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「悪は存在しない」感想と考察

 冒頭、鬱陶しいほど長く、地面から見上げる視点で、ただ木々の枝葉末節が流れていく映像を見させられます。リアルに森の中で実際に見るなら自然に見入ってしまうものだと思うけれど、映画の映像でこれを見させられると少しきつい。4,5分してやっと女の子(ハナ)が映り、流れていたのは、ハナが森林を歩きながら見上げていた視点だったのだとわかります。ラストもこれと同じ視点の映像が流れます。最後に瞳を閉じるがごとく、映像が消えるので、おそらく最後にハナが死んでしまったことを示しているのでしょう。
 
 映画のモチーフとしては単純で、規定不可能な自然界と人間の哀れさを対比しています。情報量はそれほど多くないと思います。個人的に前半は退屈に感じてしまいましたが、冒頭の執拗なまでの長い木々の映像やハナの父親タケルが薪割りをするシーン等にたっぷり時間が使われていることを考えると、自然やそもそも生きるとは、こういうもので省略不可能。これを鬱陶しいと感じてしまうのはすでにあなたが、無駄なものはどんどん削っていく簡単さ・速さ重視の現代社会のライフスタイルにどっぷり浸かっているんですよと監督から言われているようにも思えました。
 
 グランピング建設の事業を進める芸能事務所のタカハシとマユズミが地域住民にむけた説明会を行うところあたりからようやく物語が動き始めそうな予感がしてきます。説明会でのタカハシと地域住民の口論・意見交換はすごく現実をふまえて撮っているなと感心しました。私もよく実際にああいう交渉・意見交換に居合わせるので、経済的な生産性だけでもの考えて、本質を何もわかっていないタカハシ、根本的にそういうことじゃないんだよなと憤る当事者、ちょっとはタカハシよりマシで勉強不足だったと当事者に寄り添う姿勢は見せるマユズミ、みたいなのは本当に現実にいるよなあと。それぞれ本当によく見るリアルなキャラクターです。
 
 それ以降は監督お得意の、イマドキで現実に即した素な感じのコミカル会話で展開していきます。特にタカハシとマユズミの会話(時代を反映しているようにマッチングアプリの話なんかもしていました)は聞いてていて、過去作「偶然と想像」で登場人物たちが会話している感じと同じだなあと思わせられました。ドライブしながらの車中での会話が多いことからは「ドライブ・マイ・カー」を連想させます。
 
 一番つかみどころがない人物が主人公のタクミです。グランピング建設に反対しているわけではない。他の住民とはなにか根本から違う使命感でものを言っている。物静かでカタブツそうだけど年配の区長からは絶大な信頼を得ているらしい不思議な存在です。~ここは戦後の農地改革で与えられた土地でそんなに歴史はない~云々言っているので、人間が生きていくために資本主義的なシステムはやはりどこかしら必要であって、自分たちもシステムによる農地改革なくしてここに住めているわけではないとわきまえているからこそ、グランピング建設に完全に反対していないのでしょう。ただやりぎるな、やりすぎるとバランスがこわれる、とだけ言い残します。この「バランス」がおそらく本作のキーポイントです。その補助線となるのが「水はただ上から下に流れる。上でやったことは下に必ず影響する」云々です。「バランス」とは「水がただ上から下へ流れていく」こと、ありていに言えばあるがままの「生態系」です。「上でやったこと」とは人間の介入です。でも人間が生きていく以上、自然への介入は必然的に必要です。そうやって人類は生きてきたはずです。だからバランスへの介入は生きていくために不可避だけど、ただやりすぎるなと言っています。やりすぎるとバランスが壊れます。現実に原子力発電、産業化による大量生産・大量消費など人間の技術の行き過ぎが、規定不可能な危険性や温暖化・異常気象・環境破壊を生むように世界のバランスは壊れてかけています。
 
 ほとんど無口でしゃべるとしてもため口のロボット人間のタクミが不自然に「すみません」とあらたまって謝るシーンが二つあります。ひとつは、ハナを迎えに行くのを忘れていて、遊具で遊んでいる一緒にいたこども?から「もうどっか行ったよ」と教えてもらうシーン。もう一つはマユズミが森林の中で枝で手を切り、出血し、その処置をするシーン。どちらもすごく不自然です。一つ目のシーンははこどもに大人が「すみません」とあらたまって言っている不自然さ。二つ目のシーンは、それまでほとんどため口で話していたマユズミに対して急にあらたまって「すみません」という不自然さ。単純に迎えを忘れていたことから誤っているだけかもしれませんが。迎えの時間を忘れていたことを悔やむシーンは珍しく人間らしい様子をみせていて、印象的でした。
 
