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病ませる水蜜さん 第十五話【R18G】

はじめに(各種説明)

※『病ませる水蜜さん』第二章『怪異対策課の事件簿』の第六話です。前回までの記事を読んでいる前提となっておりますので、初めての方は以下の記事からご覧ください。

※連続更新のため、あらすじやキャラ紹介は省略しています。
※このオリジナルシリーズは私の性癖のみに配慮して書かれています。自分の好みに合うお話をお楽しみください

【特記事項】
今回もR18Gです。洗脳された羊くんが、今回は精神的に穢されていきます。カントボーイ化、妊娠描写あり

ご了承いただけましたら先にお進みください。

病ませる水蜜さん 第十五話
 怪異対策課の事件簿 第六話

一『武神隷属作戦』

 羊とシンディが一夜にして消えた。「あのまま帰しちゃいけなかった」と墨洋は後悔するがどうにもならず。翌日の怪異対策課には明李、深雪、そして水蜜が集まった。礼は山の方に出向いており、「また羊さんを守れなかった」と悔やむ蓮と共に怪異による穢れを浄化する作業に打ち込んでいる。山にあった神霊の気配は完全に消え失せており、愛溟があの場所を用済みとして捨て去ったことが伺えた。
「挑発だね、これは」
 シンディの部屋に残されていたというかんざしを受け取り、水蜜は機嫌の悪そうな声でつぶやいた。
「これは私が昔、例の稲荷神にあげたものだよ。とても大切にしてくれて、死んだ時も亡骸と共に埋められたはず。郷徒くんの話を聞いてにわかには信じられなかったけど、本当に墓荒らしをして神の死体を使ってるんだね。その愛溟って奴は」
「恐ろしい話です。神霊に対してそんな所業、どんな宗派の人であれ、日本人がそこまでできるとは思えません」
 稲荷神を蜘蛛型のグロテスクなゾンビみたいにして操っているなんて、自分が見たら正気を保てなかったかも……と明李は戦慄する。
「だから、愛溟の名と身体だけを借りてる何者かの正体が全く検討もつかねぇってことだよ」
 墨洋が忌々しげに言う。
「愛溟のやつ、元いた宗教団体のことも手酷く裏切ってるようだが……評判を聞く限り、かなり敬虔な信者だったらしい。メディア露出の多い人間だったからかなりの情報が残っていたが、演技じゃそこまでできないってくらいに尽くしていた。たとえ他の宗教でも、神様に対して無礼なことをできる男じゃなかったと思うんだ。本物の愛溟ならな」
 稲荷神への罰当たりすぎる行動、かつての同胞たちを騙して怪異の苗床にした残忍さ。ここまで『愛溟風斗』という人間に手を汚させた、名前すら明かさない不気味な存在。未だ目的の全貌を明かさないまま、怪異対策課の仲間を攫い挑発行為を繰り返している。
「このメッセージを正直に受け取るなら、次に接触してくるなら水蜜さんだと思うんだが」
「誘導かもしれないけど、ここで水蜜様をフリーにしとくのは良くないですよね。他に守るとこ思いつかないし」
「というわけで、今日から捜査に進展があるまで水蜜さんを深雪様つきで地下の怪異収容エリアに保護しようと思う。今回ばかりは我儘は聞けないが、深雪様も異論は無いな」
「ああ。蜜はおれが守る」
「わかってるよ。礼くんたちまで攫われたら嫌だし。はあ……しばらく退屈になるなあ」
 水蜜は気怠げにかんざしを指先で弄んでいたが、手が滑って落としてしまった。床を滑っていったそれを拾おうとして、水蜜は屈んで羊のデスクの下へ潜り込んだ。
「あ」
 周りの空気が変わる。それで「しまった」と思っていては遅い。退路は塞がれていた。
「賢い君にしてはあまりにも迂闊だよ、水蜜」
 こちらは情報を与えた。門を開く能力、実際に人を転移させて仲間を目の前から消して見せた。扉を開く動作が無くとも、廃墟の鳥居くらいのものがあれば可能であることまで。ならば、机の下に空いた穴も『門』になりうると警戒すべきだった。
 そんな声が聞こえてきた。頭の中に直接響く言葉。水蜜の記憶を勝手に使い、最も嫌で寒気のする男の声を使って不快にさせてくる。間違いない。こいつが愛溟なる男だ。
「ここは……」
 真っ暗で、箱の中のような感じだった。目の前の壁を押すと、重たい扉が開いて外に出られた。壁一面に同じような扉がたくさんあった。寝転んだ人が入れるような大きめのロッカー……ではなく。
「霊安室かあ」
 廃墟のようで、あたりは荒れ果て設備も古くさい。水蜜には見慣れない場所だったが、そのくらいはわかった。地下らしく、窓はひとつも無い。電気は薄暗く灯っていて周囲を見回すことはそれなりにできた。
「おーい、こんなところに私を連れてきて、どうするつもりなの。早く話を進めようよー」
「はぁい。見つけましたよ。こんなところを門にしたんですか。主はお茶目さんですねー」
「あー……ハカセくんかあ」
 水蜜の目の前に現れたのはシンディだった。水蜜は彼のことが苦手だったのでげんなりした表情で出迎えた。容姿や細かい部分は違うものの、根本的な人間性が似ているのだ……水蜜に不老不死の運命を背負わせた元凶たるあの男……養父である啓沙果桃幻に。
「あなたの体に興味があります。研究のため協力してください」
「直球だなあ。郷徒くんが妬いちゃうよ?」
「ええ。ヨウからも是非にと」
 水蜜はからかうつもりで言ったのに、予想外の返事が返ってきたのでいっそう不機嫌な表情になった。水蜜は羊のことも嫌いだ。しかし桃幻に似ているシンディが、曲がりなりにも水蜜の子孫である羊にべったりくっついているのは非常に不愉快だった。更に水蜜自身にまで絡んでくるなんて最悪極まりない。
「嘘でしょ。ていうか、郷徒くんの体弄ってればいいじゃない。似たようなものなんだからさ」
「そう! ヨウのルーツはあなたにあると聞きました。ですから、とても興味深い。全身くまなく解剖したい。ヨウは解剖したら死んでしまいますがあなたは死なないそうですね! その超回復能力を見せてください!」
「え……普通に嫌だけど……逆にいいよって言われると思ってるの?」
「そうですか。ヨウなら嫌がりもせず許してくれるのに……ということは、ボクを受け入れてくれるママのような優しさはあなたからの遺伝ではなく、ヨウ自身の長所なんですね。また一つヨウのことを知ることができました」
「うへぇ気持ち悪……郷徒くんは本当に男運が悪いなあ。人のこと言えないけどね。これも私の業ってやつかなあ」
 悪態をつけど、一般的な人間の女性程度の体力しかない水蜜にはシンディに抵抗する手段が無い。大人しく従うしかないのだが、飄々とした態度を崩すことはなく話続けた。
「少しでも話を長引かせて、ここで逃げ回っていればミユキやレイが助けにくるかもしれない。そのためなら多少痛い目にあってもおとりになる。そう思ってますよね」
「だから何? 私はこう見えて、可愛いだけのか弱い怪異なんだよね」
「そういうところはヨウにそっくりです」
「は……」
 にっこりと笑う、シンディの外面だけ良い容貌に怖気がする。思わず怒りの感情が込み上げたところで……胸のあたりを、先端が鋭利になった触手が貫いていた。
「……っか、は……っ」
「ヨウも子宮を宿し、神の子を望んでいます。あなたは最近聖霊種の子を産んだとか。詳しく教えてくださいね」
「ああ……そうか」
 過去に水蜜が歩まされた、不老不死の怪異に変生するまでのプロセス。それを羊に再現させようとしている、西洋の呪術師を陰陽師の代用にして。愛溟の目的に少しだけ思い当たったところで、水蜜は気を失った。

