私の〝公有地闘争〟(前篇)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「前篇」と「後篇」のみです。
 いつもと同じく原稿用紙1枚分10円で料金設定してますが、いつもと違って無料で誰にでも読める形にはしないほうがいいかなあという話も多く、冒頭無料公開部分はとくに後篇はかなり少なめです。
 「前篇」は原稿用紙換算44枚、「後篇」は同45枚です。

     ※

 人口数十万人クラス以上の大都市であれば、その市街地に、演劇なり音楽なり何なりの文化イベントに利用可能な公園の1つ2つ、あって当たり前だろうという感覚で少なくとも私はいる。が、Fラン土人国家ニッポンでは、人口1000万の超巨大都市・東京ですら、例えばテント芝居のために公共の公園を借りるには大変な苦労を強いられる。公共の場所は〝誰のものでもない〟がゆえに、いろんな人がいろんな目的・用途で(そりゃまあ半永久的に占有するのはダメだが短期間であれば)使用できると考えるのが近代人の常識だが、日本人の圧倒的大多数はFラン土人なので、公共の場所は〝誰のものでもない〟がゆえに全員が賛同する目的でしか使用してはならないというFラン土人感覚を抱いており、役人ももちろん同様の感覚で、ところが当然ながら全員が賛同するものなんかあるわけないので、結果として公共の場所は誰も使用できないことになってしまう。
 70年前後にテント芝居を創始したいくつかの劇団のうちの1つである「黒テント」は、〝公有地闘争〟という方針を提起した。公共の公園を使えなくても、例えば神社の境内であるとか、商業施設などの駐車場とか、あるいは単なる空き地とか、私有地を交渉して借りて公演を打つことはもちろん可能なのだが、あくまで公共の公園を行政と交渉して勝ち取ろうという方針である。黒テントは〝革命の演劇〟〝運動の演劇〟を標榜していた劇団だし、自らの演劇活動を通して、前述したような、Fラン土人根性丸出しの日本人の〝公共〟感覚を打破し、またそれに支えられた行政による公共空間の過剰な管理体制に風穴を開けようとしたのだと思われる。
 『全共闘以後』でも言及したように、「曲馬舘」系3劇団(風の旅団、夢一簇、驪團)をはじめとする80年代の第2次テント芝居ムーブメントにおいても、この〝公有地闘争〟の理念は継承されていた印象がある。曲馬舘の中心人物だった翠羅臼氏は、もともと黒テントの出身だったというから、とくに不思議はない。第2次テント芝居ムーブメントの近傍にいた「劇団どくんご」の場合も、それら曲馬舘系3劇団からの影響もあろうし、中心人物の〝どいの〟こと伊能夏生氏がこれまたもともと黒テントの影響を強く受けており、〝公有地闘争〟の理念をはっきりと共有している。
 私もこの10年ほど、主に劇団どくんごの公演地開拓のため九州数ヶ所で対行政交渉を担当し、つまり〝公有地闘争〟をその前線で担い、今のところそのすべてに勝利してきた。以下、その経験を振り返ってみたい。

