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よき「教育ある人間」のあり方

ドラッカーさんの「ポスト資本主義社会」での記載から、よき「教育ある人間」のあり方について、私の独断で整理してみました。

そもそも、なぜ「教育ある人間」が大切となるのか?

それは、知識社会への移行が進んでいるためである。「教育ある人間」はお飾りから、「重要な存在」へと変わりつつある。

それゆえ、知識社会への移行とは、人間が中心的な存在になるということに他ならない。そして知識社会への移行は、知識社会の代表者たる「教育ある人間」に対して、新しい挑戦、新しい問題、あるいは、かつてない新しい課題を提起する。
封建時代の騎士が中世初期における「社会」の代表であり、ブルジョアが資本主義時代における「社会」の代表であったとするならば、「教育ある人間」は、知識が中心的な資源となるポスト資本主義時代における「社会」の代表ということになる。
知識が中心的な資源となるに従い、この「教育ある人間」が、新しい要求、新しい課題、新しい責任に直面することになる。
今や「教育ある人間」は「重要な存在」である。

よき「教育ある人間」は対話をうながす

「教育ある人間」は統合を行う必要がある。それゆえ、対話を促す必要がある。

専門知識を一つの「知識体系」へと統合することのできない「教養課程」や「一般教養」は「教養」ではない。
「教養」としての第一の責務、すなわち相互理解をもたらすこと、すなわち、文明が存しうるための条件たる「対話の世界」を作り出すことに失敗しているからである。
そのような「教養課程」は、結合どころか、分裂の因となるだけである。
我々が、真に必要とするものは、多様な専門知識を理解する能力である。そのような能力を持つものが、「知識社会」における「教育ある人間」である。
専門知識はそれぞれ、何についてのものか、何をしようとするものか、中心的な関心事は何か、中心的な理論は何か、どのような新しい洞察を与えてくれるか、それについて知られていないことは何か、問題や課題は何か、を知らなければならない。

よき「教育ある人間」は専門知識を一般的知識とする

対話を促すためには、その基盤たる専門知識を一般知識とする必要がある。

これについて理解がなければ、専門知識そのものが不毛となる。「専門知識」でさえありえなくなる。知的な傲慢とはなっても、生産的存在ではなくなる。
なぜならば、今日、重要な新しい洞察は、まったく別の専門分野、別の専門知識から生まれるようになっているからである。
専門知識は、真摯、厳格、厳密なままに理解されなければならない。
ということは、学者をはじめ、専門知識それぞれについて指導的な地位にある者は、自らの知識を理解させる責任を負うとともに、そのための大変な作業を進んで引き受けなければならない。
しかし、専門知識を真理すなわち一般的知識への行路とすることは、専門知識を有する人たちの責任である。
彼らは、知識を預かっている。


団塊Jr。エンジニアを生業としつつ、経済学→経営学→心理学へと関心が移ってきた変な人。ついに退職し、「知識志本主義社会」へ旅立つ。夢(妄想?)は、アダムスミスやドラッガーのように結果として新たな学問領域を打ち立てること。SF:戦略性/学習欲/内省/慎重さ/着想