 鹿の話をするシーン。タクミが鹿は臆病で人間を襲うことはない、2メートルジャンプするから3メートルの柵が必要、逃げる力が残っていない手負いの鹿ならどうしようもなく人間に攻撃するかもしれない、それでもほとんど攻撃することない云々説明したときのマユズミとタカハシの反応とタクミの対照性も印象的です。マユズミやタカハシ都会人の思考は理詰めで因果的で「こうなればこうなる」といった発想です。「鹿が人を襲わないならそもそも柵いらないじゃないですか、とか、鹿の通り道がふさがれれば、どっか別の場所にいくでしょ、とか。たいしてタクミは「単純にわからない」とも口にするように、「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、人間の意図せざる帰結をも考慮にいれた生態学的発想をとっています。自然は単純な因果で説明できるわけもなく、未規定な複雑性が幾重にも存在します。それを人間が神のように理解できることはあり得ません。合理的な説明があれば、わかった気になってしまうマユズミ・タカハシと、人間の認知の限界をわきまえているタクミは対照的です。
 
 加えてハナとタクミはアニミズム的世界観を生きています。ハナやタクミが木々や鹿を見るとき、木々や鹿もまたハナやタクミを見ている。自然に囲まれ、そういう感受性で生きている。だからこそ、タクミは「鹿の居場所が失われたとき、その鹿はどこへ行くのか」とタカハシに問うように、鹿の視座をとることができます。アニミズム的世界観のなかでは、動物も静物も関係ありません。木や水や石もタクミを見ています。ただ鹿が動物で目がついているからということではありません。
 
 そうするとこの映画の難解な部分は最近の人類学の話ではよく耳にすることであるし、映画作品としてもそれほど珍しいものでないと思います。アピチャッポン監督の作品なんかはそういうことをよく描いていると思います。
 
 最後のシーン、タクミの行動は不可解に思えますが、あれがタクミにとっては当然の筋の通し方なのではないのでしょうか。何にたいして筋を通しているのか。それは鹿であり、森であり、自然であり、あの土地であるのだと思います。そこで生き、タクミはそれらをまなざしながら、それらもまたタクミを絶えず見ているのです。手負いの鹿は人間のせいで傷つけられました。人間が特権的であることを退けるアニミズムに生きるタクミはそのことにおそらく負い目を感じています。人のせいで傷ついた鹿が娘に対峙している。そのとき、手負いの鹿に敵対してでも娘を助ける行為をとることができるか。タクミにはできないのです。それはおそらくバランスを壊すことになるからです。人によって傷つけられた鹿がどうしようもなく、人間の娘を襲わざるを得なくなるとき、アニミスティックな視座から見ると、形式的には、人間が鹿猟をすることと、鹿が人間を襲うことは同じです。人間と鹿に優劣はないからです。そして、鹿猟をしながら、殺しきれなかった鹿に娘が襲われたときはその鹿を殺してまで娘をたすけるというのはアニミスティックな視座から見て、人間の傲慢としか言いようがありません。つまりこれが、きわめて人間中心主義的であるがゆえに、バランスが壊れるということなのだと思います。周りの土地、自然、鹿に見られながら、タクミはあえて、娘を傍観するという筋の通し方をしたのだと思います。それを破ることはそれらへの裏切りであるからです。そして、娘を助けようとするタカハシの首を絞めます。人間の傲慢さでバランスを壊さないためです。タカハシは何でタクミに首をしめられているのか全く理解できず「どうして?、なんなんだよ」といった感じで困惑していました。アニミズム的な世界観がなければ、当然ですし、多くの観客はきっとタカハシに同情してタクミの行動に困惑するのではないでしょうか。
 
 タイトルの意味ですが、そもそものあるがままの世界・自然において、人間の概念なんてちっぽけでなんの関係もなく、通用するはずもないことを示しているのだと思います。「すべてはただ、ある」ということを言いたいんだと思いました。私はこどものころ、森をみて、人間社会でいろいろ悩むことが馬鹿らしくなりました。この森は何かに悩むこともなくただ存在することを考えると、人間社会こそ特殊で異常だと思えました。
 
 善悪をテーマとする物語には大きく3種類あるように思えます。ひとつは善悪に原論の勧善懲悪もの。単純に正義のヒーローが悪を倒すという構図です。ひとつは、一見悪に見えるものも悪の理由があるという善VS善の構図です。敵対する者同士は互いを悪と思っているかもしれませんが、当人たちにはそれぞれの価値観があって、自分は正しいのだと互いの正義がぶつかります。葛藤を描こうとする点で勧善懲悪より一段上です。この善VS善は政治哲学的なテーマでもあり、価値観の多元性を前提するので人間社会を舞台としています。最後に、本作のように自然世界との対比の中で人間の善悪の概念を帳消しにするものです。人々に、私たちは人のつくる言葉や概念に閉ざされてしまっているのではないかと問いかけることで、観客が自明と思っていた概念を相対化するきっかけを与えます。

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