 さて、羊を使って怪異対策課の本丸に文字通りのバックドアを仕掛けられるという、徹底的に煽りにきている愛溟の攻撃に墨洋は怒髪天を衝き、多少無理をしてでも深雪を解き放った。京都の月極も巻き込んで大規模な捜索がはじまったが、三人とも見つかる気配は無く徒に時が流れていった。
 人間たちはあらゆる手を尽くして愛溟の足跡を追っていたが、深雪はそれを無視し自分の嗅覚と足のみで水蜜を探していた。人間の協力など必要ないと思っていた。羊の助言を受け入れていたのは特別で、彼のいない状態の深雪は怪異対策課に協力する以前の迷い神に戻りかけていた。もちろん、それは愛溟も把握している。深雪が単独で水蜜を助けにやってくるところまで目論見通りだった。
 わかりやすく罠を仕掛けた。深雪に小細工は必要ない。ただ、水蜜を人質にして見せればいい。人気の無い区域、何もない広い荒地。四本柱を立てた中央に、痛めつけた水蜜を置く。それらはどの方角から侵入しても二本の柱の間を通過することになり、すなわち門となる。深雪も一目見てその意図を察した。しかし躊躇うことなく飛び込んで、水蜜を助けようとした。深雪には自信があったからだ。愛溟の領域に入ったところで、それを上回る力で押し通す。深雪にはそれができた。しかし……仕掛けられた門が深雪を誘い込むためではなく、誰かを門から飛び出させるための仕掛けだとしたら?
「!」
 柱の間を通り抜けた瞬間。深雪の真上に人の気配が発生した。深雪におぶさるように落ちてきたのは羊だ。しかし深雪は気にしていなかった。羊が背後をとったところで深雪に対して何かできるとは思えなかったし、羊の気配には危機感を覚えず気を許していた。そんなわずかな弱みすら、愛溟は利用し毒を流し込む。
 羊の手には十字架に似た短剣。深雪の太い首にしがみついて、喉にそれを突き立てた。小さな剣で刺されたところで、深雪にとっては針に刺されたほども痛くない。非力な羊を振り払うなど深雪には造作もないはず。しかし、深雪はなす術もなく倒れた。まったく動けなかった。体内にはたちまち毒のような何かが巡り、這い回って深雪を苦しめた。そう、蛇のように……その呪いには、覚えがあった。
「動けませんよね、前もそうだったからわかりますよね? この短剣は、水蜜さんの骨を削り出して作られています」
 深雪に後ろから抱きつくように密着して、羊が冷たく囁く。そして、突き刺した短剣を根元まで確実に捩じ込んだ。
 陶器のように白い骨を鋭く削り出し、魔力を練り込んだ金属で短剣型に組み上げた呪具。何故か柄の部分まで刃物状に磨がれていて、握っている羊のてのひらまで切り裂き短剣を血塗れにしていた。羊は水蜜に眠る神の呪いを利用したのだ、自身の呪われた血筋を活かして。攻撃は成功し、深雪はかつて水蜜の首を斬った時と同じように苦しみながら生け捕りにされた。
「賢く強い狼も、最愛の妻を奪われれば冷静さを失い罠にかかる。いやあ、子どものころ絵本で読んだ通りでしたね」
「シン」
 大人しくなった深雪の肩から降りた羊は、誰よりも愛する人……だと脳に刷り込まれた男が門の向こうから迎えにきたのを見て、嬉しそうな足取りで駆け寄った。
「捕獲作戦成功ですね」
「私はうまくできましたか」
「ええ、最高です。頑張りましたねヨウ」
 縋り付く羊の頭を、シンディが優しく撫でる。うっとりとシンディに身を預ける羊に、深雪は信じられないものを見る目を向けていた。羊は深雪と目が合うと無表情に戻り、冷ややかな声をかけた。
「怪異名『深雪』。やっと復讐を果たせた。あなたは今まで人間を何人殺したかなんて覚えてはいないでしょうけど、私は忘れたことはありません。あの三人のことを」
 違和感があった。まるで時間を遡ったような。水蜜を囮にして深雪を待ち構えていた、あの羊に戻ったような。
(おまえ、まさか……頭の中を)
 声を出そうとしたが、喉の中には血が溜まってごぼごぼと水っぽい唸り声しか出せなかった。
「目標は達成しました。すぐ帰りましょう」
「そうですね。がんばってくれたヨウにいっぱいごほうびをあげましょうね」
 おまえが、何かしたのか。そう言いたげな深雪の視線を悠然と受け流し、シンディは怪異の力を使って深雪の巨体を引きずり回収していった。

