浮世渡らば豆腐で渡れ(4) 家は広かれ、心も広かれ
父、増築を決める
一年もたつと、豆腐屋の商売は少しずつ軌道に乗っていった。そんな中での長屋暮らしは、個性あふれる近所の住人たちに囲まれ、まれに珍妙な出来事に遭遇した。
ある日、長屋の小さな庭で、父が丹念に育てていた盆栽が、いつの間にか見えなくなり、家族で探し回ることがあった。しばらくすると、なくなったものと同じ盆栽が、ご近所の、とある家の下駄箱の上に載っていたと言って、母が驚いて帰ってきた。 さほど親しい人でもなく、父が進呈するわけもなく、盆栽がひとりで歩いていくはずもない。父も母も、商売をしていた手前、さわぐことはなかったが、だれかが盗ったのでなければ、怪現象だろう。
ことわざに「家は狭かれ心は広かれ」と言うものの、この頃、父は、手狭な家を住みやすくするため、長屋の後ろに鉄骨造りの2階建ての家を増築することに決めた。
もしかすると、共同住宅の棟割長屋で、わが家の1戸だけ増が築するのは面白くなかったのだろうか。
工事が始まってからも、実にいろんな事件が、藤井豆腐店の周りで起きたのだった。
たとえば母が、隣の住人に増築の挨拶に行くと、
「あんたんとこと、うちの境界線ちゃ、境の柱の中心やからの。建て増しすっときゃ、そこからはみ出さんでくれや」
と、わざわざ嫌味とも取れそうな、念押しをされたりもした。
わが家は工事が済んでから難癖をつけられても困る、ということで、敷地を越境しないよう、遠慮して柱より内側に増築することにしたものだ。
ところがである。後年、隣家も裏庭に納屋を増築することになった。
仕上がったのを見ると、越境どころのさわぎではなく、わが家の外壁にベターッと建物がもたれ掛かる構造になっているではないか。
言うはやすし行うは難しというが、あまりの言行不一致ぶりに、父や母が呆れ返ったのは言うまでもない。
噂とテレビ
工事中には、死んだ金魚を両手に載せて、店まで見せにきた人もいた。わが家の増築のせいで、庭で飼っていた金魚が死んだのだと言う。
「あんたん家の工事のセメントが、うちの池に流れ込んできたから死んだんや。可愛がっとった金魚なんに、どうしてくれるがけ」
いま思えば、工事の左官屋に相談すべきだったかもしれない。だが、苦情を聞いた母は、すぐ近所の金魚屋さんに向かい、
「こちらでいちばん良い金魚を売ってもらいたい」
と頼みこんだ。
この金魚屋さんは、町内のきれいな井戸水を使って金魚を育てており、市内では評判の店だった。その店で買った、高価な金魚を、母がお詫びとして渡したにもかかわらず、金魚の持ち主はいつまでたっても、
「藤井の増築でうちの金魚が殺された」
と言い触らした。
こうした噂には、事情を知る金魚屋さんも、気の毒に思ってくれて、
「藤井さん家は、あの時、お店でいちばん良い金魚を買ってお詫びされたがやぜ」
と庇ってくれた。
噂といえば、当時、こんな出来事もあった。
小学校低学年のころのわたしは、からだが小さく病弱で、教室の授業になかなかついていけなかった。クラス担任の先生は、わたしの近所の長屋に子どもを預けて子守りをさせており、職場への行き帰りの何かの折に「藤井豆腐店の幸子ちゃんは勉強ができない」と話したようだった。
それを聞いた子守りの人は、拡声器みたいに近所のあちこちに言い触らして回った。
「藤井さんとこのさっちゃんちゃ、バカながだって?」
そんな噂が、長屋の町に囁かれるようになり、子どもだったわたしの耳にも届いた。
こんな風に、ひとつのトラブルが持ち込まれ、それがなんとか収まりそうだと思っていると、また別の人が新しいトラブルを持ち込んでくるのが、長屋の暮らしだった。
間も無く藤井豆腐店の増築工事は竣工した。わたしたち家族は、しばらくの間、二階を建て増ししたあとも、これまでと変わらず、同じ仏間で寝食していたが、昭和33年(1958)の皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)のご成婚時に、まだ近所ではめずらしかったテレビを買い求めた。
するとどうだろう、増築中、陰で日向で、あれだけ文句を言ったのも、どこ吹く風で、近所の長屋の人たちは毎夜、十数人が押し掛け、テレビ鑑賞のためにわが家の仏間を〝占拠〟したのだった。
だれも悪びれないというか、並の心臓ではない。
こんな感じで、良くも悪くも、藤井豆腐店は朝から晩までにぎやかだった。
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