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病ませる水蜜さん 第十二話【R18】

はじめに(各種説明)

※『病ませる水蜜さん』第二章『怪異対策課の事件簿』の第三話です。前回までの記事を読んでいる前提となっておりますので、初めての方は以下の記事からご覧ください。

※今章『怪異対策課の事件簿』はサブタイトル『郷徒羊の受難』となっており、主人公の郷徒羊がとにかく酷い目に遭います。ストーリー上どうしてもR18・グロテスク・陰鬱な展開は避けられないので、そういうのが苦手な方は同時進行中であるもう一つの第二章『陰陽師・月極紫津香』の方がおすすめ。マガジンも別々に分けてあるのでご活用ください。

※このオリジナルシリーズは私の性癖のみに配慮して書かれています。自分の好みに合うお話をお楽しみください。

【特記事項】
今回も羊総受。蓮←羊(プラトニックな片想い)と、新キャラ×羊のR18含む絡みがあります。
・新キャラがR18的な意味でかなり問題児です。今後も覚悟しておいてください。
・今後もこの一次創作BLシリーズはCPも受け攻めも固定しません。好きな組み合わせの小説を選んでね!

ご了承いただけましたら先にお進みください。

ざっくり登場人物紹介


※前話までのネタバレがあります!

・郷徒 羊(ごうと よう)
 警察庁霊事課(別名・怪異対策課)所属。二十五歳独身。詳しくは第九話の登場人物紹介参照。
 人間からは嫌われがちだが、何故か怪異には異様に好かれ性的な暴力を誘ってしまう。第九話では触手型怪異に身体を弄られ余計に犯されやすくなり『怪異のみを惹きつける蠱惑体質』のようになってしまった。第十一話ではそれが災いし、人が一人犠牲になったことで以前に増して自罰的になっている。
 『怪異対策課の事件簿』では実質主人公。脅威の大出世だが、サブタイトルが『郷徒羊の受難』なので色々と過酷な運命が待ち受けている。最後は絶対ハッピーエンドにするからそれまで頑張ってほしい。

・寺烏真 蓮(てらうま れん)
 寺生まれで霊感が強い27歳。父からの厳しい修行を受け、一人前の僧侶として実家である禎山寺で働いている他、怪異対策課の協力者として悪霊退治も手伝っている。幼馴染の妻と、産まれたばかりの一人娘がいる。家族を愛する誠実で頼り甲斐のある兄貴肌。年の離れた弟を可愛いく思いすぎて過保護なのが玉に瑕。俗に言うブラコン。
 羊とは怪異対策課の仕事で出会い、年の近い同僚というか、学校の後輩くらいの気持ちで何かと世話を焼いていた。近頃次々と災難が襲い掛かり明らかに病んでいる羊をかなり心配している。
 羊は蓮に片想いしている。しかし蓮は既婚者であり、男性が恋愛対象でないことも知っているのでその気持ちはひた隠しにしている。羊は蓮のことをかなり神聖視しており、バレないにしても蓮に欲情してしまう自分を汚らわしいものとして忌々しく思っている。それもまた緩慢な自傷行為に向かわせる原因となっている。

・墨洋 健(ぼくよう けん)
 怪異対策課の実質リーダーで、羊の頼れる先輩。彼の上に課長がいるが『正直言って、いない方が楽』とは墨洋談。苦労の多い中間管理職。
・明李 平太(めり へいた)
 怪異対策課の一員。羊にとっては後輩のような存在の青年。仕事への情熱は皆無だが、神主の家系であり神霊案件にはめっぽう強い。実家の祭神は龍神(雷轟)だが、今は怪異対策課にいる深雪がかなり気になっている模様。

これまでのあらすじ

 怪異対策課として『根くたり様(真名・水蜜)』と『深雪』という二体の怪異を監視する担当となった郷徒羊。
 水蜜は、かつて郷徒家の故郷であった神実村の祭神であり、水蜜への信仰が原因で郷徒家は村八分同然に追放されたという因縁があった。羊自身は神実村に住んだことはなかったが、自身の人生の不遇さから八つ当たりじみた憎悪を抱いていた。そのため、彼は神実村の因習めいた文化の調査を続けていた。
 神実村の名家の当主・郷美正太郎の話から郷美と郷徒の先祖が水蜜であると知る。羊には水蜜由来と思われる『好餌』(怪異から性的な魅力があると思われ、惹きつけてしまう体質)なる性質があると判明。さらに羊を除く郷徒家の人間が相次いで不審な死をとげ、羊は自身の運命に恐怖する。
 それでも自身の特性が役に立つならと危険な怪異に襲われることも顧みず、現場を駆け回る羊。はじめは凶暴だった神霊の深雪も徐々に協力的な面が増え、共に怪異事件を解決していく日々が続いていた。
 しかし第十一話にて、幼い頃の知人である灰枝直毅と再会したことで羊の運命は悪い方向に傾き始める。直毅はかつて九歳の羊を親のネグレクトから救った優しい兄のような存在であったが、同時に羊に対して劣情も抱いていた。何も知らない羊を強姦したが事件にはならず、羊にだけ深い傷を残した。性欲に対し潔癖すぎる拒絶反応や、摂食障害を患い痩せているのも直毅が原因だったのだ。
 そんな彼が蓮と似ていた……いや、小さい頃唯一優しくしてくれたので慕っていた直毅と似ているからこそ、蓮のことも好きになったのだと。悍ましい事実に気づき動揺した羊の能力が暴走してしまい、悲劇が起こる。直毅に再び恋愛感情を向けられ死を強く意識するほど取り乱した羊は、無意識のうちに怪異を呼び寄せた。羊の目の前で直毅は怪異に殺されてしまう。これは事故であり、直毅の死は羊のせいではないと深雪にまで叱咤されるが、羊は自分が直毅を殺したのだと深く絶望しながら身内の弔いをすることとなるのであった。



病ませる水蜜さん 第十二話
 怪異対策課の事件簿 第三話

一『極楽からの糸』


 親族全員の納骨が終わったあと、久しぶりに蓮から羊へ声をかけた。羊が振り返ることすら躊躇っていると、蓮は顔を覗き込むことはなく、ただ横に立った。
「忙しかったけど、なんとか落ち着いてきたかな。ホントお疲れ様」
「ありがとう……ございます」
 羊の様子がおかしいことは蓮も気づいていた。身内が立て続けに亡くなったこと、知り合いの警官が怪異に襲われ殉職したらしいこと、色々なことがありすぎたから当然だ。だが、それだけじゃなくて。
 蓮に対する反応は、特に複雑なものだった。羊は誰に会っても取り乱す様子はなく淡々と対応していたが、蓮との接触は意図的に避けているように感じた。だが嫌われているとは感じなかった。
 自意識過剰かもしれない、お節介かもしれないと思えど。蓮は『ここで自分が声をかけないと』と感じていた。逃げられても強引に、今ここで。掴んでおかなくては……彼を人間に留めておけない気がして。
「だいぶ遅くなっちゃったね。帰る前に昼メシいかね? 小生がおごるからさ……」
 窓の外を見ればすぐそばにラーメン屋が見えたので何気なく誘ってみる。羊は蓮の視線の先を辿ったが、何かに気づいた途端急に青ざめて「い、嫌」と珍しく大きな声を出した。それから自分の声に驚いたのか余計に取り乱し、呼吸が荒くなりだしたので蓮も慌てた。咄嗟に羊を抱き上げて運んでいくものだから羊もびっくりして、なんだかパニックも引っ込んでしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「小生の方こそごめん。食べたくてもうまく食べられないの、知ってたのにな」
 自販機と長椅子が置かれただけの簡素な休憩スペースで、しばし静かな時を過ごす。羊はずっと蓮から目を逸らして避けてきたのに、隣に腰掛けていた蓮が立ち上がるとその背中を目で追ってしまっていた。
「大丈夫だよ、自販機見てくるだけ。すぐ戻るから」
 クスッと笑われてはじめて、蓮に縋るような視線を向けていたことに気づいたようで、慌てて俯いた。
 蓮の方はというと、羊の反応から何がマズかったのかとあれこれ思い悩みながら、昔拾ってきた犬のことなど思い出していた。人慣れしていなくて常に怯えているが逃げるでもなく、少し離れたところから人を見つめていた野良犬。雨に濡れて痩せた体が痛々しい姿を、まだ幼かった弟と二人で見つけて、つい連れ帰ってしまい父親に叱られた。しばらく庭で世話をしたが、ほどなく檀家の家へ無事里子に出された。そんな短い記憶。そのとき父を説得しようとして口走った言葉をふと思い出したのだ。
『こういう子は見殺しにしたらいけないだろ。寂しくて冷たくて暗くて、怪異の格好の餌食になるって親父も言ってたじゃないか……』
 ほら、ちょっと目を離したらまた。
 項垂れたまま動かない羊の背を、西陽になりかけの光が照らしている。その足元にある灰色の影だけがざわざわと揺れている。蓮がわざと大きく足を踏み鳴らすと、蠢いていたモノはたちまちはじけて消えた。びっくりして顔を上げた羊には、穏やかな笑顔で返す。
「霊堂は色々引き寄せちゃうんだよ。今の羊さんは特にね。祓ったから大丈夫」
「あ……また何か、来ていたんですか。すみません。気づいていませんでした。いえ……気づいていたのに、それが変だってわからなかった……」
「持っていかれかけてるよ。腹が減ってると余計そうなる。ほら、これは前飲めてたよね」
 温かい甘酒の缶。有無を言わさず開封されて、熱くないようにハンカチで包まれたそれを持たされたとき。羊は手袋を忘れていたことに気づいて、あっ、と掠れた声を上げた。蓮はそれには何も反応せずにしっかりと缶を握らせた。羊の両手が缶を持って、その上から蓮の両手が軽く抑えて。冷たくて傷だらけの肌に、あたたかなぬくもりが染み込む。それは一瞬だったけれど、羊は胸が高鳴ってわずかに体温が上がるのを感じた。ぼぅっとしたまま甘酒を口にすれば、不快な吐き気はなくするりと飲み下すことができた。安堵のため息をこぼして、食道から胃袋へと温かさが染み渡っていく優しい感触に目を閉じた。
「よかった、腹に入れられるものがあって」
「あ、あの……本当にごめんなさ」
「そういうのはダメ。ゆっくり飲んで」
「はい……」
 あんまり見られていては居心地がわるいだろうと、蓮は羊の横に座ってスマホへ視線をやった。
「蓮さんは悪くないんです、本当に。わけのわかんない反応する私に、こんなに優しくしてくれて、うれしいんです。なのに、それすら上手く伝えられない……」
「伝えられたじゃん。よかった、小生が余計なことして迷惑じゃなきゃいいんだ」
「迷惑だなんて! そんな……」
 慌てて否定しようとして咳き込む羊の背中を撫でる。
「これからも、話しかけていい?」
 小さく、遠慮がちに頷く。
「蓮さんの、迷惑じゃなかったら」
「だから、そういうのはダメ。小生が好きでやってるんだから」
「は、はい……」
 『好き』という言葉が妙に耳に残って、そんな意味じゃ無いとはわかっているのに、顔が熱くなるのを止められず。羊はずっと俯いたまま、ちびちびと甘酒を口に入れていた。
「よかったらさ、今夜うち来ない? 外食って脂っこいの多いし。うちもガチの精進料理ってわけじゃないけど、じいちゃんいるからヘルシーな料理多いよ。遅くなったら泊まってけばいいしさ」
「禎山寺に……?」
 『うち来ない?』から蓮が話終わるまでのわずかな間に、羊は精一杯想像していた。食事を用意して待っていてくれる蓮の母、厳しくも頼れる父や祖父。幼馴染だという妻、彼女が抱いているのは産まれたばかりの一人娘。羊にはどれひとつ実感の無い存在。彼らはみんな蓮に当たり前のように愛情を注いでいて、蓮も応えている。それが普通のことだから。蓮の家族なのだから、優しいのだろう。一口食べては吐きそうになる気持ちの悪い異物でも、嫌な顔ひとつせずに、食卓に迎え入れてくれるんだろう。そこを疑うのは蓮に失礼だ。だから、そういう不安が理由ではなくて。羊が恐怖しているのは自分自身だ。テレビや書籍でしか見たことのない、しかしリアルに存在するらしい一家団欒とやらには絶対に馴染めない、自身の異形さを自覚するのが怖いのだ。
「せっかくのお誘いですが、まだこれから署に帰ってやることがあって……またの機会に」
「……そっか」
 ちょっといきなり距離詰め過ぎたかな、と蓮は内心反省しながら袈裟の袖の中をまさぐる。いつも通り、中には細かいお菓子がたくさん入っている。
「じゃあこれ。何にも食べないよりマシだけど、できたら夕飯は食べなよ」
「いつものと違いますね」
「そうそう。この間バレンタインだったろ。だから特別なやつ」
 駄菓子や和風の砂糖菓子ではなく、洋風の銀紙に包まれた一口チョコレートだった。
(特別、か……)
 羊にとっては唯一の救いだけれど、とびきりの愛に見えるけれど。蓮にとっては、このくらい人に優しくするなんていくらでもやっていることなのだと。羊は再度自分に言い聞かせた。さながらこのちっぽけなチョコレートのような、義理チョコ以下の価値でばらまかれる無数の愛のひとかけら。羊だけが過剰に特別だと思っている、それを忘れてはいけない。他人にはゴミにしか見えないチョコレートの包み紙はキラキラ輝いていて、羊はそれを丁寧に伸ばして保管するだろう。今まで貰った菓子の包み紙と同じように……いや、今日のとびきりの思い出を形に残す宝物として、特別大切に。こんな馬鹿らしくて気持ち悪い行為は、絶対に蓮には知られてはならない。
「ありがとうございます」
「外食の方がよかったらそうするよ。また署へ行ったら懲りずに誘うからさ。気が向いたら一緒に行こ」
「……はい」
 もう誘わないで、とも言いたくないが、素直についていく図々しさも羊には無さそうで。
 結局羊は夕飯もとらず、怪異対策課のオフィスに戻ればいくらでもある書類仕事を深夜まで黙々と続けた。最後にチョコレートを味わって食べ、包み紙を今までの宝物と一緒に大切に引き出しにしまって、別に帰りたくもない貧相な巣へと帰っていくのだった。