 一方その頃、骨を取られて呪具に加工されてしまった水蜜の本体の方はというと……言うまでもなく、シンディに散々調べ尽くされた後だった。傷を超回復でふさいでもすぐ解剖を繰り返され、骨だけでなく肉体のあらゆるパーツをサンプルとして切り取られ、特に子宮は念入りに調べられ、切り刻まれ、触手で犯して反応を観察されていた。
 愛溟の信徒となったシンディの研究室は、とある廃病院を異界化した場所にあった。愛溟の力で手術室は往年の設備を取り戻し、怪異研究施設として申し分のない場所になった。手術台に四肢を切断された状態で寝かされた水蜜はグロテスクな芸術作品のようにも見えた。四肢の切り口は再生に時間がかかる。手足を拘束する代わりに、毎日回復しかけた手足の肉を削り取っては焼かれているのだった。
 痛みに叫び疲れ、大人しく横たわる水蜜のもとへ羊がやって来た。羊は何の感情も読めない目で水蜜を見下ろしていた。
「ところでさ、なにその格好」
 憮然とした態度の水蜜が先に口を開いた。羊はいつもの地味なスーツ姿ではなく、仕立ての良いブラウスと、細い脚を引き立たせるトラウザーズで華やかに着飾っていた。
「似合わないですか? 知ってますよ。私は別に何を着たっていいんです。でも、シンがこれがいいって言ったから……」
「よく似合っていますよ、ヨウ」
 シンディに腰を抱かれて引き寄せられ、羊は表情の乏しい顔に恍惚を滲ませて身を任せていた。
「いやいや……いくら郷徒くんでも男の趣味が悪すぎる。叶わない恋に疲れたからって、そんな変態を選ぶヤケクソに走るのはイタすぎるよ」
「シンが変なのはその通りですが」
「それはわかってるんだ……」
「そもそも、私なんかを愛する人は変です。だから、私も安心して一緒にいられるんです。初めから変で壊れてる人なら、私の手で触れても汚れることはない」
「ヨウ? これからもボクだけを愛してくださいね」
「ええ、シンが望むようにしますよ」
 ああ……と何かを納得したように水蜜はため息を吐く。
「そっか……ハカセくんは元からほとんど狂ってたんだろうけど、郷徒くんのその感じ……弄られてるんだね、頭の中。後ろにいる君が、愛溟って人?」
 水蜜には見覚えの無い人物が壁際に立っている。美形ではあるが髪や瞳まで全身真っ白の、無機物めいた風貌の青年だった。
「はじめまして水蜜。そうだね、愛溟風斗と呼ばれているのは僕さ。この子たちには少し協力してもらってる。郷徒羊は最後まで抵抗していたから、仕方なく脳の一部を眠らせてある」
 愛溟がそっと羊の背後に歩み寄り、頬から顎にかけてそっと撫でてみせても。羊は人形のように表情ひとつ動かさない。
「で、羊を餌にしてこっちの彼も操ろうとしたけど、軽く理性飛ばしただけで簡単についてきちゃって。面白いよね」
「洗脳して従わせてる……上位の存在……神霊……なんか違うな……とにかく気持ち悪い。何者?」
「今の君に説明しても多分わかんないよ」
 愛溟はくすくす笑って答えた。
「まあ、日本の神様じゃないとは言っておこうかな。でも今の肉体は日本人だし、日本の神様の死体をリサイクルしたものも取り込んでいるから。君にとっては馴染みのあるものが『なんか違う』から不思議に思うんじゃない?」
 愛溟が手術室の電気を消してすぐ点けた。一瞬真っ暗になり、水蜜が視界を取り戻したときには目の前に旧友の変わり果てた姿があった。可愛いらしい白狐の少年が醜い化け物にされたのを目の当たりにして、さすがの水蜜も麗しい顔を歪めて舌打ちをした。
「そういうやつね……大体わかったよ」
「流石理解が早い。君も似たような存在だからかな」
「それで? 僕の友達の死体を墓から掘り起こし、私や雪ちゃんも捕まえて。日本の神霊で何がしたいの? 郷徒くんやハカセくんに何をやらせたいの?」
「水蜜に今していることはオマケかな。羊を使うのに邪魔だったんだ。今後のための情報収集くらいにはなっているけど……うん、やっぱりオマケ。水蜜、君とはね、まだなんだ。僕はほんの普段着な姿だし。舞台も相応しくないんだよ」
 愛溟の声は澄きとおって聴きやすく、心地よくすらすらと耳に入ってくる。布教活動が得意な人気者の青年だったというのも頷ける。それが今、邪悪な意思で喋っているのはなんとも冒涜的で、危険な人物だと感じさせた。彼もまた桃幻に似て、人間もどきの化け物だと水蜜は思った。
「今回の目的は郷徒くんが中心? なんで私を巻き込むの?」
「蚊帳の外じゃ味気ないからさ。この世界線で君はただ、観客に徹していればいい。水蜜、君の幼体が奏でる呪詛を聴けるのは、きっとこの周回が最初で最後だ。楽しんで」
 意味不明なことを一方的に言い、愛溟は立ち去った。最後に、最悪な提案を残して。
「じゃ、僕は他にやることあるからこれで。あとはシンディの好きにさせるよ。そうだ! そういえばアレ、やりたかったんでしょ? 交配実験」
「ええ、ええ! 準備はできているので、早速初めましょう」
 どうせ水蜜は勝手に修復するからと、乱雑に縫合を済ませられる。腹部の傷はすぐに塞がったが、手足はすぐに取り戻せない。何もできず全裸で手術台の上に転がっているしかない、水蜜の目の前に持ってこられたのは同じく無惨な姿にされた深雪だった。
「雪ちゃん……ひどい、こんな……」
 首に刺さったままの短剣のせいで、深雪は抵抗できない。強靭な精神と肉体を持つが故に、意識も五感も失われていないのが痛ましい。目隠しをされ、長かった髪と耳がざっくりと切られて、鋭い牙を封じるため厳重に口輪が嵌められている。口輪と短剣は外れないように重厚な首輪で固定されていて、両腕は肩の関節を外した位置で切断されていた。腕の修復を阻害するためか胸のあたりは拘束服のような布とベルトで雁字搦めにされていて、それ以外は何も身につけていなかった。そんな痛々しい状態にも関わらず、激しい興奮状態にある男根がやけに目についた。
「今は無力化させているからかもしれませんが、聖霊種にも薬は効くのですね。性的興奮する薬を大量に投与しています、しばらくは交尾することしか頭にありませんよ。スイミツのことは元々大好きのようですし、相性は問題ありませんよね」
「こんなことして、何になるのさ……!」
「聖霊種は繁殖するのか……男女の神の間に新しい神が生まれたとか、人と神が子どもを作ったとかいう大昔の言い伝えはありますが、実際に確認できた人はいません。あなたたち、カップルなんでしょ? ここで繁殖して見せてくれればいいだけですよ」
 水蜜の身体はうつ伏せにされ、腰だけを高く掲げた状態で固定される。手足を奪われ余計に小さく見える身体の上で、ただの猛獣にされた深雪の荒い息遣いが響く。
「カップルじゃないし、妊娠もしないって……やめ、やめて……手加減しない雪ちゃんの相手なんて、し、死んじゃうからぁ……」
 普通の人間であれば一撃で内臓を引き裂き、水蜜でもほんの束の間だからこそ耐えられるような質量の凶器が、媚薬でタガを外された状態であてがわれた。イヌ科のペニスは興奮すると根本にある亀頭球が膨れ、簡単には抜けなくなる。水蜜の華奢な身体は、深雪の巨体に覆い被さられてすっかり見えなくなった。ただ、苦しそうな声が聞こえてくるばかりになった。
「水蜜さんって、そんな獣みたいな声出るんですね」
 羊が冷ややかな視線で彼らを見下ろしている。羊にはとても逆らうことができなかった神霊二柱が、今は家畜以下に貶められ凌辱の限りを尽くされている。本来の羊であれば、すぐにでも救おうとしただろう。どれだけ自分が酷い目に遭わされようとも、相手も酷い目に遭えばいいなんて思うほど彼は自分の価値を高く見てはいなかった。しかし、今の彼はその卑屈な善性をも封じられていた。愛溟によって善き思い出は絶望で黒塗りにされ、自身も他人も何もかもを呪う目をしている。
「さて、スイミツの不死性が破綻するのが先か、それとも何か生まれるか。どうなりますかねえ」
「そんなに面白くないかもしれませんよ。私だって深雪さんには好き放題されてましたけど、壊れませんでしたし。水蜜さんもそんな簡単に妊娠するなら、とっくに観念して深雪さんのものになってるんじゃないですか」
「ふーむ、そうですか。スイミツにも後で興奮剤を投与して痛みを減らしてみますか。苦痛が無くなれば妊娠したくなるかも」
「そんなことより……あの」
 羊が控えめに、シンディの白衣の裾を引っ張る。シンディが振り返れば恥ずかしそうに目を逸らす、手は決して離さぬまま。
「心配しないで、一番大切なのはヨウですよ」
「でも……神霊の研究のほうがきっと役に立つし……私みたいなつまらないただの人間、シンの時間を使わせるのは」
 自虐に隠したやきもち、羊のいじらしさにシンディは一発で骨抜きになってしまう。
「もう、忘れちゃったんですか? ボクたちはボクたちの、大事な実験がある。そのために準備してるのに」
「シンは……ずっと、一緒に……」
「はい、ボクたちはずっと一緒ですよ。どうしたの? そんなに悲しそうにして」
「わからない……何か、取り返しのつかないことを間違えてしまった気がして。でも、わからない。いやな予感がする。怖くて……シンもいなくなってしまうと思ったら」
「わけもなくそういう気持ちになることもありますよ。ボクたちはそろそろ切り上げて休みましょうか」
 怯える羊を優しく撫でて、シンディは子どもをあやすように優しく語りかける。羊もそれで落ち着きを取り戻し、シンディに身を任せて安心する。二人きりで甘ったるい恋人ごっこに酔う、足元にはそれ以外のすべてを踏みつけにしながら。

