自体に、ノンセクト学生たちはもともと参加しにくい。ノンセクト活動家たちは、三里塚闘争から撤退するか、不本意ながら北原派を支援する側で闘争に関わり続けるか、選択を迫られた。後者を選択した者も一定数いただろうが、党派に従属せざるを得ないノンセクトなど、語義矛盾だしもはや存在価値もない。
 中核派は、熱田派についた諸党派の主力・中心だった第4インターの活動家を何人も襲撃し、うち2人には〝頭蓋骨陥没〟、〝片足切断〟といった重傷まで負わせている。レーニン主義の党派にとってノンセクト活動家はいわば〝カタギの衆〟であり、れっきとした党派である第4インターに対するよりは手加減もあろうが、熱田派支持をやめろという、暴力行使の可能性をチラつかせた威圧は、〝3・8分裂〟の直後、全国各地の拠点校でさんざんおこなわれたであろうことは想像に難くない。……と、あくまで「想像」で、最近になって(中核派のおかげで!)三里塚闘争史にちょっと関心が湧くよりかなり以前から、私は確信していたのである。その確信を裏づける1つの重要エピソードに、今回の中川氏の『黒ヘル戦記』で2回、言及があるわけだ。
 『黒ヘル戦記』では、中核派いや〝マルゲリ派〟による〝外堀大〟のノンセクト活動家へのリンチは〝3・8分裂〟の当日のうちにおこなわれた、という設定になっている。中川氏は85年入学(『黒ヘル戦記』の主人公というか語り手の〝武川武(たけかわ・たける)〟も85年入学の設定)だから、83年の事件当時のことは〝先輩に聞いた話〟として、例えば第4話「ボクサー」では、次のように説明される。

 「マルゲリは熱田派支持の学生を片っ端から自治会室に引っ張り込んだ。自治会室では金属バットをもった男が素振りをしている。そんな状況の中で、熱田派支持の学生たちは自己批判を要求され、自己批判を拒否したものは、殴る、蹴るの暴行を受けた。熱田派の集会には行きません。北原派を支持しますと言うまで解放されなかった。一番、酷い暴行を受けたものは、昼に捕まって、翌朝まで監禁されて、そのまま病院に運ばれた」

 もちろん『黒ヘル戦記』の各話は小説として、フィクションとして書かれており、実際に83年3月8日の法大で、ここに描かれたとおりの事件があったのかどうか、現時点では私には判断のしようがない。高校を中退して大学には進まず、〝大学以外での若者の運動〟の活動家だった私は、実は80年代、90年代の学生運動史には疎い(もちろんフツーの人よりは圧倒的に詳しいが)。もしかすると、単に私が知らないだけで、私と同世代やちょっと上の世代の学生運動経験者には常識として知られてるような事件なのかもしれないし、中川氏が『黒ヘル戦記』のために作った架空の事件なのかもしれない。
 私が〝やっぱり!〟と膝を打ったのは、事実このまんまの事件が起きたのかどうかとは関係なく、仮にこれがフィクションなのだとしても、少なくともこういう着想が浮かぶような状況が、想像していたとおり〝3・8分裂〟直後の学生運動シーンには存在したのだ、と再確認させられたからである。少なくとも中川氏は、『黒ヘル戦記』に書かれたとおりであるかどうかはともかく何らかの形で存在したには違いない、中核派による〝3・8分裂〟直後のノンセクトへの圧力を、法大学生運動史上の重大な分岐点と考えているのであろう書き方をしている。〝3・8分裂〟が三里塚闘争史において重要なのは常識の部類だが(ちなみに熱田派はその後、91年に政府および空港公団との交渉を開始し、これはほぼかつて遠方派がいったんまとめた線で94年に妥結、熱田派にとってはその時点で三里塚闘争は終結している)、それだけでなく、現在のような〝何にもない大学〟が実現していく過程、つまりノンセクト学生運動が完全壊滅していく過程においてもかなり重要な事件ではないか、という私の直感はやはり当たっているっぽい。

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