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勝手に百冊チャレンジ【8冊目】「超訳ケインズ『一般理論』」

ケインズさんには恨みはないけど、ケインズの役割が終わったことを確認するために買ってみた。(ロクに読んでないけど(^^;)

山形さんの整理

山形さんが整理してくれた、ケインズの8つのステップ

1 雇用、特に労働は名目賃金が簡単に下がらない。だから価格を通じた市場での需給調整は効かない。
2 その場合、雇用は経済全体の総需要で決まる。 これが経済の供給能力より低いと失業が起きる。
3 総需要は、消費と投資に分けられる。
4 消費は、かなり一定だ。だから需要が十分かどうかを左右するのは投資だ。投資が足りなければ、政府が公共投資をして補うべきだ。
5 民間の投資は、 投資プロジェクトの期待収益率と金利で決まる。 期待収益率が金利より高い プロジェクト が実施される。
6 期待収益率は、あまりはっきり分からない。株式市場もその評価のあてにはならない。だから投資を増やすには金利を下げるべき。
7 金利は、人々が流動性=現金を手元に持って上がると上がる。中央銀行がお金を刷って人々に配れば、みんな満足するので金利は下がる。
8 現金をどのくらい持ちたがるかは、実体経済とは連動しない。だから失業が無くなる水準まで金利が自動的に動いたりはしない。失業があるほうが一般的で、完全雇用の方が特殊なのだ。

私の第一印象

私の観点では、4か5あたりから怪しくなってくるという印象がある。すなわち、「(公共)投資」そのものに意味があるのか?ということ。まだ、完全に終わったとは言わないけど、日本においては、ほぼ必要なインフラ整備は終わった、という印象がある。

一方で、「知識」への投資というものが存在するのであれば、そこに政府(?)の役割はまだ残っているかもしれない、という気はする。このテーマについては、まずは以下の本を読んでみようかな、というところ。

まあ、そもそも、現在はGDPと幸福がリンクしていないので、総需要そのものがどうでもいいと言えば、どうでもいいんだろうけど。「完全雇用」に焦点をあてたMMTの台頭は、その象徴かな、という気はする。

さいごに、表紙に見えにくく印刷されている、この言葉は印象的。

それは因習的な思考と表現の形からの脱出なのです。
ここでくどくど表現されている発想は、実に単純で自明だと思います。
難しいのは、その新しい発想自体ではなく、古い発想から逃れることです。
その古い発想は、私たちのような教育を受けてきた者にとっては、心の隅々まではびこっているのですから。

批判的に考える

しばらくたって、いろいろ書きたくなってきた。(@2021/5/10)

たぶん、この「批判」のベースにある私の発想は、今のところ、以下の記事にまとまっていそう。

こんな呟きもしました。(スレッドとして参照いただけると幸いです。)

失業って、そもそも困ったこと?

2 その場合、雇用は経済全体の総需要で決まる。 これが経済の供給能力より低いと失業が起きる。

これはその通りだと思うけど、で、失業って困ったこと?と私は思う。大恐慌のときのような、(ある意味)一時的な失業はともかく、恒久的な失業、言い換えると、経済が需要にくらべて、大きな供給能力を身につけたって、寿ぐべきことでは?と思う。

とは言え、市場経済を前提とすると、市場参加者の手元に貨幣がないと何かと不便なので、失業が発生している場合に、政治的に許容できるような貨幣の配布方法を考案する必要があるとは思う。

それがベーシックインカムだったり、ワークシェアによる失業の解消だったりするのだろう、というところ。

公共投資って必要?

4 消費は、かなり一定だ。だから需要が十分かどうかを左右するのは投資だ。投資が足りなければ、政府が公共投資をして補うべきだ。

いい投資先があれば、そうしたらいいよね、というところ。でも、今の日本って、公共投資(公共事業)でできることって、ずいぶん限られてるよね、というところ。意味のない投資をしたら、地球の資源や環境を毀損してしまうし。。

追記(@2021/6/11)

たとえば、道路って、輸送の効率を上げるいい投資だけど、昔と比べると、日本の場合、かなり投資先が限られてきたな、という気はする。

要は、「貧しい社会」が前提の理論なのよね。

団塊Jr。エンジニアを生業としつつ、経済学→経営学→心理学へと関心が移ってきた変な人。ついに退職し、「知識志本主義社会」へ旅立つ。夢(妄想?)は、アダムスミスやドラッガーのように結果として新たな学問領域を打ち立てること。SF:戦略性/学習欲/内省/慎重さ/着想