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水たまりと池と変わらない無意味な喜び

NYの公園は夏になると、下の写真のように噴水が出て水遊びできるようになっているところが多い。

アリが出てくると春だな…と感じるように、水が出ると夏来たな…と感じる。ふうか氏は水遊びをとても愛している。

おとといもいつもどおり、ふうか氏は噴水でシャボン水の空容器に水を貯めていたのだが、ふと他の子が水たまりに水を運んでいるのを目にして、マネをし始めた。えんえんと飽きることもなく、噴水で水を汲み、水たまりへ流し込む。ふうか氏は何でも一緒にやってほしいタイプの幼児なので、わたしも水を汲み、えんえんと水たまりへと運んだ。

楽しかった。ふうか氏と遊ぶとき拷問に感じられるほど苦手な遊びもあるのだが、これは本当に楽しかった。そして、思い出した。わたしもまったく同じことをしていたと。しかも、小学5年生のときに。

わたしと友人Fは、工事がいつまでたっても始まらず空き地になっている場所に秘密基地をつくっていた。そして、秘密基地での基本任務はもっぱら池をつくることだった。
わたしたちは飽きることもなく、すこし離れたところに置きっぱなしになっていた青いシートに溜まった雨水を集めては、秘密基地本部のすぐ隣にあるくぼみに水を流し込んだ。やがてはそこでオタマジャクシを泳がせるのが夢だった。
もちろん蒸発する、土に沁み込む、水はたまらない。それでも、わたしたちはちっともめげなかった。嬉々として水を運び続けた。あの無意味な行為のなかに、充実としあわせと黄金の記憶があった。

ふうか氏と遊んでいて、それがわたしを見ていた母さんの視点と重なることもあるのだけど、この日はふうか氏と子どものころのわたしの視点が重なって、あの頃の感覚をすこし思い出せた。

水たまりと池と変わらない無意味な喜び。

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