シンディのお気に入り


二『呪胎告知』

 幾度となく愛溟に先手を打たれ、いいようにされ、怪異対策課は殺気立っていた。東京、京都にも応援要請が出され、大規模な捜索活動が続いた。そしてついに、羊たちを奪還する解決の糸口がみつかった。状況を打開したのは、そもそもこの事件の発端を見つけた人物……月極紫津香だった。
「門と呼ばれる力で異界を作り出し、人も怪異も隠してしまう愛溟の能力。深雪まで捕らえた手腕からして、あちらさんも神霊、神隠しと考えるのが自然やね」
「自分に有利な結界を作って相手を閉じ込める戦法ならババアとオレの十八番や。これ以上同じ手使ったら確実に尻尾掴んだる」
 今まで門を開かれたことのある場所から、月極は愛溟の痕跡を探した。どれも既に使い捨てられていたが、門があった場所に漂う独特の気配を感じとることに成功した。現在愛溟たちが潜伏している異界には、必ず現実世界に繋がる出口……まだ生きている門がなければならない。そこにも同じ気配があるはずだ。それを見つけて強制的に異界化を解除、突入して行方不明者を救う。反撃の目処が立った。
 異界への入り口は、県内でも人口の少ない村にあった。海辺にあり、潮風の届く廃病院。山奥の小屋や机の下でやったときのような遠くにワープする門はあくまで一時的なもので、長期的に滞在するなら廃神社のパターン、つまり同じ場所にコピーのような異界を重ねる手法をとるらしい。
 神社の時の失態を繰り返すまいと、今回は病院の手前にある雑木林に怪異対策課の陣を置き、何かあったときのバックアップも万全だ。結界を施した本陣には墨洋、明李、月極、炎天がいて、病院の様子を慎重に伺っていた。彼らがいなくなれば、怪異対策課は……人間側の味方は、壊滅的な状態となる。
「うわ。めちゃくちゃ怪異が集まってる。こんなの見たことないですよ」
 明李が息を呑む。彼の手には深雪の短刀がある。そう、彼が神棚を作るために深雪の身体の一部である短刀を貰っていたのが意図せずファインプレーとなった。深雪は存在感のある神霊だ。怪異対策課に残されていた短刀をサンプルに、炎天が足跡を追うことに成功した。水蜜を囮に深雪を捕獲した現場を廃病院のそばにしたのは愛溟の手落ちか、それとも。
「郷徒を寄せ餌にすればこのくらいの怪異、すぐ集まるよ。さて、これも罠かもしれんがどうしますかね? 月極さん」
「ぜんぶ裏返したるわ。そうしたら罠も何もあらへん」
「これから紫津香の術式で異界化を解除して、中にいるモン全部現実の廃病院に引きずり出すで。怪異もこれ以上に湧いて出る。芋引いてんちゃうやろな? 拝み屋」
 炎天の挑発に対し、墨洋は吸っていた煙草を地面に投げ捨て乱暴に踏み潰した。靴を退けたときには、吸い殻は跡形もなく消えていた。
「いいんですかね? 民間の拝み屋は陰陽師の皆様と違ってお行儀が悪いですよ」
「知っとるわ。お前の仕事は邪魔くさい怪異どものお掃除や、無礼講でぶっ飛ばせ。紫津香は異界を暴くのに集中するさかい、怪異退治は手伝われへん。オレもババアの介護があんねん」
「……炎天は愛溟からの攻撃と、深雪を手駒にされた場合を警戒して温存させてもらいます。任せてよろしおすな」
「了解。遠慮なく暴れさせてもらうけど、上に怒られたら月極さんが庇ってくれるってことですよね」
「墨洋さんて、戦う系の除霊できるんですか?」
「あー、明李や郷徒は知らないのか」
 『霊感がある』それだけで除霊をしたり、怪異と戦うことはできない。郷美教授や羊のように、危険を察知して逃げる人が大多数。怪異と向き合うノウハウを知る機会に恵まれれば、寺で育った礼や神社で育った明李のように『守り』はできるようになる。結界を張ったり、お祓いをして人を救ったりできるだけでも貴重な人材なのだ。
 怪異にこちらから『攻め』に行ける霊能者となるとさらに希少になっていく。陰陽師が今でも怪異対策課に強い影響力を持つのは、対怪異の機動隊ができる勢力を維持し続けているからだ。一昔前は民間にもそういう霊能者はちらほら存在していた。しかし様々な理由で数は減るばかりで、山に同行してくれた猪狩のような協力者は高齢化の問題を抱えている。
「コンプライアンスとか、そういうのでね。いくら日本の法律が怪異にゃ関係ないと言っても、外法と呼ばれる技術は今時の倫理観に合わんのよ。若い後継者がいないわけ。俺でもめちゃくちゃ若い方。ばあちゃんにこっそり叩き込まれて、俺は誰にも教えてない」
 上はワイシャツ一枚になって、腕まくりをした。墨洋の両腕はおびただしい数の傷やアザが埋め尽くしていて、後輩の面倒見が良い彼が拝み屋の弟子をとらない理由を物語っていた。
「怪異対策課じゃ無駄に偉くなっちまって、お上もうるさいもんだから益々隠すようになっちまった。今日は使わせてもらうけど、あんまり言いふらさないでくれると助かる」
 古傷だらけの腕にまた、新しい傷。儀礼用の小刀で中指の腹からまっすぐ、肘の裏あたりまで肌を裂き血を流す。墨洋の周りに重たい瘴気が発生したので、明李は思わず後ずさった。
「明李は月極さんの近くにいて、対神霊警戒を続けてくれ。それから、郷徒たちが逃げてきたら保護してやれ。後方での連絡と指揮を任せる」
「えっ……俺がですか⁈」
「頭使うことは、シンが帰ってきたら助けてもらえ。郷徒は多分だめだ、あんなに怪異を誘引してたら心が壊れちまうよ。好餌の人間を利用するってのは、そういうことなんだ。まともな人の心持ってたらできない。愛溟はそれをやっちまう化け物なんだよ」
「そんな……郷徒さん……」
「だから俺もかなりキレてんだわ。あそこに居る奴等、全員殺してくる」
 長い前髪から除く墨洋の目は怒りに染まっていた。明李が黙って頷くと、墨洋は病院に向かって走り出す。彼の周りには、動物霊がいくつも憑いて疾走していた。
「あれは……」
 見たことのない墨洋の姿に明李が動揺していると、炎天が教えてくれた。
「狗神やな。今時どころか、割と昔からドン引きされる蠱術や」
 ネズミより少し大きめの何か。モグラのような流線型の身体に、鋭い爪のついた大きめの前脚。目は白く濁って見えていないようだが、墨洋の意思に従い迷いなく宙を走る。間もなく怪異と接触する。愛溟の陣地を守るよう操られているのか、殺気を漲らせた墨洋には敵意を持って一斉に飛びかかってきた。すると狗神たちの口が大きく裂けはじめ、鋭い牙と真っ赤な口腔内を見せたかと思うと……弾丸のように凄まじい速さで、飛ぶように、弾けるように駆け回って怪異を齧り殺していった。
 狗神は、飢えた犬の首を切り落としたときに生まれる。はじめから霊能力者の武器にするために、人工的に作り出された強力な怪異。ただ目の前の敵を屠る、それしか考えない。陰陽師の式神よりはるかにプリミティブにしてシンプル。はっきり言って、野蛮で荒々しいものども。
「俺の可愛い後輩を横取りしてくれたツケ、命で払ってもらうぜ」
 大量の動物霊に憑かれる負担は尋常ではなく、墨洋の鼻から鮮血が流れる。それも構わずに、狗神の群れを嵐のように振り回した。
 彼の活躍により、怪異の肉壁は壊滅。月極の術式もつつがなく完成し、羊たち囚われた仲間たちを現世に取り戻すこととなる。

