「なごやトリエンナーレ」事件について

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 8月7日の夕方、大変つまらないがゆえに大いに話題になっているらしい「あいちトリエンナーレ」の会場で、報道によれば「『ガソリンだ』などと言いながら警察官にバケツで液体をかけたとして」公務執行妨害の容疑で逮捕された「自称・室伏良平容疑者」についても、それなりに話題になっているようだ。
 が、Fラン国家のFラン報道があまりにも低レベルかつ断片的なため、これが一体どういう事件なのかほとんど理解されず、ツイッターなどではトンチンカンな言及も多い。ちょうど、軟弱ヘナチョコ文化人らによって主導されている「あいちトリエンナーレ」の安易な企画が、Fラン国家のFラン国民どもによる低レベルな反発を招き、「会場にガソリンをまいてやる」云々、脅迫電話や脅迫メールなどが相次いでいることが連日報道されていたために、この事件もその流れで“理解”されているフシがあるのだが、それは完全な誤解で、慰安婦像がどうこうといった低レベルな争いとは、実は今回の事件はまったく何の関係もないのである。
 私も詳細をすべて把握しているわけではないのだが、日本を代表する反体制知識人だし、そこらへんの連中(もっともらしいことを云う文化人どもを含む)よりは多少は事情に通じているので、明らかにしうる範囲でおおよそのことを説明しておこうと思う。
 もともと私は、昨今のとくに左派どもが、逮捕者などが出た際に、対警察的な防衛を口実に被逮捕者の実名その他の情報をほとんど明らかにせず、結果として、さまざまの事件の詳細が超零細僻村のサヨク村の村民たち(および結局たいていのことは調べ上げてしまう警察)以外にはよく分からず、それら諸事件の背景や相互連関がマイナー情報化し、反体制運動シーンをますます閉鎖的なものとしていくメカニズムを批判してきた。被逮捕者が完全黙秘している場合にはそれなりの配慮も必要だが、今回は少なくとも氏名について被逮捕者は「自称」しているようだし、実は別の人が逮捕されていて「室伏良平」を偽称している可能性も疑いつつ、しかし報道で見られる被疑者連行の映像で確認したところ、その人物はどうもやっぱり私が知っている室伏氏とウリ二つであるから、室伏氏は少なくとも氏名については正直に供述しており、したがってその点の情報公開に関して私が特段配慮する必要もなかろう。また、調べようと思えば誰でも事件の背景について、室伏氏の救援を担ってさえいる者も含む直接の関係者のツイートなどからおおよそのことは把握できるし、ただそれが非常に複雑で、「よく分からん」という反応もかなり見られるために、私が私なりに整理して提示することにも意味はあろうし、あるいは必要かもしれないと考えた次第である。

 わざわざ云うまでもなく私はファシストであり、「九州ファシスト党〈我々団〉」というオソロシイ反体制組織の首魁である。この我々団には“芸術部門”を称する内部組織が存在し、2011年の秋頃から「反芸術」をスローガンに掲げてさまざまなオソロシイ活動を繰り返している。大雑把に云えば、第1次大戦中に「反芸術」を掲げて登場したダダイズムの理念を継承し、単にそれを歴史上の出来事としてあれこれ論じるにとどまらず、大いに実践していこうというグループである。彼らがとくに力を入れてきたのは、行政が主催する全国各地の大小無数の空疎かつ安易な芸術イベントや、そうしたものに乗っかる形で助成金まみれとなっているアート業界に対する批判で、その種のいくつかのイベントではさまざまな手法で具体的に批判的介入を試み、たいてい大失敗して玉砕しては、その経緯を『メインストリーム』というミニコミ誌にまとめて報告してきた。くだんの「あいちトリエンナーレ」にも何らかの介入を目論んでいるらしいことは数ヶ月前から私の耳にも入っていたが、現時点ではまだとくに何もやっていないはずである。