二『魔女の末裔 前編』

※嘔吐描写あり

 蓮との会話があって数日後、その日は珍しく怪異対策課の課長が定刻通りにいた。それもとびきり上機嫌に。
「一体何があったんですか」
 久々のきちんとした朝礼を待つ間、羊は隣に立つ明李に小声で尋ねた。
「あっ、郷徒さんは家のことで忙しかったから墨洋先輩も伝え忘れてたんスね。怪異対策課に新しい人が配属されてくるんですよ、今日から」
「かなり重要な情報……」
 とはいえ、ここ最近の羊の病みぶりを見て余計なことは言うまいとした墨洋先輩の気持ちもわかる。どのみち、新しい人とやらが来てからでなければどうなるかもわからない。
「人員確保に悩む墨洋先輩がウキウキするならともかく、課長がああなのは何故……?」
「二十代女性だからです」
「あー……」
 怪異対策課の課長である世久原は、五十代後半のスケベオヤジだ。配属されてくる人が若い女性だからこんなに張り切っているのだと、それだけで納得できてしまう程度の底の浅い男だ。普段は長としての仕事すら墨洋に押し付けサボってばかりなのに。こんなのが、何故課長なのか……それは、課長の次にキャリアの長い墨洋すら『なんかすごいコネがあるらしい』『奴のやらかしには、上は揃ってみて見ぬふりをするんだ。触れない方がいい』しかわからないそうだ。
「今日来る人、イギリス人のお医者さんだそうで。イギリスじゃ有名な病院でも働いてた優秀な人で、でもなんか『魔女の末裔』とかいう霊能者の家系であることが判明して、イギリス版の怪異対策課みたいな機関から引き抜きがあったそうです」
 魔女というのがどんな存在なのか、羊はおとぎ話でしか知らない。しかし先日、陰陽師の一番すごい人と会ったばかりだ。現代日本に陰陽師がいるなら、現代英国には魔女くらいいるのだろう。彼女との円滑な関係のためにも、海外の怪異事情とか調べないとな……と羊は思いながら、明李の話の続きを聞いた。
「医師免許も怪異の知識もある人なので、今は怪異による霊障の治療や、捕まえた怪異の分析を専門にされているそうです。ほら、ちょっと前に郷徒さんが預かった触手怪異あったじゃないですか。あれも結局、彼女の元に送られて解剖されたらしいっすよ」
「そうなんですか……しかし、そんなすごい方が何故極東の、しかも田舎の警察署に……?」
「さあ……そこまでは」
「静かにしろ! 朝礼をはじめるぞ」
 ドアの向こうから気配を感じて、課長が二人を叱り飛ばした。間もなくドアが開いて、墨洋がなんともいえない表情で現れた。
「課長、お連れしましたよ」
「さあ入りなさい。お前たち、今日からうちで働いてもらうシンディさんだ!」
「ハーイ! はじめましてこんにちは! ボクの名前はSindy il Linleyです。よろしくおねがいします!」
「……?」
 日本語上手だな。いや思ったより声が低いな。背も高いな。ていうか、どう見ても男の人だよな。羊と明李は思わず目を見合わせた。課長は呆然としていた。
「あのー、すみません。俺たち、シンディさんは女性だと聞いてた……気がするんですが……」
「おー、そうですね。よく言われます。魔女の子だっていわれるから女の子と思いますし、Sindyいうのも女の子の名前です。ボクのママ、女の子がほしかったらしいです。それでこんな名前なんです」
「確かに、魔女の末裔とは言われてたけど、魔女とは言ってなかったスね……」
「いや、課長は履歴書とか……顔写真見る機会いくらでもあったでしょうに」
「めっちゃイケメンですし、ちっちゃい顔写真だけなら美女にも見えるのでは?」
 戸惑う羊たちをよそにシンディはにこやかに続けた。
「シンディ、あまり好きじゃない名前なので、ボクのことはシンって呼んでほしいです。それなら日本では男の子の名前って聞きました」
「まあ、日本ではファーストネームで呼び合うことはないので大丈夫ですよ、リンリーさん」
「えぇ……シンにしてください、寂しいから……」
「寂しいってそんな……」
「いいじゃないですか、シンにはイギリス流で! 俺は明李平太、平太ですよろしく! えと、英語喋れないけど……」
「日本語大丈夫ですよヘータ、ここにいる前は東京の鑑識にいましたから。そちらのあなたは?」
「あ……申し遅れました。郷徒羊です」
「ヨウ……GOAT……あ! あなたがそう!」
「え、な、なんですか?」
「あの怪異送ってくれたひと! tentacles」
「あ、触手の……それが何か……」
「会いたかったー!」
 初対面でも遠慮なく抱きついてくるノリは、羊には著しく合わない。あの触手事件もあまり思い出したくない。羊が困っていると、後ろで課長が不機嫌そうに咳払いした。
「早速仲良くなったみたいだし、あとは郷徒が案内してやれ。あぁあと、昨日お前が休んでる間に机の中の荷物は明李に片付けさせた。シンディさんに使ってもらうつもりで用意してたからな」
「えっ、郷徒の机は?」
「どうせ郷徒は地下の怪異部屋に引きこもってばかりだからいいだろ」
「ごめんなさい、郷徒さん、墨洋先輩……課長に言われて……あの、荷物はできるだけ綺麗に箱に詰めといたんで」
「はあ……すまんが郷徒、新しい机は発注してるからそのうち届く。それまで必要なら俺の机使っといてくれ、俺も外回りばっかで使わんから」
「はい、わかりました。あっ……」
「ん? どうした?」
 突然羊が焦ったようにダンボール箱を開いて中を確認した。元々彼は私物が少ない。ありふれた事務用品が大半で、別に丸々失っても買い直す経済的負担以外に痛いものは無かった。あるものを除いては。
(なくなってる……)
「郷徒さん、触ってマズイものありましたか?」
「いえ明李さん、なんでも、ないです。気のせいでした。すみません」
 他の引き出しには捨てるつもりの紙屑などもあった。明李は気を遣って、ゴミは分別して捨ててくれたのだろう。菓子を食べ終わった包み紙も。
「あの……ヨウ……机、大丈夫……?」
「大丈夫ですよ。あなたの荷物はそちらに置いてください。荷物を片付けたら署内を案内します」
「わかりました。ありがとう」
 何かを察したようで、シンディはしばらく羊のことを見つめていた。

 その日の夜、怪異対策課メンバーでシンディ歓迎会が近所の居酒屋で行われた。新入りの若い女性部下を酒の席でセクハラし放題するつもりだった課長は目に見えて不機嫌で、シンディにはほとんど絡まず、いつも通り羊をサンドバッグにしていた。
「ごめんねシン、空気悪くて……先輩が二次会会場おさえて早めに課長は連れて行くから、適当にやりすごして早めに帰りなね」
「ヘータ……ボスの言ってること、ボクわからない……でもなんかヒドイこと言ってる気がする。ヨウが悲しそうにしている。ボクのことで怒られてる?」
「シンのせいじゃないよ! 元からああなんだ。郷徒さんは大人しく話聞いてくれるから、言いたい放題なんだ……」
 羊は身内の葬儀の件で休みが増えており、事務仕事を羊がほとんど一人で引き受けていた影響がもろに出ていた。墨洋は課長代行と各地を飛び回る用事が多くこれ以上は背負えなかったし、明李も珍しく頑張ってはいたが羊と同じようにこなすことは難しかった。羊が出勤しても、あの精神状態では普段通りのパフォーマンスを発揮できるはずがない。細かい仕事のミスをあげだしたらキリがないし、深雪が壊したものの始末書なんかも羊の仕事だった。
 なにより課長からの格好の的になったのは、近頃署内で流行っているゴシップだった。突然の悲劇的な死の直前、灰枝直毅は頻繁に怪異対策課に足を運び、署内でしきりに羊を探していた。女子にモテる有名なイケメンだったにも関わらず、浮いた噂が不自然なほどに何も無かった直毅が、事件が起きる前にだけ不思議な行動をした。女の勘とでもいうのだろうか、それとも直毅に相手にされなかった女性たちの僻みなのか……いつの間にか、直毅と羊はゲイカップルだったのではないか、というとんでもない噂が妙な信憑性をもって広まってしまったのである。直毅の死と同時に羊はひどく憔悴して仕事を休み始めたものだから、余計に尾鰭がついてしまった。
 課長は他部署の女性にもセクハラまがいの言動をしていたため、女性をかばっては慕われている直毅を以前からいけすかない若造だと思っていた。そこにこの噂話である。死んでしまった直毅への鬱憤も含めて、悪意はすべて羊が被ることになった。女遊びも結婚の話題も無くつまらん男だと思ったらホモだったとはなとか、署内の追っかけ女子はみんなお前を恨んでるぞとか、あの男は爽やかな顔してお前みたいな根暗にどんなエッチをしてたんだとか、禎山寺の長男にも色目使ってたが好みのタイプがわかりやすいなとか、身体使って深雪捕獲作戦の失態をもみ消してもらったのかとか、お堅い寺の後継に不倫スキャンダルしかも愛人がお前とか変態すぎて笑えんとか、彼氏や不倫相手には怪異に股開いて仕事してること隠してたのかとか、最近深雪がやかましいからまたケツ使わせてやれ彼氏が死んで欲求不満だろとか、もう聞くに耐えない罵詈雑言が羊の傷口の隅々まで塩を擦り込んでいた。羊は焦点の合わない目を虚空に漂わせて小さな声で「ごめんなさい」を繰り返していたが、相槌は何を言っていても関係なかっただろう。そこに会話のキャッチボールなど存在せず、言葉によるリンチでしかないのだから。
 酔っ払いのオヤジによる呂律の回らない日本語は日本人でもまともに聞き取るのは難しい。注意深く聞き耳を立ててもシンディには意味がわからなかった。羊も「ごめんなさい」しか言わないので前後の文脈で判断することもできない。
「ヘータ! 羊は何を言われてるんですか!」
「ええ……やだよう言いたくない……復唱するのもヤダ……復唱といえば! 世久原のやつ前から……」
 明李も酒が入っているのでいつも以上に感情的で饒舌になっていた。
「何かあったのですか?」
「郷徒さんはこう……怪異に変な襲われ方したじゃん? 触手を最後に引き取ったのがシンならあれの報告書も全部読んでるんだよね」
「はい……見ました」
「郷徒さん、恥ずかしいだろうに真面目に事実を書いて提出したんだよ。それで墨洋先輩も黙って片付けようとしたってのに、そーゆーときだけ課長権限で口挟んできてさ。口頭で報告しろって、郷徒さん本人に、アレを」
「レポートは正確でした。監視カメラのデータとムジュンしないよくできたものでした。他に説明することがあったでしょうか」
「違うよ、意味なんてないよ。嫌がらせだよイヤガラセ。恥ずかしいことワザと言わせてんだよ。郷徒さんも郷徒さんで、真顔でやってのけるから余計にいじめられるのにさあ……あんなの無視すればよかったのに」
「いやがらせ……? ヨウはミスをしましたか。理解できません」
「俺だってわけわかんないよ……そういえば、うん、わかんないな? 課長って若い女の子好きで、でも男は興味なくて……シンって顔だけなら女の人って言われても違和感ないくらい綺麗なのに、課長相手にもニコニコして優しいのに、男だってわかったら興味なくしたよね。なんでだ? 郷徒さんのほうがよっぽど女っぽさとか……ぶっちゃけ、可愛さとかからはかけ離れてるよね。怪異対策課に男しかいないからって、なんで郷徒さんにはあんなヤラしいセクハラばっかするんだ?」
「……ヨウ……」
「あーもう俺我慢できないよ! どうすればいい? 俺がビール瓶で課長殴ればいいかな?」
「ちょい待ち。不祥事は流石にやめてくれな。俺も腹立ってるからさ。明李は抑えてくれ」
 席を外していた墨洋が戻ってきた。
「ケン! ボスをなんとかしてください」
「オッケーまかせてー。はい課長、そろそろ二次会会場行きますよって。明李、お前も来い」
「えー! 俺もですか? ヤっちゃっていいんですか」
「ダメだ。ええと、そんで……あれ、おい、郷徒どこいった」
 いつの間にか羊の姿がなくなっていた。トイレなども探したが見つからなかった。墨洋はとりあえず酔い潰れかけの課長を引きずっていき、明李は羊が座っていたあたりを見た。羊が持っていたと思われるウーロン茶のグラスを持って違和感に気づいた。
「あっ! これ、ウーロンハイになってる!」
「どうしましたか?」
「郷徒さん、お酒ムリだからウーロン茶なの! でもたまに課長が勝手に酒飲ませようとするんだ。ビール押し付けられたりしてたら俺が獲って飲んでたんだけど、こんなわかりにくいことまでして酒を……これ二、三杯いってないか? そういえばグビグビお茶飲んでるなと思った……あれ全部酒だった?」
「ヨウはお酒飲むと、どうなりますか」
「ヤバいんだよお……多分もう店出て、わけわからずに歩いてどっかで倒れてるかも。最近体調悪そうだったからマジでヤバい。課長これ懲戒案件じゃね? くそっ、そういうのは墨洋先輩に任せるとしてまずは郷徒さんだよな」
「ヘータ、ボクは医者です」
「そうだった! シン、いきなりごめん。なんとか郷徒さんを探して安全なところに連れて行って。署の地下収容室にビジネスホテルみたいな部屋あるしそこでもいいよ。ヤバそうなら救急車呼んであげて。俺は墨洋先輩と一緒に課長をなんとかしてくる」
「任せてください。ヨウを助けに行きます」