狗神使い




 時は少し遡り、怪異対策課に見つかる前の廃病院について――

 近頃、怪異がやけに集まる場所がある。それも、怪異の中でもとびきりタチの悪い、捻くれた連中が。
 とっくの昔に打ち捨てられた廃病院。その中でも一番上等だったのであろう病室をできるだけ小綺麗に掃除して、古臭い間取りに不似合いな大きめのベッドを堂々と鎮座させて。その端っこで遠慮がちに、誰かが独りで腰掛けている。そんなシチュエーションでは元患者の幽霊かと思うが、彼は生きている人間だった。
 怪異がよく視えているらしく、窓の外から様子を伺っただけでも目が合った。目が合うと一瞬だけ怯えた目をして、それから少しだけ憐れんだような色に変わって、すぐに視線を逸らしてしまう。彼を発見した怪異は、そんな態度をとられて異様な怒りを感じてしまう。怒りは次第に『あいつを怖がらせてやりたい』『屈服させて見下ろしたい』そして『また自分を見てほしい』と一目惚れに似た暴力的な性欲にすり替わっていく。窓が割れているのを見つければそこから入り込み、衝動的に彼を犯す。おあつらえ向きの広いベッドの上で。
 顔も肉付きも貧相で、幸薄そうに縮こまった小さい人間。自分より惨めな存在をいたぶって安心したい。そう思っただけなのに。あちらの具合だけは極上で、あっという間に支配関係は逆転する。どれだけ種を注いでも、嬲って悲鳴を上げさせても。その虚ろな瞳は媚びるでもなく拒むでもなく、ただ支配と暴力を受け入れ続ける。生きている人間のはずなのに、命乞いを知らぬかのような違和感に気づく。そして、部屋中に満ちる、たまらなく蠱惑的な香りが……人が死ぬ間際の甘さを孕んでいると悟ったとき。自身も殺されてしまうのだと知る。
「今日のはそれなりですね」
 背後に立つもう一人の気配。それに気づけないほど骨抜きにされてまた一匹、怪異が罠にかかった。先端が刃物のようになった触手に串刺しにされ、動かなくなったそれは地下の元霊安室に無造作に放り込まれた。羊の胎内に呪いを注いだ後の怪異に用はない。死体は愛溟がリサイクルし、質より量の兵として使い捨てられる。
「シンの役に立つならよかった。私にとっては役立たずでしたので」
「ヨウのゴキゲンがよろしくない」
 拗ねたように背を向けた羊を、シンディが後ろから優しく抱きしめる。
「あ……ぁ」
「どうしてほしいですか?」
 シンディの白衣で隠れた内側には無数の触手が蠢いていて、羊の全身をくまなく愛撫する。
「ぜんぶ……全部、埋めて、満たして。シンじゃなきゃ、無理、だから」
「かわいいひと。ボクもヨウがいないと満たされませんよ、一緒ですね。うれしい」
 毎日のように、飽きもせず行われる茶番。絶望に溺れた羊はセックスに依存し、すすんで怪異を誘い身を捧げてはシンディに殺させている。嫉妬を煽って、下手なりにあざとく振る舞って、独占欲にいきり立ったシンディに激しく抱かれる時間だけが唯一の楽しみ。
「知ってますこういう作戦、日本語でツツモタセっていいます」
 たっぷり求め合った後、シンディが言葉を覚えたばかりの幼子のようにくすくすと笑い囁いてきた。何を言い出すかと思えばくだらない、と羊もつられて少しだけ楽しくなった。
「違いますよシン、鮎の友釣りのほうが近いんじゃないですか? 針を刺した魚を泳がせて、寄ってきた魚を捕らえる釣りの手法です。美人局をするには美人が足りませんよ」
 隈の目立つ陰気な顔、骨と皮だけの四肢、骨格の浮き出た胴体……美しい要素なんてひとつもないと嘆く。
 そして何より醜いのは、枯れ枝のような身体に不釣り合いすぎる、丸く膨れ上がった腹だった。数えきれない怪異とのまぐわいの果て、羊は妊婦のように重い腹を抱えた。そこだけやけに水っぽく、土気色の肌の下、青黒い血管が無数に這い回っているのが透けて見える。ちなみに、胎の中には尊い生命なんて存在しない。怪異から注ぎ込まれたありとあらゆる穢れや呪いが怪異の幼体となっているだけだ。しかも小さいのがたくさんいて、羊の腹の中で喰らい殺し合い暴れている。張り詰めた肌は内側から蹴られてひび割れ、ただでさえ醜い肉体に傷を増やしていく。
 陰鬱な表情で腹を撫でる羊の手に、シンディの手が優しく重ねられた。羊の嘆きを聞き流し、子守唄のように甘い言葉を囁く。
「美しいものには誰も抗えません。美しく才能にも恵まれたヨウに夢中になる、それは当たり前のことですよ」
「そんなこと言ってくれるのはシンだけです」
 直視するのも憚られる、醜い孕み袋に頬擦りしてうっとりするシンディは……見た目は美しいけれど、魂は醜悪な怪物だと思う。羊はそんなシンディを憐れに思い、だからこそ愛おしく想っていた。
「あーあ、こんなに素晴らしいもの、怪異にとられてるのイヤだなぁ……主の望みだし、ヨウも望んでいるから仕方ないけど……」
 母国語で長らく独りごちたあと、シンディは何やら思いついて目を輝かせた。羊の手を両手で握って懇願する。
「今のコレが産まれたら、お仕事は終わりですよね。そうしたら、ボクだけのものにしたいです。ヨウの子宮にボクの脳を預ける方法を考えたいんです。ね、いいでしょう」
「はは、なにそれ……シン、やっぱり触手に脳まで乗っ取られてますよね」
「触手(かれ)とは奇跡的に気が合っただけですよ。これは絶対、ボクの願い。ヨウに子宮を作ったのもボクだし、独り占めしていいのはボクだけであるべきです。ねえ、楽しみですね。とびきり大きな呪いを産んで、何もかも汚してしまいましょう。ボクとヨウの神様は、汚れた者に優しい世界を作ってくださいます。そこで、幸せに」
「うん、シンがそうしたいなら、私もそうします。だから……どこにも行かないで。それだけが、私の願いだから……」
 震えながら、シンディの腕に触れる。白衣を握りしめる。
「ヨウ、寂しくなっちゃったの? ……本当は嫌だけど、ヨウがどうしても欲しいなら……捕まえてきてあげてもいいですよ。彼も」
「だめですよ。あの人に、こんなおぞましい姿を見せられるわけないじゃないですか」

 あれ。

 あの人って、誰のことだっけ。

三『淫らな産声』

 ついに怪異対策課からの攻撃が始まったので、愛溟は羊が孕んだものだけを貰い受けて立ち去ることにした。今回はそれだけが目当てだった。羊やシンディは、利用価値がなくなればもうどうでもよかった。

