ジェイソン・スタンリー『ファシズムはどこからやってくるか』書評(某紙ボツ原稿)

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 某新聞から珍しく書評執筆の依頼があり(書評の依頼自体は珍しくはないが、大手商業紙の書評欄というのはたぶん初めてだ)、頑張って書いたはいいんだが、読むに耐えない愚著だったので、当然ながら全否定の酷評になってしまい、担当者から「どうしたものかと昨日1日考えましたが、書評は読者に読んでもらいたい本を紹介するコーナーですので、やはり評者が全否定する本の書評を載せるわけにはいかないと思います」と連絡があり、要するにボツになった。原稿料は最初の提示どおり払ってくれるというし(さすが大手商業紙! 太っ腹!)、ボツにした以上は「著作権は外山さんにありますので、別媒体で発表するのも自由です」とのことだったので(いよっ!)、お言葉に甘えて早速公開する。
 くだんの愚著はジェイソン・スタンリー著、棚橋志行・訳の『ファシズムはどこからやってくるか』で、青土社から今年2月に刊行された。某紙からの書評(800字)執筆依頼は6月半ばにあり、〆切に設定されていた7月15日未明に大急ぎで書いて送信した。
 以下、本文。

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 「全体主義を戸外に追い出せ? ところが全体主義はそういう者たちの戸口に来ているのだ!」と哲学者グリュックスマンは語った。実際、著者の書きぶりは、著者が非難する「ファシスト」どものそれと何ら変わらない。
 ファシズムを「反知性主義」呼ばわりする、きっと知的なはずの著者いわく、ファシストは福祉や労働組合を敵視する。ファシズムがそもそもアナキズム的な労働組合運動の延長に生まれ、ムソリーニもヒトラーも福祉には熱心だったという基本知識もないらしい。あるいは「嘘も繰り返せば真実になる」と嘯くヒトラーに学んだか、そうしたデタラメな情報(フェイクニュース!)を列挙して「ファシスト」への敵意を煽る手法が、これまた著者がファシストの常套手段とする「プロパガンダ」以外の何なのか。
 ファシズムの猛威には必ず勝利しうる、なぜなら「私たちの誰一人、悪魔ではないのだから」と本書は締めくくられる。当然その「私たち」に「ファシスト」は含まれていまい。「国民を〝我々〟と〝やつら〟に分断する手法」もまたファシズムの特徴らしいが、ファシストどもは「悪魔」で「やつら」で「社会の敵」で「嫌悪すべき少数派」なのだ、と言外に確実に云われている。
 ファシズムはニーチェやベルグソンなど実存主義の系譜に連なる政治思想で、民主主義だか世界市民主義だか知らんが単に自らのそれとは異なる知的背景を持つ人々を「反知性主義」だ何だと罵倒する著者のような者たち(最近は「アンティファ」とか呼ばれるそうな)の傲慢こそ、忌まわしい政治暴力の温床なのだ。
 もとよりファシズム批判は徹底すればするほど、かのバタイユの「アセファル」の試みでさえ、自身ますますファシズムと似てしまう以外になかった。ならばいっそ異民族などにも寛容な〝より良きファシズム〟を創出せんと、既存の不寛容なファシズムを〝ファシストとして〟批判するほうが、潔いばかりでなく有効でもあろう。


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