私の反原発運動

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 宮崎市で不定期に発行されている超アーバンなサブカルチャー誌『サルママ』の、2014年9月発行の第5号に寄稿した文章である。有料のミニコミに発表したものだからサイトなどでの公開は避けてきたが、もう発行から5年以上経つし、そろそろ公開してもかまわんだろう。
 タイトルどおり、かなり多彩に独自に(朝日新聞とかが安心して推奨する類のそれらとは無関係に)展開してきた私の〝3・11以後の反原発運動〟の、この2014年秋の時点までのクロニクルである。

 分量は原稿用紙37枚分で、つまり本来なら当社(?)基準で370円となるところ、持ってけケーサツ、気まぐれな出血大サービスで200円としておく。無料公開部分の分量もテキトーである。

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 反原発運動はカッコ悪い
 何がカッコ悪いと云って、ロックだパンクだヒップホップだとノーフューチャーでデストロイなことを息巻いてたはずなのに、反原発に目覚めるや急に地球だ環境だ食の安全だ子供達の未来だ憲法9条だとピースフルきわまりないことを云いだして、嬉々としてジャンベとか叩き始めるような手合いほどカッコ悪いものはない。それまでさんざん過激っぽいこと云ってたのは要するに全部薄っぺらいファッションに過ぎませんでしたと自白しているようなものである。
 だから「ロックだのパンクだの……」系の比較的マトモな部分には、むしろ反原発運動に反感を持っている者が多い。
 が、それはそれで話にならない。反原発運動がどんなにカッコ悪かろうと、原発の存在が正当化されるわけではない。原発を肯定しているのは悪人(利権にあずかってるから肯定してる人)とバカ(利権にもあずかってないのに肯定してる人)だけである。たまに見受けられる、カッコ悪い反原発運動への反感をあえて表明するような振る舞いは、カッコ悪い反原発運動よりもますますカッコ悪い。カッコ悪いものに同調してないオレってカッコいいでしょ、という自己保身の自己満足(プチブル個人主義!)がミエミエだし、しかも結果的には原発推進派(悪人とバカ)を利するだけだからである。せめて沈黙を守る堪え性がないのなら、唯一正しい選択は、カッコ悪くない反原発運動を独自に模索することである。

 私は「3・11」のはるか以前から頑固な反原発派である。
 日本の反原発運動は88年に短期間だけ(半年間強?)やたらと盛り上がったことがある。86年のチェルノブイリ原発事故を受け、同じような大事故は日本の原発でも起きうること、そして電力会社を巨大なスポンサーとして抱えるマスコミは原発問題をタブーとしていることなどを平易に説いた、広瀬隆という人の『危険な話』という本が、87年に超マイナーな出版社から刊行されるやクチコミでまたたくまに拡がり、ついにはベストセラー入りした。全国各地で頻繁に開かれた広瀬隆の講演会は常に盛況となり、広瀬の本や講演をきっかけに目覚めた主婦や若者が反原発運動を開始、やがて88年2月、香川県高松市の四国電力本社前に数千人の反原発派が突如として結集・顕在化して、以後およそ同年秋頃まで、原発問題がマスコミ報道をも賑わせた。運動の(突然の)高揚という後押しがあったために、この約半年間のみ、原発批判はマスコミでも解禁されていたのである。歴史を忘れている人々(忘れたフリをしているようにも私には見えるが)の中には、キヨシローは「3・11」のはるか以前から原発問題に言及しててスゴい、とか寝ぼけたことを云い出す者も散見されるが、当時は反原発が一種のブーム(悪い意味ではない)だったのであって、キヨシローもそれに共振したにすぎない。今に続く『朝まで生テレビ』の第1回放送が88年4月で、云うまでもなくテーマは原発問題だったぐらいである。その他ここらへんの細かい経緯は私の著書『青いムーブメント』(彩流社)に詳述したので今回は省く[その後、より正確な全体像を『全共闘以後』にまとめた]。
 ともかく、そういう時期に私は高校生の身で政治活動デビューして、かなり感化されたわけである。原発問題を活動の中心テーマに据えたことはないが、「原発はいかん」という立場は88年段階でいわば刷り込まれている。
 翌89年あたりまでは世論調査でも原発に批判的な声が過半数を占めていたはずだが、90年代初頭には早くも原発問題は再びマイナー化していた。93年だったか、環境問題に取り組む福岡の学生たち数十名の合宿に参加したことがあるが、私以外の誰一人として原発問題には関心すら持っておらず、浮きまくったイヤな思い出がある。91年頃から「3・11」までの実に丸20年間、いったんは焦点化したはずの原発問題は跡形もなく消え去り、原発反対とか云うと最近の「地震兵器がどうこう」の陰謀論者なみの「トンデモ」扱いをされたものだ。
 それでも私は88年以来、反原発の立場を捨てたことは一度もない。例えば99年春に福岡で展開した「投票率ダウン・キャンペーン」の際、無届のニセ立候補者として作成した文書の中にも「原発推進派に破防法適用」のフレーズがあるし、同じく99年末に茨城県東海村で起きたJCO臨界事故に際しても、昨今同様、往々にしてカッコ悪い反原発運動を少しでもどうにかするために、偶然知り合った佐賀県の若い反原発グループ向けに「もうガマンの臨界だ」と題したビラを作成・提供したりしている。05年に鹿児島県隼人町議選に立候補した際には「近隣の原発立地自治体に文句を云う」という公約(?)を掲げた。私が主宰するファシズム革命結社「我々団」のサイトには「原発反対・核武装賛成」の立場を明らかにしたページがあり、作成は07年か08年だが、「3・11」以後も一言一句そのままである。
 「先見の明」を自慢しているのではない。原発がヤバいことは88年時点ですでに自我に目覚めていた世代にとっては(バカでなければ)分かりきったことで、にもかかわらず大事故が起きる前に原発を止められなかったのだから、全然自慢にならない。と同時に、「3・11」を契機に再び(質的にはともかく量的には)拡がり始めた反原発運動を目の当たりしても、「事故が起きてから反対したって遅いんだよ」とも思ってしまう。斉藤和義に「ダマされてたんだぜ」みたいなことを歌われると、「オマエいくつだよ、キヨシロー聴いたことないのか」とか云いたくもなる。少なくとも88年の高揚は事故前の高揚であり、したがってその担い手は幾分なりとも先進的な=カッコいい人々だったのに対し、「3・11」以降の「高揚」は、しょせん我が身に災いが降りかからなければ動きやしない怠惰な一般人が担う、事故へのヒステリー反応的な側面なきにしもあらずのつまらない運動だと見なして、それでもまあ原発はない方がいいに決まっているのだから、適度に距離を保ちつつホドホドに関わってきた。