 居酒屋を出たシンディは、スマホに目をやるとすぐに歩き始めた。来たばかりの土地にしては迷いなく、細い路地裏に入っていく。ほどなくして、羊を見つけることができた。
(驚いた。極めて短時間で怪異を釣りあげている)
 飲食店裏の暗がりで、怪異に犯されていた。頭のない胴体を三倍ほど長く伸ばして、腕をムカデのように増やした異形の男が羊をたくさんの手でがっしり掴んで、ちょうど行為が終わったらしく下半身を震わせていた。羊に抵抗する気配はなく、ズボンを剥ぎ取られて露出した細すぎる脚を力無く揺らすばかりだった。怪異の長い胴体がみしみしと音を立てて開く。尖った歯が縦に何列も並んだ大きな口。さながらアイアンメイデンと呼ばれる拷問器具のようなそれがゆっくりと、羊を抱擁せんと覆い被さろうとして……
「死んでしまいますよ、ヨウ」
 シンディがコートの中から取り出したものを掲げた。試験管のような筒に、何か呪文のような文字の書かれたラベルが巻き付けられている。羊を喰らおうとしていた怪異がたちまち筒の中に吸い込まれていく。見た目ではとても収まりきるように見えない小さな器の中へ、激しく悲鳴を上げながら。筒の口に時折引っかかり、ごりごり、めきめきと圧縮されながら。
「かんたんでしたね。ヨウに夢中でボクのことまったく気にしていませんでした」
 すべて吸い終わるとコルク栓を押し込み、懐に収めた。羊は支えを失って、すぐそばに積まれていたゴミの山の上に倒れた。飲食店のゴミなので臭いが酷い。たちまち激しい嘔吐をはじめ、薄汚れた地面の上でのたうちまわった。シンディはすぐさま駆け寄り抱き起こしたが……何を思ったのか、未だ吐瀉物が溢れ続ける土気色の唇に躊躇いなく自身の唇を重ねた。
(……⁈……え、何? 何が、えっ……?)
 窒息しそうだった喉に空気が通った。咳き込むように酸素を取り込みながら、羊は状況がまったくわからず混乱していた。人工呼吸のようなことをされたはずなのに、口に指を突っ込まれて詰まったものを掻き出されたような感触があった。いくらなんでも舌でそんな芸当できるはずないし、そもそも汚すぎるから普通に指でやるとかあるだろうと思う。
「ヨウ、ボクがわかりますか」
「リンリーさん……すみません、私は、何を」
「まだよっぱらいですねヨウ、ボクはシンです。怖いボスはもういませんよ、帰りましょう」
「そう、ですか……あなたの歓迎会だったのに、医師のお仕事みたいなことまでさせてしまってごめんなさい。汚れましたよね……署に戻りますか? 地下にシャワーがあります。一旦そこで」
「そうですねぇ……外は寒くてヨウが凍えてしまう、暖かい部屋に急いで行くべきでしょう」
 一通り吐いたら幾分か正気を取り戻せたようで、いつもの薄っぺらい慇懃さだけは取り繕うことができた。しかしシンディはそれには興味なさそうに、高そうなコートを脱いで羊を甲斐甲斐しく包んでいた。生ゴミの悪臭にも、上は吐瀉物下は精液という羊の大惨事ぶりにも、あまりにも反応が無さすぎて不気味ですらあった。警察では、死体を前にしても冷静であり続けられるベテラン刑事などは珍しくない。それともまた違う異質さに羊が黙り込んでしまうと、シンディはその作り物めいた貌を一切嫌悪に歪めぬまま別の提案を示した。
「ボクのお家のほうが近いです。ヨウも今晩は泊まっていくと良いでしょう」
 羊は特に何も疑うことなくついて行った。否、人に逆らうことを放棄しているので従った。

三『魔女の末裔 後編』

 シンディは警察署にほど近いマンションの一室に居を構えていた。いかにも高級そうな部屋で、全身汚れていた羊は足を踏み入れるのを躊躇ったが手を引かれてバスルームに押し込まれた。
「服はボクのと一緒にクリーニングに出しておきますね。怪異からの被害を診ますから、そのままベッドルームまで来てください」
 ああそうか、怪異対策課の同僚な上に医者と鑑識の経験もある人がいるのだ。このままさっさと報告書をまとめてしまえば、また課長に公開処刑させられる時間を無駄にしなくて済むかもしれない。
 羊が考えていたのはそういうことばかりで、同性とはいえ『酔い潰れたまま自宅に連れ込まれ、裸でベッドルームに呼ばれている』という状況については気にしなかった。
 普段シンディが使っているであろうシャワー室は、シャンプーなど見てわかるものの他、浴槽のふちに謎の器具や瓶が並んでいてちょっとした研究室のような奇妙さがあった。わけのわからないものには触れないようにしながら、いつも以上に潔癖に全身を洗う。生臭さがちっとも取れない幻覚と戦いながら。シャワー室を出ると、いい匂いのするふかふかのバスローブが置いてあった。慣れないそれに恥ずかしさを覚えつつ、しかしそれしかなかったので仕方なく着て、シンディのいる寝室まで向かった。
「さっき吐いたから大丈夫と思いますが、怪異に何か飲まされていませんか。傷はありませんね。それにしても痩せすぎですよ。ごはん食べてませんか? 病院には通っていない?」
 お医者さんに診てもらってるだけだから。そう思ってじっとしているが、シンディはかなり容赦なく触れてくるので落ち着かなかった。歯科医がつけているようなゴム手袋をつけていたので、人の指とは一枚隔てているのがせめてもの救いだと思った。
「あとは……」
「ああ、中に出されてましたからね。怪異が消えると一緒に消えてしまうことが多いので、何も残っていないかもしれませんが」
 羊が淡々と話しながら躊躇いなく足を開こうとするものだから、飲み会の席で明李が言っていた『自身が犯された記録を淡々と読み上げていた』という話は間違いなく事実なのだとシンディは確信を得ていた。
「それなら……」
「どうしましたか?」
「あの、日本人はおくゆかしいと知っているので、長い時間話し合ってからお願いしようと思っていたのですが」
「お願い……」
 嫌な予感に困惑しつつも、羊はシンディに続けるよう促した。
「その前に、ボクのことも教えますからね」
 シンディも服を汚していたのでルームウェアに着替えていたのだが、おもむろにそれを脱ぎはじめたので羊は面食らった。中性的な顔ではあるが彼は間違いなく男性で、胸も肩もそれなりに筋肉が乗っていたのだが……胸から腹にかけておびただしい数の傷跡があった。どこか幾何学的な並びから、それが事故による傷ではなく手術痕であることが伺えた。
「ボクのママが女の子を欲しがったことは言いましたよね」
 下も脱いでしまった。本来はじろじろ見るべき場所ではないが、シンディが伝えたいことがそこにあるのだからと羊は視線を向けた。そして絶句した。
「身体が……あの、女性だったんですか?」
 男性ならばそこに在るはずの性器が存在しなかった。
「いいえボクは男です。ボクが生まれたとき、ガッカリしたママはすぐにボクを女にしようと思いました。ママはそれができました」
「魔女の……末裔……」
「大人になったボクは、やはり自分は男だと思いました。だから戻したかったのですが……それは簡単ではなく、ずっとこのままで生きてきました。ここは空っぽ。男でも女でもありませんでした」
「それは……」
 自分の母親もろくなものではないと思っていたが、何やらそれ以上に壮絶な家庭環境を聞いてしまった。かける言葉に迷っている羊には優しく大丈夫だと告げ、思ったより明るい様子でシンディは続けた。
「でも、今は悩んでいません。ヨウ、あなたのおかげですよ!」
「うわぁっ⁈」
 目と鼻の先に現れたそれに耐えきれず声を上げた。忘れるはずがない、忘れられないモノが、あろうことかシンディの下腹部についた傷跡を割開いて飛び出してきたのだから。
「この怪異は最後にヨウに対して生殖を望んだので、本体をペニスに変形させました。そしてそのままの形で捕まった。それがちょうどボクの欠けた器官に適合しまして」
「解剖して処分したのではなかったんですか……!」
「待って、怖がらないで。ボクは支配されていません」
「全く同じ状態の人に不意打ちされたんですよ私は!」
「怪異の脳はとりのぞいて直接神経をつなげているので、ただ腕や足を奪って移植したのと同じなのですが……ボクの脳を見せるわけにはいかないので困りましたね」
 とはいえ、もしシンディが触手怪異に乗っ取られているとして、今この状況で丸腰の羊は何もできない。乗っ取られた阿部がなりふり構わず襲いかかってきたことを考えると、全裸で無防備に股まで開いていた羊に対して理性的に話しかけているシンディの言うことは信じていいかもしれない。
「とてもフクザツな仕組みのパーツなので、ふやせたら怪異対策課の武器になるかと。自分の身体で実験する許可はもらってますよ。東京の怪異対策課はイギリスの魔生物管理省とも仲良しですので、国際的に……」
「いや、政府の許可が出ているかは(今夜生き残れたら)自分で裏を取りますけど……あなたは自分でやりたくてその、怪異を身体に埋め込んだんですか」
「はい。協力してくれたヨウ・ゴウトにはずっとありがとうを言いたくて、それでやっと会えたんです」
「いや私は保管していただけですけど。そんなに嬉しかったんですか……?」
「それでお願い、になるんですけど」
「はい」
「手で触診する代わりに、コレを使ってもいいですか」
「いいですよ」
「この怪異に改造されたというヨウのことも調べたくて、レポートの内容を再現するだけなので……って、え、いいですよって、今」
「はい、いいですけど」
「セックスすることになりますよ」
「そうなりますね。私のような不細工な男で申し訳ありませんが。不特定多数の怪異にも突っ込まれて汚いですし」
「ボクはやりたくてお願いしてるので、ボクがイヤかはよくて……ヨウは特にシャイだと思っていました。ふしぎなヒトですね」
「あなたに言われたくないですけど? 日本人は奥ゆかしいとかシャイとか超えて異常なことを自分が一番やってるってわかってます?」
「あっ、あとこれはヨウにとっても損なことではないですよ、ヨウのお腹を改造したのはこの怪異なのですから、研究が進めば治してあげることもできるかもしれないので」
「本当ですか? それはありがたいことですけど」
「すぐ治すと約束はできませんけどね。でも困ってますよね?」
「そこまでお見通しですか……」
 実のところ、羊の側にも後ろめたい下心があった。誰にも解決できない、言えるはずもないと必死で我慢してきたのだが……疼いて、仕方ないのである。触手型怪異の母胎にされかけた身体の一部は、その使命を果たすべく不意に発情する。一般的な男性の自慰行為ではもはや解消できない、抱かれなければ、奥深くまで掻き回されなければ満足できない淫らな衝動が突然来る。怪異に襲われたり、深雪の玩具にされれば一旦おさまるのだが、都合よく定期的にそういう機会が来るわけではない。まさか、深雪に自分から求めに行くなんてとてもできないことであるし。だから痛みで鎮めようとしてしきりに手指を噛む。ボロボロの掌を慈しむように撫でて、シンディが微笑んだ。
「これは治療ですから。ね?」
「リンリー先生が、そう判断されるなら」
「シンですってば。Linleyもダメです。ママと同じですから」
「う……わかりました、シン」
「よかったー。これで仲良しですね? ボクたち、同じだと思ってます。困ってること話し合えると思います」
「はあ……」
 やっぱり苦手だ、このノリ。
「あとさっきブサイク? ugly? 言ってましたがヨウは美しいですよ。たくさんの怪異には好きといわれても嬉しくないかもしれませんが、ボクもヨウのこと好きですよ! だから自信もってください」
 早く実験ネズミにしたいワクワク感を隠そうともしてないな、この人。その上で、悪い意味で純粋な好意を向けてきている。この人の『美しい』という感情は、小学生男児が虫やトカゲを捕まえて興奮しているそれと同じなんだ。ここまでおかしい人なら、仕方ないか。そうだな、いっそ実験動物扱いもいいかもしれない。シンディは狂っているが優秀な人材ではあるらしい。そんな人の役に立つのであれば。
「別にそんなにおだてなくても嫌がったりしませんよ。セックスでも投薬でも解剖でも、お好きになさってください」
 灰色に澱んだ虚な瞳、それを覗き込む翠緑は皮肉な程に光り輝いていた。
(少しも拒まなかった……)
 羊が自棄に沈む一方で、シンディは舞い上がるほど喜んでいた。自分が夢中になっている怪異研究は、世間一般には受け入れてもらいづらいことを自覚していた。ずっと不完全だった自分の身体が素晴らしく強化できて、誰かに見せたくて仕方がなかったけれど、評価してくれる人がいないだろうことはわかっていた。でも彼は、化け物だと攻撃するでもなく、適当におだてて逃げ出すでもなく。好きにしていいと、身を委ねてくれた。
「優しくしますね」
「そういうのいいですから」
「うーん……じゃあ、痛かったら言ってください」
「はい、ではそれで」
 吐いたとはいえ泥酔状態からそう簡単に醒めることはなく、羊は平時よりやさぐれていた。最悪なことが重なって、失うものが何も無いというのもある。だから、油断しきっていた。
「濡れてる……」
「それも、そこの触手に改造されてからで……何が出てるかも……っん、わかんないんですけど……」
 縦に割れるほど柔らかく拡げられて、常に雄を受け入れられるようにじっとりと滑っている。医療用と思しき手袋に包まれた、細くしなやかな指先が秘部に触れ押し広げようとしている。いざ始めるとシンディは至極真面目な表情になり、すっかり診察室の空気になってしまった。セックスの雰囲気も何もあったものではない。だが触れられれば否が応でも反応してしまう。ついさっき怪異に犯されたが、それの逸物では到底満足できなかったのもある。自分ばかり淫乱に興奮しているのが恥ずかしく、羊は腕で顔を覆ってひたすら耐えていた。
「……っ、指で調べるのが終わったら、あとは慣らす必要とかは無いと、思うので……早く済ませてください」
「そうですか? 痛いのはガマンしないでくださいね」
「えっ、ちょっと……」
 シンディの手が羊の手首を掴み、顔を隠せないように退かしてしまった。
「ヨウ、絶対ガマンして言わないでしょう。痛がってるかどうかはボクが見るので、隠しちゃダメですよ」
 シンディの言葉はところどころ拙いものの、声のトーンは低く真剣に聞こえた。羊がそれに怯んでいるうちに、大きなペニスにしか見えない触手の先端が穴のふちに触れた。身構える間もなく、先端から半分ほどまで呑み込まれていった。
「……っ、あ……⁈」
 衝撃に近い、激しい快楽が背筋を走って脳を揺らした。呼吸が乱れた羊の顔を覗き込んで痛がってはいないことを確認しつつ、シンディも強い快楽に陶酔しかけていた。
「……っ、ああ……ごめんなさい、ボクもちゃんと、神経がつながっているから、ちょっとビックリして……ヨウ、痛くない、ですよね?」
「え、あ……でも、だめ、なんか変で……ちょっと、一回、抜いて……ぅあ……っ」
「変……? 気持ちよかったですよね? 大丈夫、予想通りですよ。だってヨウの体は作りかえられていて、ボクの身体についたコレは、ヨウが最高に気持ちよくなる形になっていて、セックス相性最高のはずです。その通りでした。うわあ、セックスってこんなに気持ちいいコトだったんですね!」
 シンディは息を弾ませ、心底嬉しそうに語る。母国語で話させたら二倍くらい喋り続けていたに違いない。羊は既に絶頂を迎え、その快楽も逃しきれず混乱しているので返事をする余裕もなかった。続けますね、とより深く潜り込んでくる触手を止めることかなわず。視界に火花が散り、性欲に対する吐き気なんて忘れて媚びるような悲鳴を上げた。
「ん……引っかかってる、本来の直腸とカタチがちょっとちがう……ふふ、子宮のマネしたかったのかな、ここ。この奥で脳を守らせるなら……」
 本来こじ開ければ激痛の伴うS字状に曲がった奥の奥、触れてはいけないところまで快感を感じるように作り変えられてしまった。人間の雄には慰めてやれない場所で、怪異の持つ異形の生殖器だけを求めるように。
「やめて……おなか、やぶれちゃうから……」
「そうですね。やさしく触らないと」
「へ……?」
 根元まで挿入されたまま、触手が波打つようにうねる。肉壺は宿主の意思を無視して歓喜し、さらに中へと誘うように絡みつく。シンディは触手から伝わる快楽で頭がぼんやりするのをなんとか振り払いながら、羊の薄い腹が触手の形に膨れているのを優しく撫でた。目には見えないが、胎内では触手の先端から無数の細い触手が伸びて奥の窄まりに潜り込んでいた。子宮口に似たそこに細い先端を差し入れ、じわじわと拡張しながら最奥をまさぐっていく。
 やはりこれはセックスではない、触手による触診、実験なんだ。深雪のするような荒々しい交尾とも違う、気絶して終わりという逃げ場も与えられずに羊は身悶えていた。性感帯を殴りつけられるようなまぐわいが恋しくなるなんて。繊細に扱われ、ひたすら快楽だけを与えられ、気持ちいいはずなのに。羊の心が痛みを訴えはじめた。
「うぅ、う……」
「ヨウ、痛い? ……ううん、ごめんね。もうやめます」
 羊の異変を察してシンディが身体を退かした。興奮して肥大化した触手がずるりと引き抜かれ、羊の力無く横たわった陰茎から薄く白濁した液体がだらだらと腹を汚していった。
「……っ、ぐす……」
「ヨウ、セックスで気持ちよくなることは怖くありませんよ……」
 言い聞かせるように囁いて頭を撫でても、羊は指を口に突っ込んでは歯で痛めつけようとする。それをやんわりと制しつつ、シンディはベッドサイドの引き出しに手を伸ばす。中にはおよそ民家にあるものとは思えない、手術室にでもありそうな器具が整然と収められていた。そこから細い注射器を取り出して、赤子のように弱々しく抵抗する痩躯を押さえつけながら首に刺した。
「弱い睡眠薬です。一回おやすみしましょうね」
 ベッドからこぼれた腕が、糸が切れたようにだらりと垂れ下がる。それをきちんと真ん中に寝かせて、ヒビの入った眼鏡を外してやった。
 眠っている顔は、一際美しいな。
 ふとそう思ったことに自分でも驚いたシンディは首を傾げながら、羊を清潔にしてこのまま朝まで眠らせてやろうと洗面所へと足を運ぶのだった。

