反共ファシストによるマルクス主義入門・その17

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その4

  「その16」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“マルクス主義入門”の“本編”で、第14部からは“おまけ”的な“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 第13部までエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』に、第14部からは松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』に、主に依拠している。

 第17部は原稿用紙18枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその5枚分も含む。

     ※     ※     ※

   23.レーニンの“党”(承前)

 ロシア革命史上の有名なスパイには他にエヴノ・アゼフ(1869〜1918)という人物がいる。社会革命党の創設メンバーの1人で、当然にも大幹部であり、ボリス・サヴィンコフ(1879〜1925。死後に発表された回想記『テロリスト群像』や、社会革命党のテロリストの内面を描いてセンセーションを巻き起こした1909年のロープシン名義の小説『蒼ざめた馬』などでも知られる)と共に社会革命党(エスエル)傘下の要人暗殺部隊「戦闘団」を率いて、実際に何人もの要人暗殺を成功させている。そのアゼフが実はやはりロシア秘密警察のスパイだったのである。

 帝政ロシア時代の社会革命党戦闘団OL(引用者註.何の略か不明)の隊長エヴノ・アゼフは、同時に秘密警察オフラーナに所属する特殊任務の高級警官であった。彼は、一八九三年に仕事を始め、一九〇八年にブルツェフ(引用者註.社会革命党の古参活動家)に告発されるまで、実に見事にその二重性を保ち続けた。驚くべきことに、彼の活動の情熱は双方に全く公平に支払われていたのであり、その活動内容が明らかにされてくるに従って、果して彼がどちら側の人間だったのか、全く分からなくなってくるのである。彼が社会革命党の同志を多数密告しているのも事実であるが、同時に彼は、有能な戦闘団の隊長として、内相プレーブの暗殺をも成功させているのである。そしてこの暗殺計画については、一切警察側にもらしていない。警察は彼が戦闘団に加わっていることは知っていたが、彼がその隊長であることは、最後まで知らなかったのだ。彼は告発されて戦闘団から追放され、一九一八年にベルリンで死亡したのだが、未だにその真意は謎とされている。
 (別役実『犯罪症候群』81年・ちくま文庫
 70年の戯曲「スパイものがたり」上演パンフからの引用部分)

 脱線ついでに触れておけば、日本にも「スパイM」こと活動家名・松村昇、本名・飯塚盈延(1902〜65)という有名な例がある。

 ひとりの男が死んだ。昭和四十年九月四日のことである。
 翌日、ごく内輪だけのささやかな葬式の手はずが整えられた。ところが、式の直前になって、予期せぬ事態が持ち上がった。役所が火葬許可証を出せないといいだしたのである。男の本籍地に問い合わせたところ、該当する戸籍が存在しないというのだ。
 (略)
 すったもんだの末、業務終了まぎわになってようやく役所が折れ、許可証が交付された。式は滞りなく行なわれ、男は戸籍のないまま葬られたのである。
 が、はたして男に戸籍はなかったのだろうか。そんなことはない。男の姓名と本籍地が偽りだったのだ。本当の姓名と本籍地は別にあった。男は姓名と本籍地を偽ったままに生き、そして死んだのである。男ばかりではなく、その妻子たちもまた姓名と本籍地を偽って生きてきたのであった。
 かくして、男は本当の戸籍を抹消されることもなく、今なお戸籍上は生きていることになっている。放置する限り、男はさらに生き続けることだろう。実は、この男こそ、戦前日本共産党史上に名高い謎の人物、松村昇ことスパイMだったのである。
 (小林峻一・鈴木隆一『スパイM』80年・文春文庫)

 飯塚盈延はマリノフスキーよりもアゼフに近いタイプの「スパイ」である。いや、近いというよりアゼフそのものと云ってよいかもしれない。

 飯塚によって特高警察に売られ、拷問死を含む獄死を遂げた共産党員も多く、したがって復讐を恐れ、また特高の秘密も握っているわけであるから、そちらに〝消される〟可能性もあって、死ぬまで正体を隠しとおしたのだ。

 飯塚が〝活躍〟したのは、1931年から32年にかけての約2年間、「非常時共産党」と呼ばれる、風間丈吉(1902〜68)が日本共産党の中央委員長を務めた党体制においてである。「非常時」というのは、その活動期が、満州事変が起きるなど、戦争へ向けて日本がいよいよ騒然とし始めた時期にあたるためである。

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