 一方、大阪にはこれとは別に、やはりたぶん一種の「反芸術」派と理解してもいいのであろう“お騒がせ”な集団が存在していた。小灘精一氏が主宰する「トラリー・プロジェクト」である。小灘氏は、「民族の意志同盟」というこれまたオソロシイ極右政治団体の関西支部長でもある。イタリア・ファシズムを掲げる我々団とは異なって、民族の意志同盟はドイツ流のナチズムを掲げており、またその作風も我々団の面白路線とは違って、見るからに恐ろしげなコワモテ路線なのだが、小灘氏個人は、もともと「未来派」に深甚な関心を寄せる芸術畑の人であるという。未来派とは、ダダイズムに先んじて登場したイタリアの前衛芸術運動で、ファシズム運動との渾然一体ぶりで知られる。
 おそらく未来派の一翼を担った「騒音音楽」を意識しての活動だと思うが、小灘氏は民族の意志同盟の活動とは別個に、所有するトラックの荷台に大きなスピーカーを積んで、本拠地とする大阪の難波界隈の路上に出撃し(稀に東京などへも長距離出張するらしい)、大音量でひたすら“騒音”を撒き散らすという“プロジェクト”をこの数年たびたび繰り返してきた。もしかしたら芸術活動なのかもしれないが、いまどき真に前衛的な芸術家が自らの活動を芸術などと称することはあり得ないわけで、実際どうなのかはともかく、小灘氏らもそれは決して芸術活動・表現活動などではないと云い、仄聞するところによれば、「前衛迷惑行為」などと称して(呼ばれて?)いたりもするようだ。当然いつも必ず警察を呼ばれ、逮捕されそうになるギリギリまでノラリクラリと続けられる警官たちとのコンニャク問答までを含んでの活動である。
 我々団の『メインストリーム』一派と大阪のトラリー・プロジェクトの面々は、かねてから親しくしていたし、また小灘氏が難波の名物ビル「味園ビル」の中に構える店(飲み屋? ギャラリー?)「トラリー・ナンド」では、私も大いに影響を受けている世界最過激の思想家・千坂恭二氏を囲んでの勉強会が毎月おこなわれていて、そんなこんなで私自身も、小灘氏をはじめとする民族の意志同盟・関西支部やトラリー・プロジェクトの面々とは交流があった。

 で、本題の室伏良平氏である。
 私が室伏氏と知り合ったのは、私が記憶している限りでは、2014年のことである(もしかしたらそれ以前の、不特定多数が参加する交流会・飲み会などにも来ていたかもしれないが、覚えていない)。同年1月から2月にかけての都知事選に際して我々団が展開した「舛添サンほめご…いや大絶賛キャンペーン」で、街宣車に同乗してマイクを握りたい人をツイッターで募集したところ、応じてきた1人が室伏氏だったのである。「禅問答か!」と云いたくなるような、室伏氏のヒネりまくった独特のスピーチは、まあモノローグ的なので沿道の通行人にはまったくウケなかっただろうが、車内は何度も爆笑に包まれた。以後、室伏氏は東京での“外山界隈”の大小のイベントや飲み会に出没するようになり、2016年の都知事選に際しての「ニセ選挙運動」でも何度か街宣車に乗り込んでマイクを握った。おそらくその頃までは東京の人だったのだろうが、いつしか愛知県に移り住んだようだ。
 愛知では、私が2014年から年2回やっている学生向けの「教養強化合宿」に参加したうちの1人が「名古屋アナキズム研究会」というのを主宰しており、私や千坂恭二氏を呼んでのトーク・イベントや、あるいは私や千坂氏の著書の読書会をやってくれていて、室伏氏もその主力メンバーとして活躍するようになった。むろん名古屋アナキズム研究会の面々は私を通じて『メインストリーム』一派ともつながっており、おそらく千坂氏を通じてトラリー・プロジェクトの小灘氏らともつながっていた。両者の「反芸術」のスタンスや、“助成金アート”批判、行政主催の芸術イベントへの批判などにも大いに感化されていたと思われ、今回の「あいちトリエンナーレ」開幕の少し前から、「なごやトリエンナーレ」を称してツイッター・アカウントを立ち上げて、もともと具体的に何をやろうとしていたのかは知らないが、「あいちトリエンナーレ」への批判的介入を計画し始めたらしい。先に述べたように『メインストリーム』一派も「あいちトリエンナーレ」を恰好の標的として何らかの介入を目論んでいたし、さらにはどうやらトラリー・プロジェクトの面々もそうだったようで、私が知っている限りでは、9月7日に名古屋市内で、「なごやトリエンナーレ」の主催による千坂恭二氏と『メインストリーム』編集部との合同トーク・イベントが予定されている。