 翌朝、目覚めた羊は記憶があちこちぼやけていた。
 居酒屋での最悪な思いは忘れたかったのにやけに鮮やかで。そこから逃げ出して、すかさず怪異に襲われたのは罰なのだと思ったのも覚えていて。『死にますよ』と声をかけられてはじめて、自分が死ぬところだったことに気づいて。気づいたところで、恐ろしくもなんともなかったのも覚えている。まるで他人事みたい……いや、他人が死ぬのは恐ろしいけど、自分が死ぬのはあまり怖くなくなっていて。
 助けてくれたのはシンディで、彼は自宅に連れて行って風呂を貸してくれた。彼の身の上と、触手のことと、それを使って阿部との一件を再現することを承諾したのも覚えていた。それから、どうなったんだっけ。久しぶりに意識が飛びそうなくらいイッた覚えがあるから、そのまま意識が飛んだんだろうか。それならシンディには見苦しいところを見せたんだろう。
「ヨウ、おはようございます。苦しいところはありませんか」
「二日酔いで頭が痛いです」
「うふふ、それは仕方ありませんね。お酒ニガテならガマンして飲まないこと。どうぞ」
 羊はベッドの上で上半身だけ起こしたまま、シンディからマグカップを受け取った。やっぱり紅茶なんだ……と浅い知識の感想を思い浮かべ、手を温めながらちびちびと乾いた口の中を潤した。
「ええと、その……シン、色々と、ごめんなさい」
「ん? ヨウは悪いことなにもしてませんよ」
「あまり覚えてないんですけど……私は怪異の前でボーッとしてただけだし」
「ああ、アレはボクが一人で捕まえたことにしてレポートも作ってます。ヨウは書かなくていいよ、今日送っておきます」
「えっ……それは……」
「ケンからメールもありました。ボスはタクシーに乗せてお家帰した、ヘータももう出勤してるそうです」
「もうこんな時間……!」
「ヨウは今日お休みしてください。ごめんなさいはボクのほう。昨日会ったばかりなのにいっぱいお願いしたから……鍵渡しますから、ゆっくりしていってくださいね」
「いやもう、何から何まで……ごめんなさ、むぐっ」
 シンディの手でペットボトルが口に押し付けられた。
「お世話になったとき、日本語では『ありがとうございます』言うって習いました。違いますか?」
「……ありがとう、ございます」
「よくできました! さあさあ、もうちょっと寝て、お水置いておきますから。あと冷蔵庫にゼリーありますから後で食べていいですよ。ボクはこれからパン食べますけど、ヨウは食べられないですよね」
「はい……」
「じゃあそういうことで。昨日も言いましたけど、食べていないのは病院行くくらい危ないこと。昨日もお酒と胃液しかなかったですし……ほっとけません、ボクが医者として考えておきます」
「はい……」
 羊を寝かせ直し、丁寧に布団を被せると額にキスをして去って行った。やはりノリについていけない。しかし元医者だからって不健康な奴を見てここまで気にするものかな、これから栄養指導とかされるのかな……どうやって付き合っていけばいいのかな……などと考えながら羊は布団を頭まで被った。シンディが出勤したのを確認してから、すぐ出て行くつもりで。しかし布団の中で寝たふりをしているうちに抗えない眠気に襲われた。
 次に目覚めた時には夕方で、シンディがにこやかに見守っていて……結局夕食と称してあれこれ何を食べるのかと試され、よく見たら眼鏡も新調されていたりして、わけのわからないままシンディに流され続けて最終的に自宅の玄関前まで送ってもらった。
「ヨウはボクと一緒にお仕事しますから。困ったらなんでも相談してくださいね、これからも」
 そういえばずっと笑ってるな、この人。親切でいい人……として生活するのがとても上手い。ところどころ怪しげではあるけれど、羊を気にかける目的がはっきりしているので羊にとってはある意味安心できる存在でもあった。怪異に好かれる特異体質、それを調べる手伝いをしていればシンディには十分な見返りなのだろう。健康状態も悪かったら思うように検査できないから心配なのだろうし。わかりやすい、それでいい。
 魔法にでもかけられたかのような一日が終わった。

 シンディの歓迎会があった翌日から、世久原課長は怪異対策課に姿を表さなくなっていた。数日サボる程度はそこまで珍しいことではなかったので、墨洋も腑が煮えくりかえる思いを抑えて無視していたのだが……一週間弱ほどして、彼も驚く衝撃的な報せが舞い込んでくるのだった。
「まさか、世久原課長が怪異だったなんて……」
 明李も呆然としている。
「正確には怪異に取り憑かれてた、な。元は正真正銘人間だったけど、怪異に関わりすぎて変異してしまったんだ」
 シンディが持ってきた報告書によれば、事件発生は墨洋が怪異対策課に就職するよりも前。世久原は怪異対策課の仕事で捕獲した言葉の通じる怪異と密かに取引し、脱走を許す代わりに怪異の力を分け与えられていた。墨洋の言っていたコネというのは実際には存在せず、警察のそこそこ上層部まで騙す認識阻害が発生していたのだ。バレないようにあまり出世しすぎず、地方の一警察署でふんぞりがえる程度のチートに留めていたのが小賢しい。
「課長さんにお会いしたことは無いですが、誰も気づかないなんて相当賢い怪異だったんでしょうね」
「いやはや、学生さんが見学に来てるってのに誠に不甲斐ない……」
 この日は礼とシンディが初めて会う日でもあった。新しいメンバーに失態ばかり見られてるなあ、と墨洋は哀しげに呟いた。
「けっこー上も関わる不祥事になりそうだからって、めちゃくちゃ隠蔽しながらも大騒ぎになってるみたいっすね……考えてみれば、強い怪異を利用すれば完全犯罪とかできちゃうんですよね。怪異対策課ならではの職権濫用だけど、怖くなってきたな」
「警察と反社がつるんでるのと似てるかね。実際そういう犯罪は昔からあるのよ。深雪様に怪異退治を手伝ってもらってるのもまあまあ危ないんだぜ?」
「深雪様は神霊だから……!」
「明李はよーくわかってんだろ。神霊はもちろんだが、神の域まで至らずとも人智を超えた存在には変わらない怪異を、人間ごときが利用しようなんて烏滸がましいって」
「ええ、まあ……」
「深雪様は神霊だから、ってのは半分くらい正解だがな。神様レベルの強い存在は人間のちっぽけな私利私欲に興味ない。自分の力のデカさを自覚してるから下手に動かない。龍神様がまさにそうさな」
 深雪はまともに祀られたことがなかったため問題児ではあったが、近頃は羊の細やかな努力の甲斐あって神様らしい振る舞いを心得つつあった。
「ヤバいのは中途半端な強さの怪異だ。ちょうど課長に憑いてたくらいのな。生々しい悪意を人間社会に振り撒いてくる。そういう媒介になる人間をなんとかするのも、怪異対策課の仕事なんだよ。流石に刑事課のイカつい人たちに助けてもらったりはするけどね」
「本当に怖いのは人間だったのです……的なヤツっすね」
「お前も反省しろよ明李。たった一日顔合わせただけのシンに助けてもらうことになったんだからな」
「そういえば、シンはどこで課長の怪異に気づけたの?」
「ボクだけではわかりませんでした。ヒントをくれたのはヘータです」
「え、俺が?」
「若い女の人にしか興味ないはずの彼が、ヨウにはしつこくセクハラしていたと言っていたので」
「あああ、寄せ餌か! くそっ、それで尻尾を出してたなら水蜜に近づけても炙り出せてたかもしれねぇな」
「蜜をくだらんことで働かせるな。鼠で本性を暴けたのならそれでよかろう」
「そもそもあんたの嫁さんに惑わされる程度の人間は怪異対策課にいても足手纏いなんでね」
 墨洋が聞き捨てならないことを口走ったら即座に背後に現れる深雪、それに対して驚く素振りもなく軽口を叩ける墨洋。なるほど確かに、水蜜の蠱惑体質くらいでおかしくなっていたら怪異専門の警察官なんてやっていられないんだろう。それを手伝っている兄の凄さも再確認しつつ、礼は怪異対策課のメンバーがまだ揃っていないことに気がついて声を上げた。
「そういえば郷徒さんは?」
「あれ、いつも一番早いのに……シンは知らない?」
「いえ、今日は会っていません」
「おいおい、一番の功労者がいないとはじまらないだろうが。俺がなりたくもない課長になっちまった発表は一回で済ませたいんだよ」
「独楽鼠は布団の中で動かなくなっていた。おれが運んでおいた」
 そこにいた全員が深雪のほうへ振り返った。
「そういうのは早く言ってくれ! 明李、至急郷徒の家に様子を見に……いや救急車か?」
「いやでも深雪様が『運んだ』って! あの、どちらへ?」
「こいつの家」
「は?」
 深雪は、礼を指差していた。
「俺の家って……今水蜜さんもお出かけ中だから留守だけど」
「そっちじゃない。寺だ」
「禎山寺に⁈」
 礼が慌ててスマホを取り出すと、兄からの大量の着信履歴が残っていた。

