反共ファシストによるマルクス主義入門・その5

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  「その4」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。
 第5部は原稿用紙20枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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   8.フランス以外の社会主義者たち

 フランス以外の社会主義者にも目を向けよう。

 まず当時の“大スター”として、ドイツのフェルディナント・ラッサール(1825〜64)がいる。マルクスやエンゲルスよりも少し年少ということになるラッサールは、裕福なユダヤ人商人の家に生まれたが、同じくユダヤ人であったマルクスとは異なって、ユダヤ人差別の強い地域で生まれ育ち、ユダヤ人としてのアイデンティティにはこだわりを持ったという。しかし、何度も参照している関嘉彦『社会主義の歴史Ⅰ』のラッサールの章は、「少なくとも十九世紀のヨーロッパ大陸に関する限り、社会主義者ないし共産主義者と呼ばれた人々は、その生活においては、投獄、亡命ないし貧困などの苦しい生活を余儀なくされた人が多い。しかし短期間の懲役刑を受けたとはいえ、後には貴族ないしブルジョワに劣らない華麗な生活を送りながら、なおドイツ労働運動の創設者の一人として尊敬された人がいる。それがラッサールである」と書き出されている。

 10代半ばの時期にゲーテ、シラー、ヴォルテール、バイロン、ハイネ、ベルネなどを耽読し、とくに同じユダヤ人のハイネとベルネから民主主義・共和主義・革命主義の最初の影響を受けた。18歳で大学に入学すると、文献学や哲学、とくに古典とヘーゲル哲学を熱心に学ぶ。ちょうど自由主義の思潮と封建主義打倒の機運が高まり、各地に創設されていた学生団体「ブルシェンシャフト」の運動(これも「ウィーン体制」に抵抗する先駆的な運動として世界史教科書に太字で出てくる)に加わり、すぐに頭角を現してリーダー的存在となった。1844年、ヘーゲル哲学を本格的に学ぶため、ベルリン大学に移籍。サン・シモンやフーリエ、ルイ・ブランらにも影響を受け、社会主義者となる。1845年秋から1846年1月にかけてはパリを訪問し、プルードンやハイネ(有名な詩人だが、マルクスの年長の友人としても知られている)と会見した。

 まもなくある伯爵夫人と親しくなり、1846年から1854年にかけ、学問を中断して離婚訴訟を代行、これを反封建主義闘争の一環と位置づける。1848年、この訴訟に関連して逮捕されるが、2月革命期の陪審裁判で無罪判決を得たことが革命派の勝利として大きな反響を呼び、一躍ライン地方の有名人となる。ライン地方の民主主義派の革命運動にも参加し始め、この時期ちょうど当地で活動していたマルクスやエンゲルスとも初会見、以降マルクスらと連携してライン地方を奔走し、革命運動を指導した。革命の敗北過程で民主主義派の多くは武力抵抗へと路線転換し、ラッサールも武装抵抗を促す演説によって1848年11月に逮捕される。翌年の陪審裁判では無罪判決を得たが、再び逮捕され、禁固6ヶ月の判決を受けて服役。この過程での保釈中に極貧のマルクスのために広く募金を呼びかけたことが却って(自らの苦境を世間に知られたくはなかったのだろう)マルクスの怒りを買う。

 1854年、離婚訴訟が勝利に終わり、伯爵夫人が巨額の財産を獲得したことに伴い、ラッサールの生活も裕福になる。学業に戻り、さらに1857年にはベルリンに移住して『ヘラクレイトスの哲学』を出版、ベルリンの哲学界の寵児となったが、こうした成功もマルクスに妬まれる。1861年、マルクスのドイツへの一時帰国を斡旋し、マルクスをもてなしたが、マルクスの市民権回復はならず、マルクスとの関係も好転しなかった。同年イタリアを訪問して(日本の江戸時代と同じく分権的な封建社会が長く続いたイタリアで、やはり日本とほぼ同じ頃、明治維新に数年先んじて達成された「イタリア統一」の3人の功労者の1人であり、西郷隆盛がナポレオンやワシントンと並べて尊敬していたという)ガリバルディと会見し、強く影響を受け、ますます学問よりも政治運動へ傾いていく。1862年、万博でロンドンを訪問した際にマルクスの歓待を受けたが、関係はむしろ悪化し、最終的には借金問題で交友関係は途絶える。

 1863年、「全ドイツ労働者同盟」を結成し、指導者となる。この頃から、後に普仏戦争での勝利を経て国際政治の中心人物となるプロシア宰相ビスマルクと秘密裏に会談するようになったが、ビスマルクが一方で社会主義運動を弾圧しつつ、一方で労働者の団結権保護、世界初の社会保険制度導入など「国家社会主義」的とされる政策を推し進めたのは、ラッサールからの思想的影響によるとされる。しかし1864年、恋愛問題に絡む決闘で39歳にして突然、死去。

 その後の「全ドイツ労働者同盟」はラッサールの親ビスマルク路線も継承し、これに反発するマルクス系の「社会民主労働党」との長い抗争はドイツ労働運動の深刻な分裂だったが、やがて両者は徐々に結びついていき、1875年、「ドイツ社会主義労働者党」(マルクスの死後、エンゲルスが「マルクス主義」を急速に流布させていく時期にヨーロッパの社会主義運動の中心となる「ドイツ社会民主党」の前身)が結成された。ドイツ社会民主党はマルクス主義を放棄する1959年まで、マルクスを「思想上の父」、ラッサールを「運動上の父」と謳っていた。

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