 そういう陣形が形成されていたところに、何を思ったか、深い考えがあってのことか何も考えていなかったのか、批判的介入を企んでいる連中であることに気づかず“味方”だと誤解でもしたのか、本家(?)「あいちトリエンナーレ」の芸術監督・津田大介氏が、「なごやトリエンナーレ」のツイッター・アカウントに「連携しましょう」などというリプライを飛ばしてきたのである。反射神経に優れた百戦錬磨の反体制活動家を多く含む「なごやトリエンナーレ」側(および周辺)が、これを介入の絶好のチャンスと考えないわけがない。
 「あいちトリエンナーレ」の開催前日にあたる7月31日、「なごやトリエンナーレ」の面々はトラリー・プロジェクトの小灘氏と共に会場におもむき、「あいち」側の「プレ・イベント」に対置させる形で、「騒音の夕べ」と称して会場の真ん前で例の“前衛迷惑行為”を大々的に敢行したのである(後註.正確には「トラリー・プロジェクト」名義での活動ではなかった、とのこと)。これ自体はもともと「なごやトリエンナーレ」の立ち上げの時点で予定されていた行動であるようだが、津田氏の「連携しましょう」の一言に「いやもう是非とも連携させていただきます」的に呼応する形ともなったわけである。「あいち」側のスタッフが何事かと慌てて飛んできて、もちろんやがて警察も呼ばれ、「なごや」一派は会場付近から排除・駆逐される。まあそれだけの話で終わる可能性も高かったのだと思われるが、一連の過程で「あいち」側スタッフが発した余計な一言が、のちの逮捕事件につながることになる。
 意味づけは私にもよく分からないが、「なごや」一派のパフォーマンスは、単に騒音を撒き散らすのみならず、その騒音と連動して、たぶん音に反応する装置か何かを介して、絵の具も撒き散らされる仕掛けが施されていたらしいのである。「あいち」側スタッフは、「ちゃんと掃除しろよ!」と云い放ったという。おそらくムリヤリ排除されたためにその場で掃除をする余裕がなかったということだろう、「なごや」側は後日あらためて、つまり8月7日に、路上にこぼした絵の具を拭き取るために、再び「あいちトリエンナーレ」会場に向かったという次第だ。
 日本前衛芸術史上の最も名高い“傑作”の1つと云えよう赤瀬川原平らの「首都圏整理清掃促進運動」、つまり64年の東京オリンピックを前に行政側が大々的に繰り広げた「街をきれいに」キャンペーン(要は監視社会・管理社会の強化)に対する当てつけというかイヤミというか、白衣を着てマスクをして大袈裟に、道路に雑巾がけなどやってみせるパフォーマンスも先行例として意識されていたんじゃないかと思う(後註.「赤瀬川のごとき“芸術家”ふぜいと一緒にされたくない」的な意味で意識していた模様で、そのため参加者の服装を統一するようなことはせず、各自思い思いの格好で集まった、とのこと。ちなみに室伏氏はたいていの場合、太平洋戦争中の「国民服」でバッチリ決めている。また室伏氏は当日、黒ヘルをかぶっていたとのことだが、“黒”はアナキズムのイメージ・カラーであると同時にイタリア・ファシズムのイメージ・カラーでもある)。
 小灘氏、室伏氏ら「なごやトリエンナーレ」の数名は、バケツと雑巾を手に「あいちトリエンナーレ」会場前に現れた。「騒音の夕べ」の痕跡だと思われる路上の絵の具らしき汚れをゴシゴシと拭き取り、しかしこの1週間あまりの間に絵の具を踏んで点々と足跡を残しながら会場内にまで入った者があるやもしれず、念のために会場内の床も雑巾がけしておこう……という口実のもと、水の入ったバケツと雑巾を持って会場に入ったところ、警察を呼ばれたわけである。報道にあった「津田を出せ」云々は、そもそも津田氏が「連携しましょう」とリプライを飛ばしたのが始まりだという経緯を説明しようとしたのだろう(後註.津田氏のリプライのスクショをプリントアウトして持参し、提示したとのこと)。