 初期は、福岡でも頻繁におこなわれ始めた反原発デモに数名の同志やシンパと共に参加し、ヘンなプラカードが林立する一角を作った。その文言は例えば「核の平和利用反対」「国賊東電に天誅を」「原発反対問答無用」「節電しません勝つまでは」「原発推進派に破防法を」などである。「アナキズムとナショナリズムの統合」を意味する我がファシスト党旗「黒地に赤い日の丸」もこれ見よがしに掲げた。ネトウヨどもの集団が沿道から「北朝鮮に帰れ」などと罵倒してきた時には「おまえらはアメリカに帰れ」と罵倒し返した。我ながら一寸たりともエコでもロハスでもラブ&ピースでもない。初めてデモに参加したはいいがピースフルな雰囲気にはなじめない、という者もきっといようから、そんな正しい青少年の模範となるべく務めたのである。
 「原発推進組曲」と題した替え歌メドレーの弾き語り動画をユーチューブに公開したのは「3・11」の4ヶ月後だ。「3・11」直後から「何か替え歌を」という構想はあったが、原発問題がテーマだといかにもアリガチな社会風刺になってしまいがちで、ああでもないこうでもないと足踏みしているうちに、斉藤和義が自曲「全部君だった」を「全部ウソだった」と替え歌にして自分でユーチューブに公開した動画が話題になったので、とりあえずそれより水準が高ければよかろうという妥協の産物ではある。メドレー1曲目はキヨシローの、最終曲は斉藤和義の替え歌。タイトルどおり、すべて原発推進派の立場からの(当然イヤミな)歌詞である。斉藤和義は初期のヒット曲「大丈夫」を拝借し、云うまでもなく「原発も放射能も大丈夫です」的な詞にした。
 事故のあった2011年中におこなったのはせいぜいそれぐらいだ。先述のとおり、あまり本格的には乗り気になれなかったせいでもあるが、同時に、さすがに今回みたいな大事故が起きれば、いかに内実がしょーもない運動でも量的には拡大するだろうし、今度こそ原発は止まるだろうと楽観視していたせいもある。凡庸でつまらない反原発運動にアクセントというかスパイスというか、ちょっと華を添えられればそれでよかろう、ぐらいの気持ちでいた。
 ところがちっとも原発は止まらない。2014年7月現在、たしかに日本中すべての原発は止まってはいるが、向こう側の事情で一時的に止まっているだけである。法で定められた定期点検の時期がきて順次止まっていった原発を、定期点検が済んだからと順次再稼働できずについに全停止にまで至ったのは、たしかに反原発ムードに政府が気兼ねしているためかもしれない。しかし今のところ反原発運動は政府に原発を完全にあきらめさせるには至っていないし、逆に政府は再稼働のタイミングを今か今かと計り続けている。再稼働の第1弾として、福島から遠く原発問題への関心も薄い鹿児島県の川内原発が狙われているというのが現段階だが、今年じゅうであれ来年にズレ込むのであれ予定どおり川内原発からであれ他のどこかの原発からであれ、ともかく最初の1基の再稼働が強行されればあとはナシクズシとなるだろう。

 思うに現在の反原発運動は正攻法にすぎるのだ。デモであれ選挙運動であれ、「社会変革や意見表明の方法」として体制側にとって「想定内」の範囲で何をやっても原発は止まらない。体制側が恐れるのは何よりも秩序の崩壊である。原発をやめなければ秩序が維持できなくなると感じさせれば原発は止まる。違法なことをやれと云っているのではない。べつに違法だから悪いということはないが、違法なことをやれば当然簡単に弾圧されてしまう。違法ではないが体制側にとって「想定外」であるような戦術を、次々と繰り出すべきなのである。
 「3・11」から1年を経て、このままでは原発は止まらないなと感じ始めたあたりから、私は本格的に「独自の反原発運動」に力を入れるようになった。主に展開したのは「選挙妨害」である。以下にその具体的戦術について延べるが、もちろんこんなことを私1人がやったところで大勢に影響はない。私がやろうとしてきたのは「新しい戦術の提示」である。一見いかにも違法な戦術に思われようし、ただ提案しても誰も実行に移すまいから、まず私が自分で実際にやってみせることによって「この程度で捕まったりはしない」ことを証明し、後に続く者が続々と現れることを期待したのである。

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