 その頃羊がどうなっていたかというと……ちょっと、その前に。



***


 時はシンディが怪異対策課にやって来て数日後、墨洋に課長就任の辞令が届くよりも前のこと。場所は警察署地下の怪異収容フロア。普段は羊が事務作業していたり、暇な深雪に捕まって息を殺して犯されていたり、たまに捕まえた怪異が保管されるだけの静かな場所。今日はそこに、陽気な鼻歌が流れていた。
「自分だけの研究室、否、自分だけの城! 王様になった気分だ、この部屋全部使っていいなんて!」
 独り言なので、誰に聞かせる気遣いもしなくていい。静かな空間で、シンディだけが楽しそうに母国語で話している。興奮すると思考が口に出るタイプらしい。
 他の怪異対策課メンバーは収容フロアの設備を最低限にしか使わず持て余していたので、シンディが『捕獲した怪異をここで調査できるよう道具を持ち込みたい』と打診するとすんなり受け入れられた。
 シンディは私物も含めた研究用の道具を嬉々として運び込んで、好きなように配置していった。怪異の研究は彼にとって仕事ではなく情熱的な趣味だった。つまり、仕事と称して職場に立派な趣味部屋を作ってしまったわけだ。
「ここはとても開放的だ。英国の怪異関連機関は悪魔祓いどもが幅を利かせて息が詰まるし。東京にも結局EU諸国やアメリカからの悪魔祓いが常駐してるから似たようなものだった。それがどうだ、ここには赤毛の魔女を化け物扱いする輩が一人もいない! それどころか皆とても親切だ。僕は楽園を見つけたよ、ママ」
 丁重に抱えて棚に安置したガラス瓶に指先を這わせ、愛おしげに語りかける。
「それに、早速素晴らしい友人もできたんだよ。彼は僕のこと一度も気味悪い目で見なかった。もっと彼のことを知らなきゃ……よし、施設の使い勝手も見たいし早速実験をしてみよう」
 部屋の中央にはシングルベッドより一回り大きいくらいの作業台があった。その上に重そうな袋を置くと、中身を台の上に広げた。
「ハーイボス、ご機嫌いかが?」
 素っ裸で全身拘束された世久原だった。
「喉は潰してしまったので喋れないよ。だってどうせ、貴方の発言は正確性に欠ける。聞くとかえって思考が濁っちゃうよ」
 世久原には英語がわからない。だがシンディに彼と会話する意思はないため、一方的に英語のまま独り言をぶつけている。
「ヘータがどうしても教えてくれなかったから、録音音声をわざわざ時間をかけて翻訳までしたのに……時間の無駄だった。貴方はボスなのにヨウのことを全く理解していない! よく聞け、まず彼はナオキと交際していない。それどころか十六年前の██年█月█日、ナオキは当時未成年だったヨウをレイプしている。にも関わらず、犯罪を隠蔽されたのをいいことに彼はヨウに再び接触した。おそらく性的なアプローチのために! そういうときに部下を守りケアするのがボスである貴方の仕事だというのに嘆かわしい。そのせいでヨウは摂食障害と思しき症状で栄養状態が悪く、睡眠薬を投与しなければ睡眠もまともにとれず、セックスすれば快楽を得ることに嫌悪し自ら苦痛を求める始末。これから僕が治療するからいいけど、ここまで症状が悪化したのは貴方が軽薄なゴシップを信じて汚らわしい叱責をヨウに与えたからじゃないか。それだけでも許せないけど、貴方が怪異に侵食されている証拠を集めれば、その前に大量に見つかる信じられない職務怠慢、見るに耐えない怪異の杜撰な管理。何もかも酷い有様で、ボスとして不適切であることは誰の目にも明らかだった。まあそのおかげで東京の怪異対策課本部からの承認は非常に速かったよ。貴方の醜悪さが強烈すぎて、僕の触手のことが注目されなくなったことも助かったしね。しかも不祥事を隠蔽したくて、僕が思い切って提案したシナリオまで承認してもらっちゃったのはラッキーだったな。いいかい、貴方は怪異の力を使いすぎて完全に怪異になってしまった。実際はまだ人間としての意識があるみたいだけど、そういうことにするんだよ。だから怪異として捕獲して、僕がこれから解剖調査するんだ。人間としてのボスの弔いはケンに任せるし、そのまま新しいボスになってもらうから安心してね。彼はヨウのこともよくわかっているから最適だし。ここにあるのはもう怪異対策課のボスじゃなくて、醜い怪異の肉塊ってこと。調査中にうっかり抵抗されて、仕方なく殺しちゃっても怒られない。そうなる前に、出来る限りの実験をしてもここだけの秘密。怪異化した身体は丈夫だから色々できそう。期待してるよ。まずは大至急やりたいのがねぇ、手首からも触手が出せるように増設する手術で……」
 ここまでつらつらと澱みなく話し続けていたが、不意にぴたりと止まったので世久原はシンディの顔を見た。中性的な美青年の顔がそこにあったが、その上品な口から急にずるりとグロテスクな肉塊が飛び出したので、潰れた喉から濁った悲鳴をあげた。
「元々欠けていたペニスの場所に本体を、そこから消化器官を利用して上部までパスを通して、舌に置き換えを行いまず一本。今は性器と口からしか出せないんだよね。外で性器を露出したら変態だし、口で触れるのもちょっと……紳士じゃないというか……いきなりキスしてしまったから、ヨウに軽薄な男だと思われたかも……というわけで、手首か指から出す方がカッコいいかなと。でも自分の身体で試すのはまだリスクが大きくて。血管を使うから失敗すれば指先から腐っていくし。神経も弄るからすごく痛いけど、痛みの度合いも測りたいから麻酔は使わないからね。まずは僕の今の状況に合わせるために、ペニスと舌から改造していこうか。脳と心臓は決して傷つけないから頑張って生きてね。どうせ最後は死ぬけど。ショック死だけはしないように投薬しようかな……」

 知らない声がずっと聞こえてくることを不審に思った深雪が、昼寝からのそりと起き上がった。倉庫になっていて羊も滅多に立ち入らない部屋で物音がする。新しい怪異でも保管されているのだろうか、うるさいからちょっと黙らせてやろうか……そう思って部屋の中を覗いた。
(…………?)
 深雪にはよくわからない光景が広がっていた。楽しげに呟かれている独り言は呪文のようで聞き取れない。謎の人間……人間? らしきものが、怪異を切り刻んでいる。どこかで感じた気配のような気がするが、慣れない気配と混じって思い出せない。
 無視しておこう。羊が殺されそうになっているわけではなさそうだし。深雪はそう結論付けると、落ち着かないので上階の怪異対策課で寝直すことにした。それ以降深雪は以前より地下に居ることを嫌がるようになり、やむを得ずオフィスに寝床を作ってやることになる。
 深雪はシンディのことがあまり好きではなさそうだ。

四『極楽の池』

 羊は高熱を出して寝込んでいた。おそらくただの風邪で、しかし心身ともに弱りきっていた身体はそれだけで動かなくなった。自宅のボロアパートの中、カビ臭くて薄っぺらな布団でうなされている羊を、深雪がはじめに見つけた。少し思案した深雪は、羊を布団に入ったまま簀巻きにして小脇に抱え持ち出した。夜の街を風のように疾走し、山があってもそのまま進んで。空が夜明けの色にほんのり染まりだす頃、清掃中であった禎山寺本堂に簀巻きが投げ込まれた。
「何事だ、神霊が来たよな今⁈」
「朝から喧しいな……慌てるな烈、例の警察犬だろう。害はなかろうが、何の用で……」
「ちょっとあなた来て、人が! 男の子が真っ青な顔で倒れてるわ!」
「あれ、この子は……こりゃすごい熱だ。よくわからんが、親父の主治医に来てもらうか……」

 額に心地よい冷たさを感じて、羊はゆっくりと意識を取り戻した。いつもより分厚い布団に包まれていて、石油ストーブの柔らかな熱がじんわりと室内を温めている。なにより空気が澄んでいて呼吸がしやすい。どこだろう、ここは……視線を横にやると、上品な雰囲気の中年女性が枕元にいた。目が合った瞬間、何故か礼のことを思い出した。
「あの……」
「よかった、目が覚めたのね。ずっとうなされていたのよ。ちょっとだけ起きられるかしら? お医者様にお薬をいただいていますから、飲んでもう一度眠るといいわ」
「あ、はい」
 とりあえず言われた通りにしてから、今の状況を聞くことにした。
「すみません。私は風邪をひいて自宅のアパートで休んでいたと思うのですが……ここはどこですか」
「あらあら、じゃあやっぱりワンちゃんが勝手にやったのね。病院へのかかりかたはわからなかったのかしら。あのね、ここはお寺よ。急にあなたが布団に巻かれて投げ込まれたものだから、とりあえずお医者様を呼んで寝かせたの。あなた、大きくて真っ白な神様のお知り合いはいる?」
「深雪さんですか……しかしどうして寺……お寺……? あの、つかぬことを伺いますが、ここはもしかして禎山寺ですか?」
「そうだけど、あなたご存知なの? 私はここの住職の妻です。礼のお友達かしら……」
 禎山寺住職の妻。つまり、蓮さんと礼さんの母親である貞子さんだ。そう思い当たった途端、羊は慌てて布団から出ようとした。しかし身体がついていかずに酷く咳き込み崩れ落ちた。
「いけませんよ、もう少し寝ていないと」
「ご、ごめんなさ、い、すぐ出て行きます。風邪が……うつったら、赤ちゃんにうつったら大変だから」
「動けないのにそんなこと言わないの。赤ちゃんのことをご存知なら蓮のお知り合いかしらね。でも大丈夫よ、蓮の家族は離れに住んでるの。ここは母屋。お姑さんと一つ屋根の下なんて可哀想でしょ」
 慌しく廊下を走る音がして、部屋の障子が開いた。
「こら蓮、廊下を走るんじゃありません」
「親父に聞いて飛んできたんだよ。羊さん大丈夫?」
「蓮さん……申し訳ありません。私も知らない間に、深雪さんが」
「いやそれはわかったから。目が覚めたみたいでよかった。怪異対策課には礼が今日行くから伝えさせる。だからとりあえず治るまで休んでて」
「どうして警察に連絡するの? まずは親御さんにお伝えしなさいな」
「あのね母さん、羊さんは怪異対策課のお巡りさんなの。礼も今お世話になってるって言ったろ」
「えっ? この子中学生じゃないの?」
「えっ?」
「中学って書いてあるジャージ着てるわよ」
「あっ」
 羊は中学時代のジャージを寝巻きにしていた。それにしても、小柄とはいえ中学生に間違われたのは恥ずかしかった。
「羊さんは小生の二歳下だよ……成人してる」
「あなたそんなに服持ってないの?」
「家で着るものは何でもいいと思って……」
「母さん、なんか着替えあるかな? 買ってこようか」
「あんたと礼が着てた昔の服があるから出してくるわ。ちょっと見ててあげて」
「うん」
 蓮と二人きりになった。会うのは納骨の日以来だ。
「蓮さん、あの……」
「……うん?」
「……ありがとう、ございます」
「あれ、前よりちょっと良くなったね」
 じっと目を見られて心臓が跳ねる。また熱が上がった感じがして、慌てて横になり布団で顔を半分隠した。蓮は羊を見つめたまま、タオルを絞って羊の額にのせた。冷えた指が茹だる頭に触れる。たまらなく心地よくて、羊はうっとりとため息をついた。蓮は悪戯っぽく目を細めて、冷えた手のひらを細い首筋に滑り込ませた。
「ひぁっ⁈」
「すごく熱い……一人でいるときにここまで熱上がって、心細かったよね」
「ぁ、あ……」
「はは、ごめん。そんなにびっくりした?」
 大きな手が羊の頬を掠めて。指先が優しく額に張り付いた髪を撫で整えていく。
「前会った日からさ……あれで良かったのかな、ってずっと思ってたんだ」
「何か……ありましたっけ……」
「何も、なかったからだよ」
 よくわからなくて、羊は黙り込んでいる。
「警察署や病院のほうが近いのに、深雪はわざわざここまで運んだんだもんな」
「どうして、こんな……」
「羊さんは、ここにいると嫌? 体調悪くなりそ?」
「そんな……! そんなわけないですよ。だいぶ楽になったし、ここはあたたかくて、空気もいいし……ただ、申し訳なくて。子どもでもあるまいし服まで借りて、他人の家で看病してもらうなんて……私、なんかが……」
「ふうん……ねえ、熱が下がって動けるようになっても、勝手に帰らないでね。怪異対策課にはこっちで全部話しておくから、小生がいいって言うまでここにいて」
「えっ……何故……っ……?……」
 羊の髪に触れていた手のひらがそのまま頭の横に置かれ、蓮が少しだけ屈んで目を合わせてきた。蓮の顔が近くて堪らないのに、絡め取られた視線を外すことができない。
「ここにいて。小生もできるだけ会いにくるから。いいね」
「はい……」
 いけない興奮を感じてしまったのを頭の中で必死で振り払い、羊は布団を引き寄せて完全に顔を隠してしまった。

