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社会の変化の見通し

私が考える社会の変化の見通しについて、簡単に整理してみました。こういったビジョンに基づいて、世の中のいろんなことを眺めています。この見通しを起点に、さまざまな要素を掘り下げていこうと思っています。ゆえに随時更新します。

現状の変化の方向性とは?

(そもそも現実として)
「資本主義」の終焉
先進国では、概ね資本蓄積が終了しているといえる。それが、デフレの本質なのではないか?
そこから一歩考えを進めると、資本の蓄積を終えたということは、資本主義はその役割を終えた、と考えることが出来るのではないか。言い換えると、産業資本主義経済は終焉しつつあるのではないか、と言える。

この観点に立つと、当時はよく分かっていなかった、この本は結構大事なことを書いているのかもしれない、という気がしてきた。。

『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』
https://www.amazon.co.jp/dp/4532354072

「知識社会」の始まり
詳細はドラッカーさんの『ポスト資本主義社会』に譲るが、資本主義の終焉を迎えつつも、我々は知識社会を生きている、という認識で間違いはないと思う。また、知識は個人の頭脳に存在する(まあ、クラウド上にもあるけど(^^;)ゆえに、その個人の思い(志)が重要になってくる。これは言い換えると、知識志本主義社会に移行しつつある、と言えるのではないか。 

(ゆえに枠組みとして)
経済人モデルから幸福人モデルへ
産業資本主義は「経済人」をモデルとしていたが、知識志本主義社会では幸福を希求する「幸福人」モデルを想定して、社会設計をするべきではないか。
今のところ、私は「幸福人」を『自らの価値観に基づき、自らが群れと規定する集団の幸福の追求を最優先とする人』と定義している。

(主な担い手は)
民間セクターから社会セクターへ
となると、その社会を構成する組織は営利を第一の目的とするのではなく、組織の成員個々の志を第一とする必要がある。ゆえに、営利目的の民間セクターから、公益目的の社会セクターへと社会の担い手が変化していくのが妥当ではないか。

2050年、すなわち30年後の社会はどうなるか?

モノとサービスが満ち溢れる社会に
AI+ロボットによりモノとサービスが満ち溢れ、言い換えると、生活に欠かせない、衣食住といったモノや、教育(子育て)+医療+介護+交通手段といったサービスが、それほど大きな労力なく手に入るため、私有財産の意義が薄まり、私有財産権が発展的に解消するのではないだろうか。

知識創造の加速
私有財産権が発展的に解消するに伴い、知的財産権も発展的に解消するため、余計な障害が取り除かれ、組織を越えた知識創造が加速する。結果として、知識創造のサイクルたるSECIサイクルが社会全体に実装されているのが望ましいし、そうなるのではないか。

労働から仕事・活動へ
社会の生産性が飛躍的に向上することで、ハンナ・アーレントが言うところの労働から労働者が解放されるため、仕事や活動へ生活の重心が移行する。言い換えると、家事・育児への回帰となるのではないか。マルクス的理想郷への到達とも言える。

それでは、これからの30年間をどうするのか?

現在と未来のギャップをどう埋めていくのか?ということになる。

資本主義のメカニズムを利用した超効率化社会の実現
資本主義のメカニズムを利用して、AI+ロボットによりモノとサービスが満ち溢れる社会を早期に実現するようにする。GAFAによる(一時的な)支配も、この一環と言えるのではないか?と見立てている。

「まだら失業」に対するサポートが大切
一方で、巷間で言われているように、AI+ロボットによる失業も発生するのは事実。それも、不景気のように、社会全体で均質に失業が起こるのではなく、技術が発展した限られた領域での失業、すなわち「まだら失業」とも呼べるような失業が起こるものと想定される。
この状況下において『自己責任だ、自分でなんとかしろ』と私は言いたくないし、できれば、『お疲れさまでした。技術発展へのご協力、ありがとうございました。少しゆっくりしてから、また働いてください。』と伝えたい。
このメッセージが社会で共有されていれば、当該領域の労働者は、労働から解放されることから、技術発展に積極的に貢献するのではないかと思う。それは結果として、当該領域の労働者が、産業革命時のラッタイド運動ような行動に走ることを防ぎ、彼らにとっても、社会にとっても望ましいことではないだろうか。
巷間で話題となっているJGP(Job Guarantee Program:就業保証プログラム)などは、このメッセージを伝える、移行期の仕組みとして、最適ではないかと見ている。

『社会の効率化のボーナス』としてのBIに慣れる必要があるかも
モノとサービスが満ち溢れる社会になると、いわゆる労働は不要となり、人はある意味、消費するだけの存在になる可能性がある。徐々に『社会の効率化のボーナス』としてのベーシックインカム(BI)を増やしていき、来るべき、労働のない世界に備える必要があるかもしれない。BIの増加は間接的に起業を促す効果があると考えられ、「まだら失業」に対するサポートになる可能性がある。

移れる人から新時代へ徐々に移行していく
以上のプロセスで労働から解放された労働者を中心として、ハンナ・アーレントが言うところの仕事や活動を中心とした生き方に慣れていく、というプロセスが必要だと考える。それは、あえて、手間をかけて衣食住の満足度を上げることだったり、ボランティアとして、教育(子育て)+医療+介護に関わることだったりするのだろう。これもJGPと親和性が高いと思われる。

この観点から「今」を捉えなおす

以上の見立ての観点で、「今」起こっていることを整理してみたい。

「まだら失業」に対応できる仕組みが日本にはある
介護保険制度はJGPの一例と言えそうだし、私は補助金嫌いだったけど、地域おこし協力隊もその一環に思える。「まだら失業」に対応できる仕組みを日本社会は持っているのではないだろうか。JGPと言えるような仕組みは、他にも、かなり多く存在するような気がする。

いい意味での上場企業の国有化・共有化が進みつつある
賛否両論はあるだろうけど、年金基金や日銀による株式の保有は、上場企業の国有化・共有化と言えるのではないだろうか。いずれ、私有財産が発展的に解消し、年金の持ち方をタテ(個人の積み立て)からヨコ(同時代的な相互扶助)に名実ともに変える時に、この上場企業の株式の国有化・共有化はよい方向のサポートになると見ている。

コロナ禍はいい意味で予行演習になっている
コロナ禍による「まだら失業」の発生は、上述したAI+ロボットによる失業の発生と、失業者本人の責に帰するにはそぐわないという面で、本質的には同じであり、社会的な予行演習になっていると考えられるのではないか。彼らの不運な失業をどう社会的にとらまえるのか、その問いへの答えが問われていると思う。

コロナ禍は何を守るべきか、我々に問うている
防疫と経済の両立を目指すシビアな状況の中、我々は本当は何を守るべきなのか、ということを問われているのではないだろうか。そして、そこには絶対的な解はないものの、そのこと自身を皆が同時代的に考えることは大切ではないだろうか。

以下、参考文献

『知識創造企業』
https://www.amazon.co.jp/dp/4492520813



団塊Jr。エンジニアを生業としつつ、経済学→経営学→心理学へと関心が移ってきた変な人。ついに退職し、「知識志本主義社会」へ旅立つ。夢(妄想?)は、アダムスミスやドラッガーのように結果として新たな学問領域を打ち立てること。SF:戦略性/学習欲/内省/慎重さ/着想