 予定していたより少し早かったが、出産の刻が来た。痩せて栄養状態が悪く、そもそも男性の肉体である羊には死を確信させるほどの負担がのしかかった。中から出てくるものが数千グラムはある人間ではなく、蠱毒の壺の中のように喰らいあって千切れた怪異の肉片ばかりだったのはせめてもの救いだ。腐ったバラバラ死体を産み続けることを救いと呼びたくはなかったが、ただ本能だけで『死にたくない』と悶え苦しみながら羊は呪われた儀式をついにやり遂げた。
 大量の腐肉にまみれつつ最後に産み落とされたのは、仔犬程度の大きさまで育った異形の胎児だった。これが他の怪異を淘汰し続け、生き残った最後の一体。神の児。明らかに人間ではなく、手足は爬虫類のような造形をしていた。ただ、既に死んでいるようで動く気配はなかった。愛溟はそれを無造作に掴み上げると、羊と繋がっている臍の緒を靴底で踏み躙り切った。
「お疲れ様。欲しかったのはこれなんだ。君たちは全員用済みだから、あとは好きにするといい」
 愛溟がぱちんと指を弾く。あまりにもあっけなく、羊たちの洗脳は解かれた。

 羊の出産に立ち会っていたシンディは、しばらく時が止まったかのように停止していた。現状を理解し正気を取り戻すと、真っ先に羊の様子を見た。
「いけない……! ヨウ、返事できますか⁈」
 元々シンディは洗脳の度合いが低かった。彼が意に沿わずやらされていたのは『自身のトラウマである女性化手術』および『愛溟を神と崇め、最優先で従うこと』『愛溟の目的のために羊の身体を利用すること』の三点のみである。『怪異に対する残酷な実験』については元々興味津々で、人間社会や怪異対策課という枠組みに収まるために我慢していただけ。あわよくばやりたいとすら思っていた。よって、洗脳されていた間何をしていたのか自覚してもショックはほぼ無いに等しかった。
 真っ先に心配したのは羊のことだ。特に精神的に、かなり危険な状態なのは間違いない。愛溟に洗脳されている間の彼の行いを思い返せば、どれも本来の羊は絶対にやらないとシンディでもわかることばかりだった。
 性的快楽を感じると即座に自罰的になり、吐き気と自傷衝動を訴えていたはずの羊。それなのに、怪異やシンディとの淫蕩な生活に溺れた。味方を裏切り、水蜜への個人的な憎しみを露わにし、相棒として絆を深めつつあった深雪すら罠に嵌めて屈辱的な目に遭わせた。
 どんな理不尽も自分のせいにして、相手が傷つくくらいなら自分が傷つくことを選んできた羊が、である。重ねた罪が羊の心を粉々にした。
「あ……はは、あは……」
「ヨウ、全部夢です、悪い夢だった! ヨウは何も悪くありません。ただアイツが、勝手に操って……」
「そんな都合のいいことあるわけないじゃないですか」
 羊の眼はやけにぎらぎら光って見えた。
 肉体はどれだけ傷つけられても、穢されても平気だった。ついに子宮までつけられて、水蜜と同じようにされたのは嫌だし、暴力は苦しく痛い。しかし、心と切り離していれば耐えられた。どれも外から理不尽に浴びせられるもので、内側は守られていると思っていたから。
 だけど、洗脳されたという事実は。今まで拠り所としていた『心』というものすら、外部から容易に捻じ曲げられたことは。羊の真に大切な部分を穢した。
「シン、あなたにもご迷惑をおかけしました」
「何言ってるの? ボクのほうが、ヨウにひどいことを」
「シンを恋人と勘違いして、付き纏ったり気持ち悪いことをしてごめんなさい」
「それは、別に……嫌ではなかったですけど。ヨウがボクを好きだと言ってくれて、ずっと一緒にいてくれたのはむしろ嬉しかった、ですし」
「まだ洗脳されていませんか?」
 シンディがもじもじと戸惑う顔を見て、羊はなんだかすごくおかしくなってしまった。彼のことだから『辛い記憶もねじ曲がった性根も、忘れたままの方が今後の生活は快適になったのに』とか合理的なことを考えているんじゃないか。
 だが、羊はそう思えない。自分の人生がいかに汚くて、傷だらけで、ぼこぼこの精神状態で、面倒くさい人間だとしても、あの人は……蓮は、そんな羊をありのまま受け止めて、優しく抱きしめてくれた。羊は嬉しくて、尊いと思ったのだ。その瞬間の気持ちは羊だけのもので、何者からも不可侵であってほしかった。でも、脳を弄られたら簡単に消えてしまうようなものだった。あのチョコレートの包み紙みたいに。
「これ、取れますか」
 羊は冷静さを取り戻した様子で、自身の下腹部を指した。まだ腹は少し膨れていて、股からは臍帯が飛び出たままになっている。
「え? ああ……胎盤は自然に排出されるはずですが、人間の自然分娩とは違うでしょうから……」
「急いで掻き出してください。他にも何か残ってる感じがするので。シンの触手ならできますよね」
「でも……」
「一気にやってください。そのほうがマシだから」
「……わかりました」
 痛みよりも、波のように押し寄せる快楽が不快だった。禊ぎのように、胎内から瘴気にまみれた怪異の肉が掻き出されていく。踏み躙られ土埃にまみれた臍の緒、それに繋がる胎盤も。
 羊にとって、洗脳されていた間の記憶は恥辱そのものだった。まだ自分には尊厳なんてものがあったのかと、どこか他人事のようにも感じていた……否、そんな穏やかな気持ちじゃない。自分のすべてが受け入れられなくなって、異物感から何度も何度も嘔吐した。内臓をすべて吐いても、この嫌悪感は無くならないだろうと思いながら。
「愛溟を追いましょう。彼は野放しにしておけない」
 処置が終わってすぐ、羊はよろよろと立ち上がった。腐臭のついた服を着て、なんとか歩き出そうとする羊をシンディが必死で止めた。
「待ってください! 擬似的にとはいえ出産したんですよ。産後すぐ歩く母体なんていません! 死んでしまいますよ!」
「別にいいですよ」
「ヨウ!」
 シンディの強い声に、羊はハッと我にかえった。
 絶望に沈みっぱなしだった羊の人生。幾度となく、漠然と抱いていた希死念慮が確かにあった。しかし、自分から断崖に走り出す気力すら持ち合わせていなくて。他人に迷惑をかけるのが申し訳なくて。自死だけはずっと遠ざけてきた……それなのに。今はすぐ横に寄りかかっていた。
「すみません……」
「ほら、車椅子ありますから。これで運ぶので少しでも休んでください」
「わかりました。とりあえず、深雪さんと水蜜さんも解放しに行かないと」
 水蜜と深雪が閉じ込められている手術室に向かった。交配実験はもうしておらず、水蜜は四肢を削られ続け、深雪も拘束を施されたままで監禁されていた。
「いやあまったく、やってくれたねえ」
 二人が洗脳から解かれたことを感じ取って、水蜜は安堵のため息をついた。
「ごめんなさいスイミツ。研究データは最大限活用しますから」
「そうじゃなくて……いや、もういいよ」
 シンディは水蜜を抱き上げて救急用ストレッチャーに乗せた。羊もここに乗せれば、シンディ一人でも二人を運べるだろう。
「きちんとしたケアは後ほど。とにかくこの場所を離れて、ケンたちを探したいと思っています」
「そうだね。雪ちゃんの首輪とかを外してくれる? 私の骨も刺さったままみたいなんだけど」
「ああ、それは……」
 そう、あとの問題は深雪だ。
「まず首輪を外しますね」
「ヨウ、待ってください!」
 羊は深雪の方に行って拘束具を外そうとしていたが、首に刺さったままの短剣に手を伸ばしたところでシンディに止められた。
「難しい問題が残っています。それを作ったとき、ボクは操られていました。その呪具にはまだ欠陥があったのに、ヨウに使わせてしまいました。大きな間違いです」
「欠陥?」
「呪いをとく方法がないんです」
「抜けないんですか」
「抜くことはできます。ですが、呪いを消す方法が無いんです」
 洗脳されているとき、シンディは深雪を再度解放するつもりは全く無かった。呪いはずっと短剣ごと刺しっぱなし、深雪の中にとどめておけば問題無いとした。それを解除した場合のリスクを無視して。
「短剣を抜いたらミユキは治ります。聖霊ですから、怪我も簡単に治せますよね。でも呪いは消せないんです。はじめに呪いをかけた短剣の使い手、つまりヨウに返ってくるのです。ミユキでも動けなくなったくらいの呪いが。人間ならとても耐えられない。即死です」
「……なんだ、そういうことでしたか」
 羊は素っ気なく返して、構わず深雪の拘束具を解き続けた。「ちょうどよかった」そう小さく、呟きながら。
「深雪さん、聞こえてはいますよね」
 短剣の柄を両手で包み込む。柄の部分まで刃物状に研ぎ澄まされたそれは、羊の掌を深く傷つける。それでも強く握りしめた。その動作は、祈りにも似ていた。
「私がしてしまったことを、許してほしいとは言いません。私はこのまま、あなたの前から消えますから……どうか、逃げた愛溟を追ってください。稲荷神の死体だけでもいい、取り戻して供養してあげてください。あれは放っておいてはいけない存在です。またどこかで誰かの尊厳を踏み躙るでしょう。こんな酷い目に遭う人を増やしちゃいけない。どうか、止めてください」
「ヨウ、いけない! 安全に抜く方法をこれから研究しますから、待って……!」
「必要ありません。こうすれば一番手っ取り早いじゃないですか。この呪具を使い、この事態を招いたのは私です。私が責任を持って処理するのが道理でしょう」
 華奢な短剣は、少し力を込めただけで簡単に抜けた。
「シン、後のことはよろしくお願いします」
「いやだ。ヨウが死んでしまう」
「いいんです、これで」
 シンディの方へ振り返り、羊はやわらかく笑む。
「私は元々、呪いを引き受けるために生まれたらしいので」
 今まで見たことのない、そして後にもこれっきりとなる羊の表情を、シンディは見た。
「……綺麗」
 無意識につぶやいていた。このときようやく、シンディは恋という感情を知った。洗脳されたせいじゃない、本物の感情がシンディの心を灼いた。
 しかし次の瞬間、彼は恋した相手が全身から血を噴き出して崩れ落ちるのを目の当たりにした。