 羊の熱は数日寝ていたらほぼ下がった。動けるようになってからは、せめて何か働かせてほしいと境内や門の外の掃除を引き受けるようになった。
「坊主、見ねえ顔だな! こんな朝早くからお寺の手伝いなんて感心感心」
 檀家らしい近所のおじさんから威勢よく声をかけられ、少し縮こまりながら会釈する。蓮と礼が中学生くらいの頃着ていたという私服を借りていて、しかもそれすら羊には少し大きめだったので、また子どもだと思われている。
「羊さん! 今日は特に寒いんだから家の中にいてよ。また熱出ちゃうでしょ」
 初日に言った通り、蓮はこまめに羊に会い見守っていた。
「ちょうど、外に出たかったですし」
「そう? にしてもさ、もっと厚着しないと」
「蓮さんこそいつもの法衣じゃないですか……寒くないんですか?」
「マフラーと軍手してるし」
「それだけ?」
「実は足袋のふりして靴下とか、インナーとかめちゃくちゃ着込んでんの。見る?」
「見ませんけど」
「まあとにかく戻ってよ。そろそろ朝飯できるから、手伝うなら台所手伝ってきて」
 蓮のマフラーを強引に巻き付けられ、肩を抱かれて母屋へ連れ戻された。鼻の上まで包まれたマフラーの中は、体温すら残った蓮の匂いがする。線香の煙たい、しかしそれ以外も混じった何だかいい匂い。こんなことしたら気色悪い……と罪悪感を覚えつつも、羊はつい深呼吸してしまっていた。
 寺烏真家の団欒には、やはりまだ慣れることができないでいる。新しい畳の香り、優しい和食の香り。厳かな、しかし守られていると安心する雰囲気。住職であり蓮の父でもある烈は口数が少なく、羊とは距離を置いている。蓮の祖父の礼寛が『烈は普通にしてるだけでおっかないからあまりあの子に構うな。怖いんだよ顔が。怯えさせてしまう』と言ったからちょっと傷ついてんだよ、と蓮が苦笑いしながら教えてくれた。
 男たちのあれそれをあまり気にする様子はなく、女性たちは……蓮の母・貞子と妻の藤代は交代で赤ん坊を抱いて、朝食をとりながら談笑している。貞子は羊が寝込んでいる間一番面倒を見てくれた人で、誇張ではなく実母より大切に扱ってもらった。
 藤代とは熱が完全に下がってから食事の席で初めて会った。『変な言い方しか出てこないけど、この女性が蓮さんの奥様なのは納得というか……俺の貧弱な想像以上に理想的なご家族なんだな』羊は心の隅をチクチク突き刺す寂しさに知らないふりをしつつ、今までの人生であまり関わったことのない女性たちを別世界の住民のように見ていた。
 以前の一件もあり、羊には少量のお粥が与えられていた。出された食事に全く手をつけないのは失礼すぎる、というプレッシャーもあったが、普段より食欲は湧いていて少しずつ食べられるようになっていた。徐々に味付けを、具材を増やされていき、今では皆と同じ白飯と味噌汁を食べることができている。それに驚いていたら『そんなんで病院にも通わせてもらえなかったのか』と礼寛がもっと驚いていて、課長就任早々墨洋が胃の痛い思いをしたのはまた別の話。
 自分はこの空間で明らかに浮いている、という自覚はずっとあるが……羊自身が居心地悪さを感じているかというと、それは徐々に薄れつつあった。禎山寺には普段から多くの客人が訪れているし、余所者がひとりふたりいたところで誰も気にする様子が無い。それどころか、人間じゃないものが彷徨いていても滅多に騒がれない。それこそ深雪のような神霊クラスでなければ大体は『山から何か迷い込んできたかな』感覚でサッと祓われている。よくない怪異を呼び寄せてしまう羊にとっては最高のシェルターだった。無害な霊は放置されていて、それでかえって悪霊は寄り付きにくいほのぼのした環境になっている気がする。
 タヌキやら犬やら、動物霊に懐かれて動けなくなり部屋の隅で体操坐りしていると、いつも通り羊の様子を見に来た蓮が思わず噴き出して笑った。
「どかせばいいじゃん。その程度の霊、重さ感じないでしょ」
「彼らを振り落としてまで、やることがなかったもので」
「礼も小さいときワザと頭にタヌキ霊のせたままとかやってたけどさあ……あんまり優しくしすぎちゃダメだよ、それに害がなくても。あんな弱いのも受け入れてくれるんだ、って悪いのに舐められるからさ」
「それは身に染みてわかっています。強くても弱くても、私には怪異に抵抗する力がありません。蓮さんのような力は……なので、やり過ごすしかないんです。それが害のある相手でも」
「そうだね……そうやって己を守ってきたんだよね、羊さんは」
 蓮が近寄ると、動物霊たちは怯えて散り散りに逃げていった。すると、その下に妙に濃い影があって……蓮が睨みつけると、それも嫌々といった様子で消えてしまった。
「明日さあ、丸一日休み貰ったんだ」
「はい」
「だから、付き合って」
「……はい?」
「夜明け前に出発したいんだけど……できる?」
「どうせ眠れないので問題ないですが」
「それはそれで問題だけどな。それはまあお医者さんとかに任せるとして。母さんに外出用の防寒着揃えといてもらうから、必ず全部着てから来て。ちょっと暑いかなって思っても全部だよ。外はすげー寒いから。いいね」
「わかりました」
 蓮が納得してくれなければ仕事に復帰できないし、羊は素直に厚意を受け取るようにしていた。しかしどこに連れて行かれるのだろう、夜明け前から準備までして。

 翌朝、日が昇る前。渡された衣類をモコモコに着込んで懐炉まで渡された羊は、蓮によって裏の車庫まで連れてこられた。シャッターを開けると、そこには……
「蓮さん、バイクお持ちだったんですね」
「そっか、羊さんと知り合ったのは割と最近だもんね。結婚して車買ったんだけど、それまでは専らこれだったのよ。よく礼とか藤……嫁さんを後ろに乗せて走ってたんだが、礼は一人暮らし、嫁は出産だったろ。それどころじゃなくて、ここ一年くらいはメンテするだけだった。だから、この機会に羊さんに付き合ってもらおうってわけ」
「はあ……」
 予想外の展開とシチュエーションで、羊は混乱していた。ヘルメットを投げられて、素直に被って支度するしかなく。二人乗りするんだから仕方ないと己に言い聞かせながら彼の腰に抱きついて、逞しい背中に身を預けた。二人とも厚着しているから、どうか伝わってくれるな。この煩い鼓動だけは。
 文字通りすべて蓮に身を任せて、一時間程度だろうか……どんどん細く険しい道に進んでいって、たどり着いたのは山奥のダムだった。
「ここは……」
「間に合った。ほら」
「あ……」
 ダムはなみなみと水をたたえ、消えゆく夜の紫と日の出の朱とを混ぜて鮮やかなグラデーションを映し出していた。太陽の光が粒になって水面に散らばり、はじけては消える。冷たい空気は肌に痛かったけれど澄みわたっていて、音はすべて山に吸われたように静かだった。
「綺麗」
「だろ?」
 そのとき羊が見ていたのは朝日ではなく、それに照らされた蓮の端正な横顔だった……それがバレていたのか定かではないが、蓮はそのまま話を続けた。
「このダムの下には、村が沈んでるんだ。小生は直接行ったことはなかったんだけど、親父やじいちゃんはよく訪れてたって。その村の話をよく聞かされてたから、なんか自分も行ったことある気がしてきて。でもその村はもう無いんだって思ったら寂しくなってさ……ダムになった後に初めてここを見に来た。かつてどんな景色だったかも知らないくせに、悲しくなった。それ以来たまに一人で見に来たり、誰かを連れて来てこの話をしたりしてる。わけわかんないだろ? なんか整理できないモヤモヤがあるときに来る。わけわかんなくても、付き合ってくれそうな人だけ誘って」
「私なんかで、よかったんですか」
「羊さんがよかったんだよ」
 何て答えたらいいのかわからず、羊は口を噤んだ。
 あなたがもしこの水底で眠っているとしたら、わたしはすぐさまおもりを抱えて身を投げるでしょう。だなんて、自分もわけのわからないことを空想しながら。それが愛であるとも知らずに。
「……あのさ」
「……っ、は、はい」
「羊さん、このままうちに下宿しない?」
「は⁈ あ……すみません。いや、あの、無理ですけど?」
「そうかなぁ……羊さん車持ってるし、隣の県とはいえ通勤できなくもないと思うんだけどなあ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「どういう問題?」
「それは、その……いや、無理ですよ」
「やっぱさ、小生ってウザい?」
「え?」
「礼にも言われてさ……もう子どもじゃないから過保護にするな恥ずかしいって、そのまま一人暮らしするって出ていっちゃってさ……」
 ほぼ入れ替わりのように、羊と出会った。はじめは歳が近いから何気なく声をかけて、悪霊に対抗する能力が無いと聞いてお札をあげた。次に礼が深雪の起こした騒動に巻き込まれて、そこでまた羊とよく会うようになった。
「羊さんと会うのはまだ数えられる回数だと思うんだけど、毎回気になってしょうがなかった。最初から元気なさそうだったけど、会うたびにやつれていくんだもん。何より、憑いてる怪異がどんどんタチ悪いのになってた」
「それは……」
「羊さんはとっくに大人だし……家族でもなければ昔からの友達でもない。羊さんのこと何も知らないのに出しゃばって、かえって傷つけたらって……ビビったんだよな結局。親御さんの納骨で会ったとき、もっと何かできたんじゃないかって後悔した。でも何すれば良かったのかもわかんなくて、それでもそろそろ会いにいこうかと思った矢先に……深雪に先手を打たれたってわけ」
「蓮さんに悪いところなんてありません。私が弱くて、自分の面倒すらみれないで、大人に見えないのがいけないんです」
 口に出すと余計に情けない。けれど、禎山寺での日々は癒されるもので、そこはしっかりと感謝を伝えなくてはと思った。
「それに、蓮さんにはもう十分すぎるほど助けられています。これ以上求めたらきっと罰が当たる。今とても幸せなぶん、後できっと報いを受けるんだ」
「今、幸せだと思ってくれてるんだ」
「っ、あ……」
 寒いのに顔だけすごく熱くなって、急いで俯く。
「当たり前じゃ、ないですか……だって、こんなの知らなかった……! いつも暖かくて、私なんかでも居てよくて、みんな優しくて、言わなくてもして欲しいことをしてくれて、てことは見られてるのに、視線が恐ろしくなかった……! そんなの、幸せだって言わなかったら……」
「ごめん、やっぱり子ども扱いみたいになっちゃうな」
「あっ」
 大きな手に引き寄せられて、抱きしめられていた。蓮のそれは、かわいそうなみなしごへの慈愛でしかないと、羊もわかっているのだけれど。必死で言い聞かせているのだけれど。理性がとろけてしまいそうになる。
「羊さん、他にしてほしいことないの」
「もう何も、無いですよ……」
「無いって声じゃないなあ」
 頭の真上から耳元に息がかかる。そこからまたじわりと熱を帯びて、思考が焼き切れてしまいそう。
「じゃあ……」
 あふれ出そうな想いで、唇が震える。
「わたしなんかでも、何か生きてる意味があるって。生きていていいって、蓮さんは思いますか。嘘でも良いので、そうだと言ってください」
「ばかだなあ、そうじゃなきゃここまでしないよ」
「馬鹿だから、言われなきゃわからないんです」
「そっかあ……やっぱり、消えたいって、思ってたんだ」
 蓮の胸に顔を埋めたまま、羊の頭が小さく動いた。
「じゃあ、小生がお願いしたら、聞いてくれる?」
 羊さんに生きていてほしい。穏やかに生きられる方法を見つけて幸せになってほしい。一緒に考えるから。
 そうか、自分がみっともない死に方をしたら、愚かな生で終わってしまったら。蓮さんがここまで与えてくれたことが全部無駄になってしまうんだ。それは嫌だなと羊は思った。
 蓮さんのために生きます、なんて。言ったら重すぎるので口には出さない。ただ「ありがとう」とだけ口にして、そっと蓮から身体を離した。
「ねえ、やっぱり下宿しなよ」
「それは、無理ですって……」
「はは、やっぱ恥ずかしいかあ。母さんたちもすっかり、小生や礼が子どもだったころみたいな感じで接してるし」
「そ、そうなんです。甘やかされすぎてダメになりそうというか。社会人として」
「小生よりストイックじゃない? いっそ仏門入る? それでやはりうちに住んで……」
「……わかりました、わかりましたから。考えておきますから、一旦その話は止してください」
 また蓮の厚意を断ってしまったけれど、そこに前のような苦しみはなく。今はすぐ縋らずとも、差し伸べられた手にはいつでも手が届くという約束が、羊を少しだけ強くした。
「そろそろ帰ろうか」
「はい」
「どこかでご飯、食べてから帰ろう」
「……はい」
 今度は嫌だと言わず、行きたいと伝えた。だって、この小さな旅が終われば、夢のようだった療養生活も終わりを迎えるのだから。バイクに乗り、再び蓮の背にしがみつきながら。永遠にこの時間が続けばいいのにと、羊はその感触を必死で記憶に刻みつけていた。