 私が初めてテント芝居に関係を持ったのは、まず単に〝観た〟ということでは88年11月の上記・夢一簇の広島公演ということになる。『全共闘以後』にも登場する、当時の〝反管理教育〟運動での広島の同志を訪ねていった際に、その同志に誘われたのだ。
 終演後にその場で観客も含めた打ち上げとなるのはテント芝居の伝統のようなもので、私も知らない人と新たに知り合う努力を駆け出しの活動家として当然ながら日々心がけていたから、その初めて行った夢一簇・広島公演の打ち上げにもそのまま残ったのだが、その時、その場に忘れ物をしてきてしまった。単にそれを引き取りにいくだけの目的で、その1、2週間後の同・福岡公演の会場に出向いたところ、「せっかく来たんだから観ていけ」ということに当然なり、せっかく観たんだから打ち上げにも当然残ることになり、私がたまたま入った車座の中にいたのが、『全共闘以後』では紙幅の関係でただ名前を出すことしかできなかった、私の師匠格となる故・秋好悌一である。秋好は九州大学医学部に8年行って中退した80年前後の九大ノンセクト活動家で、つまり私とは干支が同じぐらい離れていた。私は当時まだズブズブの社民の軟弱ヘナチョコのリベラル派なのだが、秋好はその数年後の私とほぼ同じように、すでに福岡の新左翼ノンセクトの世界で蛇蝎の如く嫌われていた、その意味でも私の直系の先輩格の異端的極左活動家だった。のち94年に病死するまで、秋好は私をいじめ抜き、しごき抜いて鍛えまくるのだが、その話は今回も措こう。
 秋好は実はその夢一簇・福岡公演の現地スタッフ代表であり、あっというまに〝秋好一派〟の一員と化させられた私も、引き続き秋好を代表とする翌89年秋の夢一簇・福岡公演実行委員会の末端に組み込まれた。末端とはいえ、秋好が私に命じたのは、要するに〝公有地闘争〟である。私が一応は〝反管理教育〟の活動家であることは当然ながら秋好にも把握されており、活動家たる者は議論に強くなければならないのは当たり前で、私が向いていると思われたのかもしれないし、あるいは実際に務まるかどうかはともかく経験を積むべきだと思われたのかもしれない。「役人は何だかんだとゴネて貸したがらないからな。とにかく強気でいけよ」とハッパをかけられて、私は1人で、借りようとしていた博多駅付近の公園を管轄する福岡市博多区役所の公園課に乗り込んだ。18歳か19歳かである。
 当時の私は、思想は軟弱だったが、高校時代からの管理派教師や御用生徒会との闘いの日々の中でそれなりの経験は積んでおり、議論には強いという自負があった。のちに云ういわゆるコミュ力はなかったと云わざるを得ないが、単に理屈の水準では、じっさい議論には強かったと思う。要はイヤな奴だったのである。どうせ学校の管理派教師と大差ないレベルの木っ端役人に負ける気がしなかったので、最初から高圧的な態度で交渉に臨んだ。具体的な内容はもう覚えていないが、役人がたしかに貸したがらなそうな態度でいるのを、その言葉尻をとらえて最初からアタマゴナシに「それはおかしいじゃないですか!」と攻撃し、役人のほうも「そんなふうにいきなりワーワー云われても……」と困惑気味だった印象だけは覚えている。まあ前年も貸していたわけで、本気で貸さないつもりではなかっただろうし、結局その場で意外とすんなり使用許可が出た。ほとんど何も説明していないに等しいが、とにかくそれが私の最初の〝公有地闘争〟の経験である。
 90年代に入ると第2次テント芝居ブームそのものが失速して、夢一簇のテント公演もおこなわれなくなり、それを活動の主軸の1つとしていた〝秋好一派〟もやがて自然消滅した。秋好の死後の90年代後半、「だめ連福岡」を事実上主宰していた私は、だめ連的な〝交流〟路線の一環として再びテント芝居の現場に顔を出すようになり、その頃に京都を拠点に活動していたテント劇団「魚人帝国」の99年の最後のツアーの福岡公演では現地スタッフ代表も務めたが、土地交渉は京都から出向いてきた劇団員たちが自らやったので、本稿のテーマと関係する話はない。ともかくテント芝居シーンとの関係はこの頃に復活し、その延長で01年に初めて「劇団どくんご」の芝居を観て完全にハマるのだが、タテ・バラシ(設営&撤去)は最初からいきなり参加しまくったとはいえ、スタッフになったわけではなかった。そもそも当時まだ、どくんごは一度も福岡公演をやったことがなく、私も九州の他県での公演に駆けつけていた。ツアーも4年おきで、毎年やり始めるのは09年からである。しかももともとは埼玉の劇団だったはずが、劇団ごと鹿児島県の山奥に引っ越してきたというのもあって、私のどくんごとの関わりはいっそう強いものとなった。

 さて、いよいよ本題である。
 サシサワリはたぶんないと思うが、あるかもしれないので、以下いきなり地名はイニシャルとする。丸分かりだが、一応、そうしておく。
 九州のF市(!)での公演は、どくんごのツアーが〝毎年体制〟となった09年に初めておこなわれた。いろいろ事情があって、現地スタッフの中心は私ではなく、F市で長年活動を続けてきた、つまり旅公演はやらずにF市界隈だけでテント公演もおこなってきた老舗のアングラ劇団が現地スタッフの中心となっていた。私は曲馬舘系の〝旅するテント芝居〟の系譜としか関係していなかったので、その劇団のことはよく知らなかったが、さすがに地元に根づいているだけあって、その劇団が本気で動けば、F市界隈のたいていの土地は難なく借りられるようでもあった。09年のF市公演は、「こんな場所でやってもよろしいンスか!?」と私も仰天するような、まさにF市中心部の歓楽街のど真ん中の公園(もちろん市の管轄の公有地)でおこなわれた。翌10年のどくんごF市公演でも、くだんの老舗劇団は「えーっ!?」というような、まあ東京で例えれば〝お台場〟のようなエリアの砂浜(やはりたぶん市の管轄だと思うが、県とかかもしれない)を借りてくれた。
 が、これまたいろいろ事情があって、どくんごF市公演の現地スタッフ組織は、徐々にその地元アングラ劇団ではなく私が中心を担う形に再編されていっており、11年には完全にほぼすべて私がやることになった。私も一応、F市を拠点として長年活動しているが、そのアングラ劇団と違ってちっとも地元に根づいてなどいない。むしろ地元では完全に孤立している。預言者で救世主なのだから当然なのだが、イエス・キリストの例を見ても明らかなように、そのような者にとっては〝地元が一番アウェー〟なのである。何のツテもない。
 こうして私の〝公有地闘争〟が手探りで始まった。

ここから先は

13,680字

¥ 440

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?