 この押し問答の過程で、どうやら室伏氏が警官の1人にバケツの水をかけてしまったらしい。つんのめるかどうかして誤ってかけてしまったのか、わざとかけたのかは知らない。わざとかけたと室伏氏自身が接見に入った弁護士を通して表明しているという話もある(後註.救援関係者によると、「わざとかけた」とは云っておらず、「水を撒いた」ことを「事実」として認めているだけ、とのこと)。「ガソリン」云々も実際のところはよく分からない。一連の騒動を念頭に「ガソリンだぞ」的なことを云ったのか、それとも「ガソリンだったりして」みたいなことを冗談で云ったのか、あるいはこの部分は完全なるデッチ上げなのか、それは現時点では不明なのだが(後註.その場にいた誰かが、室伏氏の提げたバケツを指して、もちろんそこに入っているのが単なる水なのは承知の上で、「もしやガソリンでは?」的な冗談を云ったらしい。つまり“ガソリン”云々は室伏氏の発言ではないようだ)、少なくとも警官たちを含めてその場にいた全員が、バケツに入っているのは単なる水であることをとうに承知していたのは確かだという。「バケツで“液体”をかけた」という、わざと誤解を招くような、マスコミによるオドロオドロしい表現は、警察発表の垂れ流しだとしてもFラン国家のそれに似つかわしい、ろくでもないものだが、結果としてはこのあまりにもショボい事件に世間の注目を集めることに貢献してくれたとも云える。
 ともかくそんなわけで室伏氏は公務執行妨害で逮捕された。どの程度の量の水をかけたのか分からないが、べつに何も害はないのだし、仮にひとすくいぐらいのことであれば、あるいは誤ってかけてしまったふうを装ったのであれば、まさか逮捕されるとは思っていなかったかもしれない。たぶん初めての逮捕だろうし、さぞ不安で落ち込んでいることだろうと思いきや、室伏氏はどうも引き続き意気軒昂で、「もし私が起訴されれば名古屋地裁が『なごやトリエンナーレ』のメイン会場となるだろう」などと弁護士を通じてメッセージを送ってきているらしい。
 警官に水をかけたぐらいのことで、まさか起訴はなかろうとは思う。しかし私があちこちで繰り返し指摘してきたように、現在は引き続き95年のオウム事件を起点とする反テロ戦争=第4次世界大戦の戦時下なのだから、起訴などという異常な対応もあり得ないことではない(後註.Fラン人民が多いので云わずもがなのことをわざわざ追記しておくと、第3次大戦は長い消耗戦・持久戦として展開された、いわゆる「冷戦」のこと。私のオリジナルの思いつきのトンデモ史観ではなく、私は支持してないが昨今のインテリ左翼どもの基本文献であるネグリ&ハートの『マルチチュード』にも、「“冷戦”=第3次大戦、“反テロ戦争”=第4次大戦」という認識ははっきり露骨に書いてある)。逮捕から4日を経た8月11日現在、室伏氏はまだ釈放されてはおらず、「なごやトリエンナーレ」の面々は救援会を組織し、早期釈放を求めて動き回っている。弁護士費用なども必要であろうし、協力できる者は協力してほしい。
 もっとも、室伏氏自身は早期釈放などよりも、事態がますます面白い方向に展開していくことをこそ望んでいるようにも思われる。また、「反芸術」(室伏氏らの自称では「超芸術」)を掲げる室伏氏に対して、その行為を「芸術」として擁護するようなことは一種の侮辱ともなりかねない。知恵のある人は、「芸術」として擁護する以外のロジックで室伏氏の行為を正当化し絶賛するレトリックを、考案し表明し拡散することにイソシんでもらいたい。

 以上、とうてい140字では説明しがたいために、どうも広く理解されるには至っていないらしい、今回の事件について現時点で私が把握している複雑な経緯である。


 ※ 絓秀実は『革命的な、あまりに革命的な』の中で、現に存在する否定的な事物に対して、自らをそれと「似ているもの」として提示することによって、その否定的な事物をずらし、無化していくことを試みた「六八年的」な手法について論じている。室伏氏の提げたバケツを満たしていた単なる水は、ガソリンと「似ていること」によって、「あいちトリエンナーレ」をめぐるガソリンを云々しての一連の騒動のクソくだらなさを完膚なきまでに露呈させたのである……的なレトリックを構築しようとしてもみたのだが、いまひとつ巧くいかないので誰か私より聡明な方にお任せします。

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