不審者注意
礼「で、俺が産まれたってわけ」
水蜜「さては『寺生まれで霊感が強い』って言えばなんでも許されると思ってるな」
顔細かく描いたのにつぶれちゃった
ので、拡大版も
高画質版はXfolioでね!
(上画像触ると飛べる)
10年前の蓮&藤代夫婦。
幼馴染だけどずっと友達以上恋人未満で、恋人として意識したのは高一と高三のころだったのだとか。


五『ティーポットで鼠は眠る』

 羊が禎山寺を去ることになった日、明李が車で迎えにきてくれた。そこには礼の姿もあった。
「学生さんにまで余計な仕事をさせて申し訳ありません……」
「いやいや、実家だし俺が適任じゃないですか。気にしないでください」
「しかし……」
「兄貴も喜ぶし」
「礼おかえり! 寒かっただろ? 早く中入れよ」
「ほら早速来た」
「あはは、礼くんめっちゃ可愛がられてますねー」
 一週間ちょっとの生活で、禎山寺の皆さんにはかなり良くしてもらった。なるほど、あの人たちの愛情を一身に浴びて育ったらこの子が完成するのかと。改めて羊は、礼を眩しく感じた。蓮に促され室内へ戻ると、羊は二人から留守中の出来事を聞くことにした。
「職場の環境はかなり良くなってると思いますよ」
「墨洋先輩が課長になったんですよね」
「前から先輩が実質課長だったし今更感ありますけどねー。先輩が直接権限持ってる方が話早くて助かります。あのスケベセクハラオヤジの元課長、都合の良いときしか出勤しないから承認が滞ってウザくて」
 そういえば礼が来る前も『禎山寺の怖〜いお坊さんたちに大層可愛がられている、まだ十九歳の礼さん』という情報だけで、すわ愛くるしい女子大生かと立ち上がりかけていたなと……シンディのときの一連の騒動も、羊は遠い昔のことのように思い返していた。
「墨洋先輩は責任ある役職に就きたくないと言っていましたし、嫌そうにしてるのが目に浮かびますが……それにしても、前課長をこんなに早く追い出すことができたなんて予想外でした」
「シンが東京の怪異対策課とのコネを使ってくれたんですよ!」
「あの人が……?」
 シンディは前課長の経歴から不自然な点を徹底的に洗い出したらしい。怪異に乗っ取られている証拠や実害をまとめて、東京の怪異対策課に持ち込み警視庁の偉い人に直談判したのだとか。シンディの告発を無碍にすればイギリスとの国際問題にもなりかねない。怪異対策課は京都府警がかなり力を持つのでそちらにも話が行き、月極の耳にも入った。さらにパワハラ被害者である羊が倒れて禎山寺に運び込まれたことで礼寛にも知られた。要するに、かなり大事になった。警察内に長年怪異が棲みついていて、ついに人間のスタッフが一人死にかけたのだから当然ではあるが、それにしても大騒ぎになった。
「私が署に戻ったらどうなるのでしょう」
 せっかく治りかけていたのに胃が痛い。
「いや、郷徒さんは安心して戻ってきてください! もう騒ぎは収まってるので。他の課の人……あれから交通課の人とかとも仲良くなったけど、みんな郷徒さんのこと心配してますよ」
「交通課……」
 確か灰枝直毅との交際を噂されていたのでは。嫌なことを思い出してさらに胃がチクチクする。一方で、礼が署内で可愛がられているであろう光景は容易に想像でき一層眩しく感じた。
「礼くんの言う通りですよ。心配しないでください。灰枝さんにキャーキャー言ってた女子たちはすっかり『シン様』ですよ? ミーハーだなあ」
 シンディは署内で大人気だそうだ。見た目や経歴だけでも注目されたが、愛嬌のある日本語で誰とでも気さくに話すキャラクターからあっという間に溶け込んでいった。シンディは怪異対策課が前課長にずっと苦しめられていたことを話して回った。直毅が前課長のセクハラ行為を諌めていたことは知られていたため、嫌がらせに嘘の噂を流されたのだというシンディの話はすんなりと受け入れられた。直毅にも羊にも同情的な意見が大多数になったそう。
 自分を中心に大騒ぎになったことは嫌だったものの、シンディなりに羊を気遣って動いてくれたことは感謝しなければと羊は思った。
「それで、郷徒さんに関することであとひとつ片付けないといけないことがあって。二人で迎えにきた主な理由でもあるんですが」
「まだ何かあるんですか……?」
「むしろこれがメインですよ! 郷徒さん、よくあんなヤバい部屋に住んでましたよね!」
 明李は墨洋に頼まれ、留守になっている羊の自宅を見に行ったそうだ。深雪が勝手に入ったので戸締りに、という理由だったが……実際にアパートを見たところ、こちらも想定外の騒ぎになった。
「まあ、確かに……とにかく安い家賃で選んだボロボロのアパートですが」
「節約のためボロさを我慢するのはわかります。でも霊感強いんだから、悪い気の流れくらいは気にしてください! あんな霊障まみれの部屋、しかも暖房無しで寝てたらそりゃ倒れますよ。ちょっと滞在しただけでかなり疲れましたよ?」
「それは明李さんのほうが霊感が強いからでは」
「郷徒さんとはそんな変わらないでしょ。むしろ郷徒さんは怪異を拒む力が無いのに感受性は俺以上じゃないですか。余計にマズイです。応急処置でお祓いしてもらいましたから。いやー礼くん連れてってよかった。マジ強いですね、しつこくこびりついた悪霊もサッと祓っただけでスッと除霊して」
「そんな油汚れみたいな……」
「本当に簡単に祓っただけですよ。だから早く引っ越した方がいいと思います。土地自体があまり良くないから、すぐ逆戻りします。『郷徒さんの労働環境をなんとかしろ』って、じいちゃんからも言われてるんで。この件は墨洋さんにも報告しましたよ」
「というわけで。これから荷物まとめてから署まで来いという命令です」
「待ってください! そんな急に言われても」
「あ、荷物は全然手つけてないので安心してください。留守中に空き巣に入られた痕跡もありませんでしたし、大家さんに頼んでしっかり施錠してもらってます。郷徒さん自身でゆっくり整理してください」
「そうじゃなくて……引っ越すにしても場所も決まってませんよね。それなのに今日荷物を運び出すんですか?」
「もうあの場所で寝泊りしちゃだめなんですって」
「とは言っても……あの、お恥ずかしながら……今払ってる以上の家賃は……なにより勿体無いですし」
 羊は趣味も無く、食事もろくにとらないので、祖父母の介護費用や母からの金の無心があった以前よりは経済的に余裕ができたはず……ではある。しかし長年の極貧生活は羊が自分にかけるカネを極限まで削り、深刻なセルフネグレクトを引き起こしていた。中学のジャージもその現れである。
「ほら、だから言ったでしょ」
「ほんとだ……墨洋さんの言ってた通りだ」
「あの、二人とも何を」
 羊の反応を見て、礼と明李は目配せしてひそひそと何やら話し合った。そして礼が蓮の方を見ると、蓮は何やら複雑な表情で頷いた。
「ちょっとなあ、あの人は……でもまあ、ちゃんと怪異対策課に雇われてる人なんだから大丈夫だよな」
「悪い人じゃないと思うけど」
「悪いかと言われたら違うが……そっか、礼はまだわかんないか」
「なんだよそれ」
「……あの、蓮さんまで何を……?」
 蓮には少しだけ甘えられるようになったところなのに。何やらわからないところで話が進んでいて、羊は不安げな表情を見せた。それに気づいた蓮は慌てて羊に視線を向け、大丈夫だと笑った。
「ここに下宿するのは無理って言うからさ。怪異対策課の方々にお願いすることにしたのよ。小生にはいつでも連絡してね。よし、これから引越し作業なんだよな。礼、早速頼む」
「うん。あとは俺たちに任せて」
 どことなく蓮に似た笑い方で目を細めて、礼は羊を軽々抱き上げた。
「さっきから何ですか⁈」
「うわ、めっちゃ軽! これはダメだわ」
「郷徒さん、今日は全部俺たちの指示に従ってもらいますからね」
「えっ……ええ……?」
 羊の知らないところで、どんどん話が進んでいるらしい。

 礼によって強制連行された羊は、明李の運転でテキパキと運ばれてアパートから荷物を運び出し、久々の怪異対策課オフィスへと引き出された。そこには呆れ顔の墨洋と、そわそわ落ち着かないシンディが待ち構えていた。
「やってくれたなあ、郷徒」
「も、申し訳ありません……」
 痛々しいほどに縮こまって震えている。それに対して墨洋は「なんだ、ちょっとは愛嬌身につけたのか」と噴き出して笑った。
「いやまあ確かに色々疲れたけどスッキリしたわ。強制的に大掃除させられた気分だな。とはいえ郷徒は再教育だ。休み方まで指導させんな。ちゃんとしたところに引っ越して、自己管理に励むように。頼もしい助っ人に見張ってもらうから嘘は通じないぞ」
「もう……処分は好きにしてください……助っ人?」
「はーい! おかえりなさいヨウ。あとはボクに任せてくださいね!」
「いやあ、専属の医者なんて贅沢だな」
「は? ……え?」
「ボクとシェアハウスすればいいのですよ」
「シンとですか⁈」
「本当にいいのか? シンの家のそばに新しい部屋探さなくて」
「引っ越したばかりで、まだ物を置いてない部屋がひとつありまして。ふたつのおうちを移動する時間もモッタイナイですし」
「シンさえよければそのほうが助かるが……こいつ、最近怪異を呼び寄せる頻度が上がっててな」
「うちの寺でお祓いはしましたが、しばらくは気をつけたほうがいいそうです」
「そっちもお任せください! ボクは怪異と戦えます。そんなに強くはないですが」
「郷徒さん一人にしとくよりはずっといいですよ!」
 明李や礼にも背中を押されて、ほぼ強制的にシンディとのルームシェアが決まってしまった。今日は帰れと墨洋に追い出され、羊は荷物と共にシンディの家に用意された部屋に放り込まれた。荷解きでもして早く寝ろというわけだ。
 しかし羊には荷解きに時間がかかるような、まともな荷物は無かった。こまごました生活必需品、仕事に行くための最低限の装備一式、通帳などの一般的な貴重品、以上。旅行のための荷物かと思われるような量である。家電や布団はあまりにも古く壊れかけていたため、アパートに置いたまま後日処分することになっている。
 唯一、引っ越しらしいボリュームのある段ボール箱がひとつだけあった。そこには禎山寺からいただいてきた古着が入っていた。古着といっても新品同然のものばかりで、貞子が選別して詰めておいてくれたものだ。わざわざ買ってきたと思しきものもあり、余ったスペースにはおかゆとゼリー飲料が詰められていた。この中には、あの一週間の優しさが詰まっている。なんだか箱丸ごとが大切な宝物に思えて、食品だけ取り出しあとは元通り段ボール箱に戻しておいた。
 その夜、仕事から帰ってきたシンディが和食を作ってくれたので羊は驚いた。羊が禎山寺ではいつもより食事がとれたと聞き、彼なりに食事を再現……精進料理を独学で調べて料理してくれたらしい。そこまで考えてくれたものを無碍にはできない。羊は多少無理してでも食べようと思ったが、義理など抜きにして美味しく完食することができた。不快でない満腹感は、蓮とダムに行った帰りに食事した時以来かな……などと過ぎ去った時間を反芻していると急に眠くなった。移動が多い一日だったので疲労したのだと思った。
 シンディの勧めで先に風呂を借り、用意しておいてくれていた肌触りの良いパジャマに腕を通す。真新しいベッドに横たわったまでは覚えているが……それから朝までの記憶は無い。こんなに深く眠ったのは、高熱で寝込んでいたとき以来だ。しかし風邪の苦しみで気絶したあのときとは違い、目覚めは妙にすっきりしていた。

***

五『ティーポットで鼠は眠る』

 ヨウが倒れたと聞いて、すぐに駆けつけようと思ったが既に山奥の僧院で保護されていた。ミユキがそこに運んだそうなので、あえてそうする意味があったのだろう。ヨウの問題は単なる風邪の治療で済まないことは理解している。体調不良に付随して彼の精神状態も悪化、また怪異を呼び寄せることは想像に難くない。土地的に清浄な場所で、怪異が出現しても対処できる霊能者に看病させるのは合理的な判断と言える。
 仕事の関係と言わずに、友人とだけ名乗れば良かっただろうか……否、あの厳格な佇まいのマダムはそれでも通してはくれなかっただろう。幼い頃住んでいた町の修道女を思い出す。ああいう人達とは一生相容れないことを僕は知っている。ごく小さな範囲のみを慈しみ、守護するためなら竜にもなる。どこか自分に近い思考であるから、かえって悪魔祓い共より苦手だった。だから素直に引き下がった。ヨウのような哀れに傷ついた者なら、さぞ懇ろに保護してもらえるだろう。
 その代わりに、僕はヨウがいつでも安心して帰って来られる場所を整えておくことにした。
 幸い、新しい同僚には恵まれていた。ケンは新しいボスとして申し分ない能力と経験があり、ヘータは仕事に情熱が無いところが好ましかった。二人とも普段から怪異と関わっている人間にしては精神に汚れがない。あの最悪な元ボスがいたのに今日までヨウが無事でいられたのは、最も身近な仲間にだけは恵まれていたからだ。
 あとは簡単だった。僕の容姿は日本でも魅力的に感じてもらえるようなので、女性を中心に信頼を得て誤った情報を修正していった。言語習得はまだ不完全だが、それもかえって相手に脅威を感じさせない長所になった。日本語は意識して拙いままでもいいかもしれない。
 何よりこの国では、赤髪緑眼は悪魔の使いだという先入観が無いのが良かった。優秀な霊能者は僕の身体に染み付いた怪異のにおいに勘付いてしまうものの、警戒こそすれ異教徒だと罵り攻撃してくるような者はいない。
 ただ当たり前にそこにいて良いとされることが、こうも心地良いものなのかと。ヨウに出会ってから新しい発見ばかりだ。ああ、彼が戻ってくるのが待ち遠しくて仕方がない。準備は万端に整えてあった。