 解き放たれた深雪は、短剣の刺さっていた喉の傷を治す間もなく羊のもとへ歩み寄った。掴み上げた痩躯は血が流れ落ちて余計に軽く感じられ、生命の音はよく聴こえなかった。深雪の咽喉には血が溜まっていたが、それをそのまま羊に口移しで与えた。神の血を直接飲ませるとなると、かなり刺激が強い。気つけになったか、羊の身体が一度だけ大きく跳ねた。しかしその後はまた、柳のようにだらりと動かなくなった。
 羊を近くにいたシンディに投げて寄越すと、深雪は羊の望んだ通り愛溟を追跡することにした。深雪にしては熱心に任務を遂行しようとする様子を、水蜜も物珍しげに見つめていた。
「雪ちゃん、追いかけてくれるの?」
「こいつは、おれがいれば厄介事が解決すると、命まで捨てる覚悟をしたのだ。人間が出来うる最大の信仰を受け取った。それには応じねばなるまい」
 尊厳を凌辱されつくし、痛めつけられた深雪の肉体や服装が瞬時に再生する。無惨に切られていた髪も純白の眩しさを帯びて取り戻され、強い神気で逆立ち靡いていた。
「ハカセくん、愛溟のことは雪ちゃんに任せて、私たちは警察の仲間を呼びに行こう。郷徒くんも、まだ助けられるかもしれないし」
「そうですね。ミユキの放つ力が強すぎて、ヨウの体が心配です……これが、日本では神と呼ぶ聖霊種の本気ですか」
 深雪は水蜜を少しだけ見た。二人の視線が合い、水蜜は真剣な顔で頷いた。言葉は交わさなかったが、それで伝わったようだ。深雪は壁を破壊し飛び出していった。
「私も雪ちゃんの本気はわかんないけど……でもさ、とっても綺麗だったよね。あれが神話の時代から生きる、神様の美しさだよ。私なんかのつがいになるような、小さい獣じゃあないんだ」
 どうせシンディはろくに聴いちゃいないだろうと、普段より饒舌に胸の内を話した水蜜だが。今のシンディは恋に支配されていて、その言葉は彼の胸に染み込んだ。
「とっても……綺麗……」
 腕の中で少しずつ冷たくなっていく、愛しい人の成れの果てを見る。あのとき見た綺麗な笑顔はもう無く、暗灰色に濁った目を見開き半開きの唇を紅く濡らしていた。呼吸はしておらず、鼓動は今にも途切れそうに弱々しかった。開いたままの目蓋を閉じてやると途端に幼く見え、血塗れの体は嬰児のように柔らかいと思った。シンディの世界に信仰(こい)を創造した神が、産声を上げぬまま死のうとしている。
 シンディが羊と水蜜を運んで病院から出ると、現実世界へ戻っていた。幸いにも、建物周辺の怪異を狩り尽くした墨洋と合流することができた。
「ヨウを早く! 今にも死にそうなんです!」
「わかった。そっちの状況はわからんが、ここは離れていいのか?」
「マナクラは逃げましたが、ミユキがなんとかします。早く病院へ! 道具と薬があればどこでもいい、医者はここにいます!」