「あの、ここ家賃はいくらくらいですか? 光熱費とかも払いますから……その、通帳には最近の給料しか入っていませんが、ここから好きなだけ」
「もう、お金のことはいいですよ。このお部屋は買ったんです、ボクの好きなように改造したかったので。ヨウは治療のことだけ考えていればいいのです」
「しかし、それでは……」
 念願の日がついに来た。ヨウのために空けておいた部屋に案内し、好きに荷物を広げておいてと告げて僕は署に戻った。ヨウは一人になってからもなかなか荷解きを始めなかった。新しい水槽に放たれた観賞魚のよう。部屋の隅で荷物を抱えたまま、ひっそりと様子を伺っていた。しばらく経って意を決したように動き出したが、箱から少し荷物を出しかけては手を止め、箱を元通りに閉め、大切そうに抱えて丸ごとクロゼットの奥にしまいこんでいた。預金通帳すら軽率に差し出す彼が一体何を、と後で確認したが何の変哲もない衣類が収まっているだけだった。彼のプライベートは空虚なようで謎が多い。
 結局家に帰るまで、ヨウは自分の荷物以外の一切に触れなかった。冷蔵庫には簡単に摂れる栄養食もあると教えておいたのに、水の一滴も飲んでいなかった。ネグレクトの根深さを改めて実感した。だがここまでは想定の範囲内。
「ただいま帰りました、ヨウ。何か食べましたか」
 ヨウは気まずそうに黙っている。何も食べなくても、何か食べていても、どちらにせよ同じ顔をしていたのだろう。それ以上は何も言わずに、思い切って料理をはじめてみた。いつもの紅茶ではなく緑茶を出されたことに首を傾げながら、ヨウは時々こちらの様子を伺っている。緊張した気配が感じられたが、完成した食卓を見せたときにわずかに綻びが見えた。
「これは和食ですか?」
「レシピは調べてきたつもりですが……どこかヘンですか?」
「いえ、逆に上手すぎて驚いたんですよ。シンは料理も得意なんですね」
「ラボで怪異研究するのとやることは変わらないので。お野菜は大人しいのでこちらのほうが簡単ですよ」
「そう言われるとなんか……いえ、ありがとうございます。私が和食や野菜なら食べられたのを知ってくれたんですよね」
 ヨウは礼儀正しい性格なので、こうして対面で他人に食事を出されたら無理をしてでも口に詰め込むだろう。反応が悪ければ止めようと思って向かい側に座って観察していたが、思ったよりも良い反応が得られた。
「無理しないで。食べられなかったら置いといてくださいね。ボクもこれから食べますから」
「いえ……あの、美味しかったです。全部食べられそう」
「そうですか! おかわりありますよ」
「流石にそれはやめておきます」
「ふふふ、ハラはちぶんめですね」
「そういうシンは……それ全部食べるつもりですか?」
 一緒に食事しても気分を害さない様子なので、僕も夕食を摂ることにした。
「はい! ボクもこの料理好きになりましたので。お肉もあるとうれしいですけど」
「別に私もベジタリアンというわけではないですし、肉でも魚でも好きなもの食べていいんですよ?」
 ヨウに合わせるつもりで米を買ってきたが、サンドイッチよりも手早く満たされ空腹になりづらいので存外気に入った。試しに小さい袋を買ったが、次はもっと大きな袋を買おう。そんなことを考えているうちに、ヨウは与えた食事を完食していた。初日にして完璧な成果だ。
「ご馳走様でした。お仕事も忙しいのに食事までありがとうございます。本来ならこういうことくらいは私が請け負ったほうがいいのですが……」
「気にしないで! 作るのも食べるのも好きなので」
「せめて皿洗いくらいはさせてください」
「そこに入れておいてくれればいいですよ」
「食洗機完備……すみません。役に立てることがなくて」
「もう、気にしなくていいのに……わかりました、今度何かお願いしますね。とりあえずお風呂入って寝ましょう」
 見返りを求めない奉仕は居心地が悪いだろうと理解はできるけれど。十分すぎるほどに返してもらっているのに、というこちらの感謝をうまく伝える術を僕はまだ知らない。ヨウはここに居てくれるだけで価値があるのに。貴重な個体なのに、実に素直で従順でうまくできすぎている。今だってほら、僕が処方した薬を何も疑わず全部飲んでしまった。

 先に入浴させたあと、案の定エアコンすら使っていなかった彼の部屋を暖めておきしばらく置いておく。頃合いをみて、部屋の扉を一応ノックした。返事が無いのはわかっているので、そのまま部屋に入る。
「ヨウ、これからお願い、きいてもらっても?」
 ベッドの上でも壁際の隅に縮こまって眠っている。胎児のように丸まった背中を撫でて問いかけても、強引に真ん中に引っ張って仰向けにしても目覚める気配はなかった。少しサイズが大きかった寝巻を肌蹴させると、くっきり肋骨の浮いた胸がおだやかに上下している。
 ヨウは成人男性に必要な体重を大きく下回っているし、体質的にも薬の効果が出やすいらしい。怪異の霊障にも影響されやすいというし、そんなところまで『何でも受け入れる』彼の性質はうまく出来すぎていて興味が尽きない。
「何もしなくていいですからね。ただじっとしているだけで、起きる必要もありませんから。前の続きをしましょう」
 ヨウは僕とほとんど年齢は違わないのにteenagerにしか見えなくて、こうして寝顔になるともはやkidではとも感じる。子供部屋で眠る無垢な子におやすみを告げるように、思わずキスしてしまったけれど。乾いて少し裂けた唇に触れた途端、遠慮がちに、しかし物欲しそうに食まれたので意外な反応に驚いた。すぐに嘔吐するのでキスは不味かったかなと思ったのに、夢の中の彼は口に触れるものへ好意的な反応を返した。試しに指先で唇を割開いてみると、少し歪んで並んだ歯が甘く噛み付いてきて引き込まれ、赤子のように吸われた。
「わあ……」
 思わず声を出してしまった。だってこんな、いびつで美しい生き物は初めて見たから。実年齢以上に老い枯れた諦念と、未熟児のように瑞々しい愛欲が同じ肉体に詰まっている。こんなに幼く無垢な反応を返しながら、薄い腹の下ではすでに濫りがましい熱を抱えていた。
 食まれていた指で頬の裏を撫でて、たっぷり糸をひくほど唾液を絡ませて引き抜く。名残り惜しそうに追いかける舌には口付けて触手を絡ませてやりながら、閉じても隙間の空いた太腿の奥に濡れた指を滑り込ませた。常にじっとりと湿り気を帯びた穴は相変わらずで、本人の潔癖さを裏切るように蠢いていた。
 起きているときは前戯を拒まれてしまったが、今回はしばらく指で探ってみることにする。普通の男性と同じく前立腺への刺激には快感を感じているようで、ペニスを勃起させて腹部を濡らしていた。
 ヨウには残念な報せだが、彼の改造された身体を元通りにする手立ては今の所見つかっていない。できるとしても大掛かりな手術が必要だろうしリスクが非常に高い。それよりも、本人の意思に反した発情を抑える処置を考えた方がいい。性的な快感を嫌悪し自傷行為まで行う精神性の彼に、淫魔のような改造を施した怪異の意図が今更ながら気になってしまった。脳は潰してしまったので最早尋ねることはできないが。これから女性的な快楽とうまく付き合う方法を得るに従って、男性的な性欲と雄の機能は失われていくだろう。すでにペニスは縮小をはじめているようだし。ホルモンバランスの変化と精神的なショックのケアも考えておかないと。
 さて、ヨウもそれどころではなかったとはいえ、僧院で禁欲していたのは間違いなく、元気になってくれば反動で強く発情するだろう。僕の知らないところで怪異を誘ってしまって、壊されてしまっては後悔どころではない。というわけで、早速満たしてやることにする。眠っている間に済ませておけばヨウも錯乱して自傷することも無い。こちらも落ち着いて触れることができる。
 今日は時間がたっぷりある。とりあえず僕も一発抜いて落ち着かせてもらうことにした。セックスの相性が良すぎて、触手の性欲に思考がもっていかれてしまうのである。気持ちいいのだが、研究にはノイズなのだ。自分のモノがかつてあった傷跡をなぞると、待ちかねたように充血した肉塊が硬く脈打ちながら飛び出してきた。ゆっくり挿入しようとしても我慢がきかず、思わず奥まで一気にねじ込んでしまった。
「――っ!」
 ヨウは強すぎる刺激にのけ反ったものの、薬で深く眠っているので覚醒することはなかった。やはり、冷静ではいられないなこれは。触手とはいえ男性器になったパーツなので、射精すれば落ち着くことはすでにわかっている。しばらく触手の好きにさせることにした。自前のペニスであれば忙しく腰を動かすところだが、元は怪異の持ち物だったので単独で動かすことができる。手持ち無沙汰になったので、連続で絶頂を迎えて目元を涙に濡らすヨウを慰めることにした。
 繋がったまま抱きしめて、濡れた頬を舐めると唇が寂しげに震えていた。求められるままキスすればそれが安心するのか、舌の代わりに生えた触手を夢中で吸った。これが本来の反応なのだろう。いつもは自傷して無理やり押さえつけている、幼子のように甘えながらイきたい欲望。怪異に嬲られて肥大化したという乳頭を腫らして胸に擦り付けていたので指で刺激してやると、胎内を心地よく締め付けこちらの射精を強請りながら細い指でしがみついてきた。これが怪異を酔わせ破滅に誘う甘い罠か、とぼんやり考えているうちに持っていかれそうになる。射精直前で外に出すつもりだったのに、奥の窄まりに亀頭を咥え込まれたまま人間の射精量を大きく上回る精液をたんまり注ぎ込んでしまった。
「んっ……」
 無意識に縋りついてくる細腕はやさしく握って、不安をはらうように軽く触れるだけのキスを落としてやる。ぐったりとベッドに身を投げ出したヨウを引き続き観察しながら、出してしまったものを掻き出すことにした。翌朝後から流れ出てきたら同意なしにセックスしたことがバレてしまうし。いや、セックスする許可は以前得ているので非合意ではないのだけれど。朝から驚かせたくはないし。未完成の子宮とはいえ、万が一妊娠に近い症状が出てしまったら時期尚早であるし。できればそちら方面の実験の合意も得たいが、それは慎重に交渉しなくては。
 挿入していた触手を太い一本から無数の細いものに変化させて、クスコで開くように肉筒を押し拡げた。膣口のように赤く熟れた内壁まであらわになって、奥から白濁した粘液が次々と流れ落ちる。前に一人で試したときより粘度が強く、触手で何度も掻き出さなければ綺麗に取り除けなかった。本当に生殖能力があるのかもしれない、もっと調べてみたいところだが……この後処理だけでもヨウは断続的にイッていて、疲労が見えはじめていたので自重した。拡げたついでに少しだけ中を調べて、あとは朝まで寝かせることにした。

 ミユキはヨウのことをコマネズミと呼ぶ。子供の玩具のように小さなネズミという意味で、彼の巨体から見下ろせば人間など皆取るに足らない小ささなのだろうと解釈していた。しかしなるほど、なかなか的を得た愛称であると腑に落ちた。小柄な身体を胎児のように丸めて眠る姿はティーポットに詰めこんでしまえそうだったし、素直に快楽を受け入れれば口寂しがって唇に触れたものを吸っていた。てのひらにのせて観察しているような気分になる。
 このまま仕事なんて辞めさせて、小さな部屋の中で飼えればいいのに……さすがにそれは許してもらえないだろうな、でもなんとか交渉できないかな、などと思いながら。眠るヨウの頬を撫でる。ヨウはくすぐったそうに少し動いて、唇を開いた。
「…………れ……」
 何故か急に悪寒がはしって、わけもわからずヨウの口を塞いでしまっていた。正気に戻ってすぐに手を離したが、ヨウは寝言の続きを言うことはなく、そのまま静かに寝息を立てるばかりだった。
 どうしてこんなことを? ヨウのことをもっと知りたい、そのためにはただのうわ言でも、むしろ無意識のうちに発した言葉こそ採取したかったのではないか。なのにどうして目を逸らしてしまったのか。嫌な予感がした。とてつもなく不快な感触がしたのだ。今までにない感覚で、危機感すら覚えて拒絶反応を抑えきれなかった。これは一体何なのだろう。これは、ヨウと接触したことによる自分自身の変化も調べなくてはならない。
 その日は僕もすべてを切り上げて、シャワーを浴び直して寝ることにした。明日の朝は、消化に良い柔らかなパンを仕込んである。ヨウはそれも喜んで食べてくれるだろうか。このときも妙な不安感がゾワゾワと気味悪くて、僕はシャワーを冷たくして頭からかぶった。

 それらの不明な感情がすべて『恋愛感情』というものから起因すると説明でき、僕がヨウに恋をしてしまったと自覚するに至るまでには。まだしばらくの時間と、危険な事件に追い立てられ強制的に実行せざるを得なくなったいくつかの実験が必要となる。このときはまだ、僕は何も知らなかった。


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