四『空に咲く白い華』

 廃病院の異界化を月極によって暴かれた後、愛溟はいくつもの門を作っては短距離のワープを繰り返し逃走を続けていた。普通の人間の追跡ならば容易く逃げ切れただろう、しかし相手は神霊である。かつては名前すら奪われ、それでも人間からの信仰をゼロから積み上げてきた餓狼である。何度異界を渡ろうと、その存在が揺らぐことはなかった。
 深雪は自ら門に飛び込んでは、愛溟の作った異界の秩序を破壊する。逃げられれば、すぐさま現実世界に戻って追いかける。こうしてじりじりと距離を詰めていった。
「いやあ、やっぱり神霊は誤魔化せないね。ここまで騒がれちゃ雷轟もそろそろ動くし。大人しく出て行くからさあ、見逃して。お兄ちゃんの相手は任せるよ。得意だろ? 媚びるの」
 何度目かの門に突入したところで、どこからか声だけが聞こえてくる。つくづく相手の神経を逆撫でするのが好きな邪神である。追いかけっこに限界を感じて立ち止まってくれたはいいが、タダで捕まるとは思わない方がいい。深雪は黙って大刀を抜いた。幸い異界の中なので、大規模な戦闘になっても周りの被害を心配する必要はない。深雪はそんなこと気にするたちではなかったが、頭の隅に羊の悲痛な表情を思い出す程度には気にするようになっていた。
 愛溟が実体を見せた。案の定、変わり果てた稲荷神の姿で。わかっている。水蜜の友人であり、深雪も素直じゃないが可愛がっていたであろう者の姿は利用するに決まっている。多少は大刀筋に迷いが出ると期待されているのだろう。巨大化した阿婆擦れの股座から這い出た少年の、痩せた身体が哀れにふるえている。幼いイヌ科の頭蓋骨から、助けを求めるか細い声が聞こえる。枯れ枝のような手が深雪の方へ伸びる。
 何か運命を掛け違えていたら、深雪も辿り着いたかもしれない末路。目の前にいる異形の神を見て、そう思っていた。実際悪霊に堕ちかけたし、それ以前にも危ないことは何度もあった。乱暴者で、ほとんど笑顔を見せることもない深雪だが、こう見えて情の深さは他の神霊に比べて圧倒的に人間のそれに近い。それに加えて、狼は自分の家族を……家族同然にまで信頼できた者を、非常に大切にする。不器用だから仕方がなかったとは思う。だが、できることなら救いたかった。一度は水蜜に救われた彼を。だから、これから救う。不器用なりの方法で。
「せめて殺して楽にしてあげよう、とか思ってる? 無駄だよ、とっくに死んでるんだもん。よその神のしもべにするために子を産んでは、人間に植え続けるだけのみだらな怪異になり下がった。この事実は今更死体を取り戻し、埋め直したところでもう消えやしない。君という、まばゆい神格に退治される陰気な化け物になっちゃったんだよ」
「……そうやって、羊にも泥を浴びせたつもりだろうが」
 ずっと黙っていた深雪が口を開いた。
「おまえごときに、あれの魂を濁らすことはできん。出来損ないでも、蜜の血族だ。その狐も同じだ。餓鬼とはいえ、蜜に見込まれた男だった。死する瞬間まで気高かった」
 だから、こうして稲荷神の死体と戦い取り返そうするのは深雪の自己満足だ。そうしなければ彼の名誉が傷つくからというわけではない。彼の美しさは、水蜜の腕の中で眠るように逝ったあのときに永遠となった。その後死体を掘り起こされて何をされようと損なわれるものではない。羊だって同じだ。洗脳で心にもないことをさせられていたが、最後に深雪に捧げた信仰心はどこまでも澄み渡っていた。
「おまえを斬るのは、恨んでいるからではない。自惚れるな。ただ、五月蝿いから黙らせる。それだけのことだ」
 ぼろぼろに使い倒されたとはいえ、腐っても稲荷神。人間や神格の無い怪異相手なら危なげなく返り討ちにする力くらいはあっただろう。だが、相手は深雪だ。格上の神霊であり、今を生きる人間の信仰を受ける神であり。誰よりも強く稲荷神を……偶然同じ色を持って生まれた小狐を守ってやろうとした意志を持つ、父兄に似た存在だった。
「蜜が心配している。死んでなお手を焼かせるな、白雪」
 少しの手傷も負うことなく、深雪は稲荷神……いや、邪神・愛豊豊を打破した。遺体から、愛溟によって植え付けられた余計な要素を削ぎ落としていく。残ったのは、少年の痛々しい亡き骸のみ。それを優しく抱きかかえたところで、異界は粉々に崩れ去った。受け止めたはずのか細い身体もはらはらと砕け、小さな狐のされこうべだけが深雪の大きな手のひらに残った。

「あーあ、真正面からぶっ壊したんかい。ババアがせっかく、異界に居ても追える探知術を持たせてくれたのに使う機会あらへんかった。これやから脳筋は」
 深雪が現世に戻ってくると、月極の命を受けた炎天が追いついてきたところだった。
「愛溟は仕留めたんやろな」
「探知できるならわかるだろう。こそこそと隠れる気配は無くなった」
「死体も持ち帰ってるし間違いないかぁ……せやけど狐の頭だけやな。人間の愛溟はおらへんかったんか」
「知るものか。たかが人間の肉を、稲荷神と混ぜたのだから溶けてなくなっただろう」
 余計な部分は切り刻んで捨ててしまったが、と深雪はかろうじて残った白雪の骨に目を落とす。余計なものと一緒くたにされるのは許せなかった。だから徹底的に切り刻んだ。もし愛溟という人間の身体が混ざっていたのなら、徹底的に滅することはできたはずだ。
「蜜に話してくる。後始末はやれ」
「逃げ足早っ! あのクソ犬……」
 悪態をつきつつも、深雪が羊のことも気にかけていることを察していた炎天はそのまま見送った。その後新たな門の気配をしばらく探ったが静かなもので、やはり愛溟は稲荷神と共に消滅したとして月極のもとに帰還した。

 愛溟に利用された稲荷神こと、白雪という名の狐の骨は明李の協力により丁重に供養された。その後、残った骨をどうするかという話になった。
「よもや奴のところに収めるなどと言うまいな」
「この区画で正式に処理するとなるとどうしても雷轟様のところに話が行きますけど、やはり嫌ですよね」
 明李はよくわかっていて、深雪が持ち帰った骨を怪異対策課の保管庫へわざと留めていた。既に神気など枯れ、ほとんどただの動物の骨となっているので厳しく追求されることはないだろうということも確認済みだった。
「深雪様が、どうするか決めてください」
「よかったね。どこに埋める? 二度と掘り返されたくないし、神実村で保管できないか正ちゃんに聞こうか? 雪ちゃんの好きなところでいいよ」
 水蜜にも白雪の処遇を託された深雪は、迷いなく答えた。
「社を作っただろう。あれに一緒に入れておけ」
「深雪様の神棚に? いいんですか。まあ白雪様は既に存在がお隠れになられた方、一緒のお社にあっても深雪様の信仰に支障はありませんが」
「影響は無いらしいけど、それでも雪ちゃんは嫌がるかなと思ったな。昔は信仰を半分こされてあんなに怒ってたのに」
「信仰に変わりがないならそれで良いし、多少なら分けてやってもいいと思った。この社にはおれの体の一部を入れろと言われた。ならばこいつもおれの一部として守る。懐に入れておけば、二度とあんなふざけたやつには盗まれまい」
「あれま。急に優しくなっちゃって」
 水蜜は少し気に入らなさそうでもあり、嬉しそうでもある曖昧な笑みで深雪を見つめていた。
「何だ。何か気に食わんか蜜」
「んーん、私も賛成。ただ、昔私があんなに『もっと白雪ちゃんに優しくして』って言っても聞き流してた雪ちゃんが、弱い子をこんなに気にかけるようになったのって……ネズミくんを飼うようになったからだよね」
「あー、気をつけなきゃ深雪様、愛しのお姫様が郷徒さんにヤキモチ妬いちゃってますよ」
 明李がからかうも、深雪はまったくピンときていない様子だった。
「独楽鼠が、どうして急にでてくる?」
「自覚無いんだ。余計にもやもやする〜」
「何が言いたい」
 痴話喧嘩をはじめる神霊たちからはそっと距離を置きつつ、明李は白雪の骨をお社に納めた。古びたかんざしと、深雪の短刀をかたわらに置いてみた。ここは人がたくさんいるし、深雪や水蜜も定期的に訪れるので寂しくないだろう。
「これで良しと。少し換気もしておきますね」
 窓を開ける。明李の頬に一瞬、痛いほど冷たい風が当たった。あれ、と思った瞬間、目の前にひとひら、ふたひらと風に舞う冷たい花弁が見えた。すっかり春と呼んでいい気候になった今では季節外れの、白く儚げな雪に見えたが……よく確かめようとしたところで、冷気も雪の結晶も跡形もなく消えていた。
「……油揚げとか、お供えしたほうがいいのかな」
 白雪という神はとっくに消滅した。それでも、今の不思議な体験は間違いなく狐の見せる幻だったのだと。明李はまっすぐに信じていた。どれだけ可能性が低くても信じたかった。羊がここに戻ってきてくれる未来も、ひたむきに信じ続けていた。


次 第十六話

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